第2話

 ばあさんが死んだのはユキオが中学生の時で、じいさん同様に孫二人を可愛がってくれていたのでその死にユキオは泣いた。じいさんも泣いていた。


 ばあさんの葬式は近くの葬儀場で行われ、花と香華に彩られて、遺影も普段割烹着を着て忙しく立ち働くばあさんではなく、いつ撮ったんだか取り澄ました顔で、知らない人のように見えた。


 ユキオは死というものがこんな風にして人と人とを分つのだと思うとやりきれない気持ちになった。


 時間というものは一筋の流れとして繋がっていると思っていたし、今日と言う日もそのはずだったのに、ばあさんは死によってその流れを断ち切り、もはやユキオやじいさんたちとは遠い存在となっている。


 死を間におくだけで、こんなにも何もかもが違ってしまうというのをユキオは初めて知った。


 実際、ばあさんの「死」はユキオが出会う初めての「死」だった。


 通夜の晩、棺を据えた会場には誰もおらず、大人たちは控室で弁当を食べていた。

 ユキオとアキミツは食欲もなく、二人ならんでパイプ椅子に腰かけてぼんやりと祭壇を眺めていた。


 安全のためか蝋燭の代わりに蝋燭の形をしたランプが灯り、線香だけが絶え間なく静かに燃え尽きてまた新しく点けて、燃え尽きて、それだけを繰り返し、時を刻んでいた。


 アキミツは泣き腫らした目をして、恐らくはばあさんのことを想ってだろう、幾度も啜り泣き、ポケットからハンカチを出しては涙を拭った。


 その隣りでユキオは険しく眉を寄せ、むっつりとばあさんの遺影を睨んでいた。


 するとじいさんが控室から出て、ビール臭い息を吐きながら二人のところへやって来た。


「ここにおったんか。二人ともメシは食ったんか」

「……」

「いらんのか」

「……」

「……」


 二人ともうんともすんとも言わなかった。アキミツだけが洟水をすすり、その音が静かな会場の天井に響いていた。


「ユキオこっち来てみろ」


 突然、じいさんが棺の横に立ちユキオに手まねきをした。


「え?」


 ユキオは初めて言葉を発した。


「いいから来てみろ」


 ユキオは言われるままにのろのろと立ち上がり、じいさんの傍へ寄って行った。


 棺の中にはばあさんが死んでいる。白い着物を着て、死化粧でも施しているのだろうか生きていた時よりも妙に顔が白くつやつやしい。肌理もこまかくて陶器のようでさえある。


 金色の縁どりのある布団みたいなものをかけられ、胸の上には数珠が置かれていた。


 ユキオはばあさんを好きだったにも関わらず、この時、正直言って死んだばあさんが怖かった。


 ばあさんが怖いのではなく、死んでいるのが怖かった。


 見れば見るほど思わず目をそむけたくなるような、決して気持ち悪いとかではなくて、ほとんどうろたえるような感じでどうしていいのか分からなかった。死んだばあさんを前にして、何を思い、何を言えばいいのかさえも。


 なんとなく焦点をあわせないように、あらぬ方向を見ていると、そんなユキオをしばし眺めてから、一言、


「さわってみろ」


 と言った。


「え」


 その言葉にユキオは驚き、困惑した。が、それより先にじいさんは素早くユキオの手をつかむとぐいと棺の中のばあさんの顔に手のひらを押しつけた。


 その瞬間、ユキオは全身総毛立った。まさにぞっとするほどばあさんは冷たく、固かった。


 思わずじいさんの手を振りほどいて逃れそうになったが、じいさんの手はがっちりとユキオを捕まえていて、時間にしたらわずか数秒のことだがユキオには気が遠くなるほど長く感じられた。


 じいさんの手から力が抜けた時、ユキオはゆっくりとばあさんから手を離した。

 心臓が縮こまり、緊張と、半ば恐怖で早鐘を打っていた。


 じいさんは棺の中のばあさんを見つめながら言った。


「死んだらこうなるんやぞ。覚えとけ」


 ユキオはまだ手のひらに残るばあさんの感触に、耐えきれず泣き出してしまった。


 じいさんは棺の蓋を閉めると、ユキオの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。


 アキミツはそんな二人を見ながら、椅子に座って啜り泣いていた。


 料理が上手くて、ユキオたちに手作りのおやつをふるまってくれたこと。手まめであることを証明するような、いつも濡れて赤味を帯びた手。その手にはどういうわけだか常に輪ゴムがはめてあり、あれは一体なんに使うんだか、使っているところは一度も見なかった。


 質素倹約を旨とし、時々は飲みすぎるじいさんを叱り飛ばし、松平健の隠れファンだったばあさん。


 思いだせるのは笑顔ばかりだった。ユキオは胸に去来する思い出の数々に泣けてしょうがなかった。


 しかし、棺桶の中にも遺影にもそんな姿を偲ぶものは何もなく、ただ型通りの遺体と葬儀があり、「死」が横たわっているだけだった。


 ユキオは悲しさと同時に悔しさみたいなものを感じていた。


 その時、じいさんも同じ気持ちになったのだろう。翌日の葬儀の後、斎場での待ち時間の間にじいさんはユキオに言った。


「儂が死んだらなあ」


「……」


「こういう葬式はせんでおいてくれよ」


「……」


「家でやりゃあええ。近所の人も来やすいしな。花も香もなんもいらんからな。お経も一番安いやつにしとけよ」


「……」


「なあ、ユキオ。お前とアキミツで、儂を送ってくれよ」


 と。


 昨年、ユキオはこの時のことを覚えていたので、じいさんが死んだ時はそのようにした。


 葬式は家で。花も香も、棺桶も、坊主への紙包みも一番安く。遺影は茶の間で相撲を見ていた時の、キャラコのステテコ姿のものを選んだ。


 そんな写真なんてと随分反対されたけれど、ユキオは頑として他の写真を使うことも修正の手をいれることも拒んだ。


 ユキオにとって、いや、家族にとってのじいさんは漁に出る時の姿と、茶の間でくつろぐ姿が真実であり、そうでなければじいさんではありえなかった。


 会葬者が家に入りきれず縁側や庭先にこぼれ出たが、ユキオは約束を守った。


 守れなかったのはそこにアキミツがいなかったことだけだった。

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