第4話

 翌朝、じいさんは縁側に腰掛けて猫を膝に抱いていた。


 猫はじいさんの飼い猫で、今ではユキオが面倒を見ている。が、もともと外猫だったのが、じいさんが死んでからますます外に出かけてはどこで何をしているのか帰ってこない日もあり、面倒を見ているとは名ばかりの存在になっていた。


 猫もユキオになついていないわけではないが、ただ、ユキオ以上にじいさんになついていて、誰が主人かをちゃんと認識しているから余計に猫とユキオの関係はクールなものになっていた。


 日頃出歩いてばかりの猫が自然な調子でじいさんの膝に乗っているのを見た時、ユキオはなんとなく猫が家にいたがらない理由が分かったような気がした。


 猫は嬉しそうにじいさんの膝から伸びあがり、顎の辺りに自分の顔を擦りつけていた。


「おはよう」


 ユキオが背後から声をかけると、じいさんは猫を抱いたまま、

「おう」

 と答えた。


 その手は絶えず猫を撫でやっていた。


「朝飯、食う?」

「ふん」

「パンでもいい?」

「ふん」


 じいさんの返事の合間に猫が咽喉を鳴らすのがはさまる。ごろごろともふごふごともとれる、鼻息のような、鳴き声のような奇妙な音だった。が、くつろいで幸福そうな音だった。


「ユキオ」

「なに」


 ユキオは呼びとめられて立ち止まった。


 じいさんはやはりこちらを見ないで言った。


「こいつも年とったなあ……。毛並みが萎びたみたいになっとる」


「でも、毎日どっか出かけてるから元気なことは、元気だと思うよ」


「こいつがうちに来た時はまだ毛糸玉ぐらいしかなかったのにな」


 猫はまだ咽喉を鳴らしている。


 この、白と黒の混じったブチ猫を拾ってきたのは弟のアキミツだった。


 幼い頃、アキミツが瀕死の仔猫を抱いて泣きながら駆け込んできて、じいさんとばあさんに猫を助けてくれと懇願したのが始まりだった。


 じいさんはそのことに対して当初いい顔をしなかった。まだ生まれてわずかの仔猫である。今死ぬのも自然淘汰だし、生き物の摂理だと思った。ましてや野良猫である。生きられぬ命ならばそれまでと、じいさんは冷たいかもしれないが、冷静に、しかし静謐にそう思っていた。


 が、アキミツがあまりに泣くので、とうとう最後は自ら仔猫をシャツの中にいれて温め、ミルクをスポイトで与え、糞尿の始末もしてやった。そうして生き永らえた猫だった。


 しかしじいさんの言うようにかつての仔猫も今はいつ死ぬとも知れない老齢である。


 ユキオは不思議だと思った。一度は諦めた命も永らえてみれば愛おしく、二度と諦められない生の執着の中にある。あの時助けなければ猫はここにはいなかったのだから。


「じいちゃん、病院本当に行くの」


「当たり前だろう」


「でも行っても母さん分かんないと思うよ」


「いいんだよ、それでも」


「……」


 今度こそユキオは縁側を離れ台所へ入った。


 ユキオの母親は、心の病気で病院を出たり入ったりしている。それはもう何年にもなる病気で、じいさんは生前もずいぶん気にかけてしょっちゅう見舞いに行っていた。


 母親の病気の原因は、アキミツが死んだことだった。


 アキミツは中学生の時、深刻ないじめに耐えきれずビルから飛び降りて自殺した。


 家族の誰も、アキミツがそんなにも苦痛に耐えていたとは知らなかったし、いじめがそれほどのものとも知らなかった。


 その時も、死は突然にやってきてすべてを奪い去って行った。


 母親は物静かで絵ばかり描いて、整った顔をしていて、物腰の柔らかいアキミツを愛していただけにその死は彼女の心に強烈な衝撃を与えた。


 それはあたかも散弾銃を撃ち込むようなもので、母親の肉も骨もめちゃくちゃに破壊し、狂ったような涙の後にはもう何も考えることができないほどの巨大な穴を穿っていた。


 おとなしいアキミツがいじめにあっていた頃、ユキオは高校生だった。


 子供の頃と変わらぬ活発さと能天気さと、それこそ子供じみた無遠慮で無知蒙昧な高校生として馬鹿みたいな学校生活を送っていた。


 部活は剣道部。高校三年の初夏。最上級生となったことで厳しい先輩たちのしごきから解放され、今度は自分達の番だとでも言わんばかりに毎日後輩たちをしごきあげていた。


 なぜあの頃そんなことができたのだろう。固く冷たい道場の床に何時間も正座させたり、理不尽に竹刀でぶったり、腕もあがらなくなるほど素振りをさせたりしたのは、自分がそうされていたことへのまったく理不尽な報復だったのか。


 理由はなんであれ、ユキオをはじめとする他の部員も当然の権利を与えられたかのように苛烈な振る舞いに明けくれていた。


 それが楽しかったのかと問われると、そういう感情も持たないほどユキオは何も考えてはいなかった。


 何も考えないから周囲のことも目に入らず、ましてや弟がいじめにあっているなどとは想像もしなかった。


 アキミツもまた幼い時分から神童と謳われる才能の片鱗を見せることもあり、ただ絵を描いていれば幸せで、言葉少ない分を画力でカバーするような控えめさで、学校で繰り広げられる執拗な嫌がらせも反撃するだとか、誰かに相談するとか考えもしなくて無言で耐えるよりは他になす術を持っていなかった。


 いじめはどのように伝播し、どのようにさらに悪質に変化していったのだろう。それはユキオも知る由はなかった。


 が、アキミツの死後にはっきりと分かった事が一つあった。


 アキミツのクラスで特にいじめの主導権を握っていた生徒の兄弟というのが、ユキオの後輩であることだった。


 ユキオは悲嘆にくれる中、初めてすべての連鎖が明らかになるのをはっきりと感じた。


 ユキオが部活で「指導」と称して行ってきたこと。仲間と笑いながら、残酷なまでに後輩をしごいたこと。水が高いところから低いところへ流れるように情報は流れていき、互いの「弟」たちへ受け皿として貯水され……やがて溢れたのだとユキオには想像できた。


 次々と明らかになる事実にユキオは奈落の底に突き落とされた。


 いかに自分が無神経に人を傷つけてきたか。その報復を知らぬうちに弟が受けていたとは。しかも、気付きもしないで。


 ほとんど暴露的に事件の全貌が解明されていくうちに、とうとう母親が発狂した。


 悲しみと怒りが強すぎ、それをどう、誰にぶつけていいのかも分からなかったのだろう。


 母親はある日血の涙を流しながら、ユキオに向かって言い放った。


「もともとはあんたのせいだったんじゃないの!」


 と。


 その言葉はアキミツの死後ずっとユキオの中に燻っていた言葉だった。それを母親が決定的にした。ユキオは返す言葉がなかった。


 母親はその日からすべてのものを憎むようになり、憎むことがいやさに黙り込むようになり、とうとう壊れてしまった。


 ユキオは弟と共に母親も失ったと思った。


 実際、母親はアキミツの死を認めることができず、今もアキミツが生きていると信じている。無理に信じさせようとすると喚いたり暴れたりし、最後はひどく自閉した状態になる。そうなると手がつけられない。だから、母親は必然的に病院を出たり入ったりするようになる。それを何年も繰り返し、今に至っていた。


 ユキオは弟を死なせ、母親を壊してしまった罪悪感により、初めて人間の心を手に入れたような気がした。でなければ気付きもしなかったのだから。


 それは皮肉で絶望的なことだった。


 ユキオはもう学校へ行くことができなかった。自分のしてきたことを思えば、もう、二度と誰にも会いたくはなかったし、自分の些細な言動でさえも誰かを傷つけ、死においやることの可能性を考えると全身が震え、とても立っていることもできないほどだった。


 高校を休学し、結局辞めてしまい、家から一度も出ず半年ばかり過ぎた頃、じいさんがユキオのところへやってきた。


 じいさんはひきこもりとなってすっかり痩せ衰えたユキオを無理やり引きずり出し、港へ連れて行った。


 そしてまだその頃は漁師現役で、係留されている船を示し、言った。


「お前痩せたな。ずっと家にこもってると病気になるぞ。まあ、でも、心配せんでもええ。儂がお前を鍛え直してやるから」


「……」


「だから、ユキオは儂と一緒に暮せ」


「……」


「そんでな、儂の言う通りにせえ」


「……」


「ユキオ、返事せえ」


 ユキオはそう促されても答えることができなかった。ただぼんやりと腑抜けた目で海を見ていた。


 そんなユキオにじいさんはきっぱりと厳しい語調で続けた。


「できんのか」


「……」


「できんのなら、死ね」


 ユキオは驚いてじいさんの顔を見た。じいさんは怖い顔でユキオを睨んで、


「死んで誰かが喜ぶんなら、死ねばええ。死んでアキミツが生き返るんなら、お前が代わりに死んでやればええ」


「……」


「それもできんのか」


「……」


「そんなら、生きろ」


 気がつくとユキオの目に大粒の涙があふれ出していた。


 じいさんのたくましい手が肩におかれ、ユキオは洟水を垂れてしゃくりあげながら激しく泣いた。


 生きるより他に道はないのだと、じいさんが静かに付け加えた。命とはそういうものなのだ、と。


 じいさんはユキオのしたことをすべて知っていた。と同時に、ユキオが母親から受けた罵倒も。自分を責めていることも、知っていた。


 けれどじいさんはユキオに「お前は悪くない」とか「お前のせいじゃない」などという慰めは一切しなかった。


 といって責めることもしなかったので、ユキオはじいさんが自分をなんと思っているのか分からずひどく不安になった。


 なにをすればいいのかも分からなかったし、何もやる気が起きなかった。

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