第3話

 じいさんが帰って来たのでユキオは慌てて買い物に行って食卓を整え、一緒に晩酌をした。 


 ユキオはお盆だから精進でなければいけないのかとずいぶん迷ったが、そういう淡泊で老人くさいものを健啖だったじいさんが好くわけがないので、スーパーで刺身やじゃこ天を買ってきて体裁を整えた。


 念のため、刺身こんにゃくや胡麻豆腐なんかも買ってきたが、じいさんは出されたものを無言で眺め、これもユキオが買ってきた大黒正宗の生酒を生前愛用していた大ぶりな蕎麦猪口に注いで飲んだ。


 じいさんは洒落た杯やら普通の猪口ではまどろっこしいというので、いつも蕎麦猪口でぐいぐいと酒を飲んでいた。


 蕎麦猪口は藍色の蛸唐草で、揃いの蕎麦徳利もあったのだが、これはじいさんの死後にユキオが割ってしまってもうなかった。


「ユキオ、大学にはちゃんと行っとるんか」


「行ってるよ」


「ちゃんと勉強せえよ」


「ふん」


「親父はどないしとる。仕事は順調か」


「ふん」


「時々は会ってるんか」


「ふん」


「お前、たまにはあっちに帰って一緒に飯でも食ってやれよ」


「分かってるよ」


 ユキオはじいさんが生きていた頃からそうであったように、面倒そうにぶっきらぼうに返事をした。


 ユキオは父親と仲が悪いわけではないのだが、今やすっかりじいさんの家での気ままな暮らしが身についてしまって、今更父親と過ごすのも照れくさくもあり、触れられればついぞんざいに答えていた。


 が、それよりもユキオは子供の頃にあれほど漁師になると決めていたのに、今は美大の学生で、そのことをじいさんがなんと思っているのかが心の隅に座取っていた。


 船はじいさんが漁師を廃業した時に売ってしまっていた。それについてもじいさんがなんと思っていたのか、ユキオが知るより先にじいさんは死んでしまった。


 それはもう本当に突然、夜中に寝ている間にひっそりと心筋梗塞を起こし、苦しむ間もなく、ぽっくりという言葉がぴったりな死に様だった。


 だからといってはなんだが、ユキオはじいさんの心の中だとか、もっと大切な色々なことも話す機会を持つことができなかった。


 もし、死ぬと分かっていたら。それはこの一年の間にずっとユキオが思っていたことだった。


 後悔という言葉で語るにはあまりに複雑な、けれどそれ以外にどんな言葉で表現すればいいのか分からないが、ユキオはじいさんが死ぬことがあらかじめ分かっていればもっとしてやりたいことだとか、話したいこともあったと思っていた。


 しかし、一方でよくよく考えてみたら、もっと大きな意味では「死ぬことは分かっていた」はずだった。


 心臓が悪かったとか体が弱っているとかいうこともなかったけれど、それでもじいさんとていつかは必ず死ぬ。ユキオだって、いつの日かは死ぬ。生きている時間には限りがあり、毎分毎秒は本当に飛ぶように過ぎて行く「今」一瞬でしかない。そう考えたら「分かっていた」ことだ。それなのにユキオがじいさんの不在を寂しく思い、後悔を募らせるのは滑稽なことだった。


 ユキオは気を取り直してじいさんの蕎麦猪口に酌をしてやると、


「ばあちゃんは? どうしてる? そっちにいるんだろ」


 と尋ねた。


「ふん。まあ、機嫌ようしとるよ」


「そうか」


「ちょっと若返っとる」


「へえ?」


「ばあさん、若い頃えらい別嬪でなあ。そう言うたらいっつもそんなことない、自分は十人並みやって謙遜しとったのに、まんざらでもなかったんやろうなあ。あの頃の姿になって、にこにこしとる」


「ふうん。じゃあ、じいちゃんは? じいちゃんも若返ってんの?」


「いや、儂はこのまま」


「なんで」


「そりゃあ若い頃は儂も男前よ。逞しくて、羽振りもよかったよ。でも、あの頃に戻りたいかっていうとそうでもないんよ。儂は今も昔も自分の好きなことしてきたし、後悔もないし、本当の男前っていうんは年は関係なく死ぬまでずーっと男前やろう」


「そしたらハゲでもいいわけか」


「ハゲぐらいがなんだ。くだらん。儂は自分に恥じることなんか一個もないわ。むしろ年食った自分はもう迷うことも悩むこともなくて余計に男前だと思っとる」


「ふうん……。ところで、なんでばあちゃんは帰ってきてないの? 俺、若くて別嬪なばあちゃんに会いたかったなあ」


「今年は実家に帰るって」


「あ、そう……」


 ユキオはばあさんのことももうちょっと詳しく聞きたかったが、それ以上にもう一つ聞きたいことがあった。


 弟のアキミツのことだった。


「ユキオ」

「え?」


 じいさんが蕎麦猪口を卓袱台に置くと、じいっとユキオの目を見つめてしばし黙った。


 じいさんの目は透明感があり、清い水のように澄んでいる。それは長年海を見て暮らしてきたからだろう。深く静かな色は時々見る者をすくませるが、やがてはその温かさに崩れるように絡めとられていく。


 ユキオはその目をもう一度見つめられる日がくるとは思いもしなかった。


「ユキオ、明日は病院に行くからな」


「病院? なんで? どっか具合悪いの?」


「儂がなんで具合悪くなる。死んでるのに。お前のお母さんやろ」


「……」


「また入院やろう」


 そう言われてユキオは俯き、言葉を失った。


 一体、死んだ人間というのはどこからこの世を見ているのだろう。なにもかも見て、なにもかも知っているのだろうか。ユキオは急に不安になった。


 もしもじいさんが死んだ人間の特異な技としてユキオを見えざるところから監視しているとしたら。ユキオは友達を集めて毎晩のように家で酒を飲み、平気で学校に遅刻し、課題の提出に間に合わず、庭は雑草生え放題、部屋の隅には埃がもくもくとしているような自分の生活の乱れはもちろんのこと、じいさんから叱られるようなことばかりしているのがバレているとしたら。


 ユキオは子供の頃にじいさんにぶん殴られて、縁側から庭へ華麗なるダイビングを決めて人事不省になったことを思い出した。


「ユキオ、飲まんのか」

「飲むよ」


 ふと気付くとじいさんが大黒正宗の瓶を持ち上げて、笑っていた。


 死んだじいさんの酌を受けながら、ユキオは死というものが自分にはまるで理解できない、遠いものに感じていた。


 それはユキオが若いということに他ならないのだが、本人はそうは感じておらず、あたかも高尚な哲学のような、または対岸の火事を見るようなそんな感覚で、こうして目の前に死んだじいさんがいることでさえも深く考えるよりはただ「いるな」というだけにしか考えることができなかった。

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