第5話
親元を離れてじいさんと本格的に暮らし始めてみたものの、それは変わりがなく、日々はただ無益に過ぎて行くだけだった。
そうするうちにユキオは無気力から次第に「ヒマ」を感じるようになっていた。
何もしたくないのにヒマだと思うこと。それは時間を持てあましているということだった。
じいさんの家にはパソコンもなければゲームもないし、テレビのチャンネル権はじいさんにあって、では留守中に好きなものを見ようにも漁師は深夜から早朝の仕事で日中から夜にかけてはずっと家にいるからユキオがテレビを見る隙はない。
何もやる気が出ず、何をしていいかも分からなかったユキオは、何かしていないと今度は「もたない」と思い始めた。
なんでもいい。時間をやりすごせたら、それでいい。そう考えたユキオはアキミツの遺品を整理することにした。即ちアキミツの遺した絵を整理することに。
それは膨大な量だった。ユキオは毎日自宅に戻りアキミツのスケッチブックや画用紙を抱えてじいさんのうちに運び、丹念にそれらを眺めてはきちんと整理し始めた。
これまでアキミツの絵をこんなにきちんと丁寧に見たことがないユキオは、その情熱に、その生真面目さに目を見張った。
どれも力強く、時に繊細で、あのアキミツにこんな一面があったのかと愕然とする思いだった。
気がつくとユキオはアキミツの絵をなぞりはじめていた。アキミツの生きた軌跡を辿るようにして。線のひとつひとつから、点のひとつひとつからアキミツを感じ、知りたかった。そうしなければならないような気さえしていた。
そうしてじいさんの元で一緒に暮らし、いつしかユキオはアキミツの代わりに絵を描くようになっていった。
ユキオは見よう見真似で懸命に、下手なりにひたすら描いた。
それまで絵など描いたことのなかったユキオだが、次第にのめりこみ、やがて大検をとって美大を受験するまでに立ち直っていった。描いている間は何もかも忘れることができた。それがユキオの見つけた「救い」だった。
もちろんそんなユキオを支えたのはじいさんだった。最初に自分の言う通りにしろと言ったじいさんは、しかし、実際にはなにも言わず、なにを教えることもしなかった。
するといえば、ユキオに食事を作らせ、洗濯をさせ、晩酌につきあわせて酒を飲ませ、時々縁側で将棋をするだけで説教ひとつするでなし、ただそこにいてユキオのすることを黙って見ているだけだった。
それでもユキオには伝わるものがあった。味噌汁が辛いだの、出汁巻きが固いだの、お茶が薄いだの文句をつけることは始終だったけれど、そのいちいちに理由があり、理屈があって、ユキオは生活のこまごまとした雑事の中から思いやりや気遣いを学び、食べることから生きることを学んだ。
相手の体調を気遣って食卓を整えること、洗濯物ひとつとっても干し方畳み方に道理があった。
少なくともユキオはじいさんが飲み過ぎた日の翌朝の仕度には蜆汁を作るぐらいなことは覚えたし、風邪をひきそうな時には首に手拭いをまくぐらいはしてやれるようになった。
そういったことを自分は今まで一度も考えたことがなかったのだ。自分のすることが誰かの為になるということ、自分の言葉が行動がなにかに作用するということ。そう思うとユキオはこれまでの自分の人生が暗闇の中にあったと思った。なにも見ないのは見えないのと同じだと。
今、ユキオの母親は2カ月ほど前からまた病院にいる。
入院とは聞こえはいいが、隔離とでも言おうか、ちょっと陰惨な雰囲気漂う精神科のサナトリウムに軟禁も同然で、出来る事ならユキオはじいさんを連れ行きたくないと思った。
ユキオは病院には週に2~3回は行くようにしている。父親と交代なのだ。行っても母親はユキオが誰だか分からないことがある。無論、父親のことも。ユキオは母親が自分に対して他人の顔するのを見るのがせつなかった。
と同時にそんな場面をじいさんに見られるのが辛かった。今となっては母親だけがユキオの罪を許さない、永遠に忘れさせることのない存在でもあった。
かつて、ユキオは一つの小さな家庭の、幸福なキャラバンであった。
家族という小さな隊列は時に困難に出会い、オアシスに憧れ、月を夢見て荒涼とした砂漠を進む。弟のアキミツはいつの間にか道を逸れ、迷い、そのままいなくなってしまったようなものだ。
そして消え去ったアキミツを探して母親はキャラバンを離れ、砂漠を彷徨っている。そうしている間にもキャラバンは進み、今やユキオも父親もそれぞれ彼らから遠く離れてしまった。
朝食の支度をするとユキオはじいさんと二人でそれを食べた。食器はじいさんが洗ってくれた。
猫は縁側のじいさんが座っていた場所に今度は自分が座って、夏の日差しに布団を干すように自分の毛皮を干している。
「さ、行くとするか」
じいさんはそう言うとユキオの肩をばしっと叩いた。
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