夏が来れば思い出す

三村小稲

第1話

 お盆に玄関の格子戸をがらがらと開けてじいさんが帰って来た時、その孫である服部ユキオは縁側に寝そべって雑誌をめくりながら夕方の空気を楽しみながら呑気に酒を飲んでいた。


 夏のことなのでまだ空は明るく、蚊取り線香の細い煙がするすると立ち上っていた。


 じいさんはユキオを見ると言った。


「おう、ユキオ、今帰ったぞ」


 ユキオは驚いて飛び起きた。


 じいさんが死んでから一年後の夏だった。



 迎え火も焚いていないのに、日も暮れないのに、帰って来たというじいさんにユキオは不満たらしく、


「なんで急に……」


「なんでって、盆だから」


「……でも普通は夜になってから……」


「馬鹿、お前、なに言ってんだ。早く出ないと混むんだよ」


 どんな道筋を通ってどこが混むのか知らないが、とにかくじいさんはさっさと仏壇の前に行き自ら蝋燭を灯し、線香を点けた。


 自分で自分の位牌を拝むじいさんの背中は、生前の漁師として鍛えたもので、確かに見覚えがあり懐かしかった。


 ユキオは人の別れというものが突然であるのと同じように、邂逅も突然なのだなと思った。


 しかし、おかしなものである。じいさんは確かに一年前に心臓でぽっくり死んだのに、盆だからといって当然のように玄関から帰ってくるとは。


 ユキオは困惑していた。じいさんの死後、一人で暮らすようになったその家にはもはやじいさんの好むようなものはなにもなかった。冷蔵庫はほとんど空っぽで、酒も冷凍庫にウォッカがきんきんに冷えているだけで、じいさん愛飲の大黒正宗など当然用意はなかったし、食べるものも何もなかった。


 しばし仏壇に手を合わせていたじいさんが、くるりと向き直った。


「で」


「え?」


「ユキオ、元気にしとったんか」


「……」


 じいさんの言葉にユキオはこの一年という月日が不意にぐっと胸にせまってくるのを感じた。


 じいさんと過ごした日々。そしてじいさんが死んでから、今日までのこと。


「ふん」


 ユキオは鼻先で返事をした。


「そうか」


 じいさんは頷き、ポケットから煙草を取り出して百円ライターで火をつけた。


 その動作はたまらなく懐かしいものだった。こんな光景をこれまで何千、いや何万回見ただろう。卓袱台の前に座るじいさん。おっそろしく日焼けした顔は皺が深く、巨大な手のひらの皮は分厚い。夕方の相撲中継を見ながら晩酌する姿。幼い頃からその傍に侍ってはべってきたこと。


 ユキオは尋ねた。


「……今日、メシなに食う?」


 しかしユキオは生前いつもそうであったように、じいさんが「うまけりゃなんでもええ」と言うのを知っていた。


 もともとじいさんの家から歩いて十五分ほどのところにユキオにはちゃんと両親と住む家があった。が、子供の頃からユキオは毎日じいさんの家に通い、入り浸って育った。


 ユキオはじいさんが好きだったし、じいさんの家が好きだった。


 海のそばの古い家で、いつも潮風が家中を吹き抜けていくところや、日に焼けて白っ茶けた縁側、庭の朝顔。のどかな空気がそこにはあった。


 じいさんは船を一艘いっそう所有する地元の漁師で、幼い目には船に乗るじいさんの男らしさや清々しさが大層格好良く映っていた。


 だからユキオは子供のころ「将来なにになるのか」と聞かれると決まって「漁師」と答えていた。


 じいさんもそんな風に慕ってくれる孫が可愛かったので、それでは船は大きくなったらユキオとその弟のアキミツにやろうと約束してくれた。


 下町育ちのガキ大将でやんちゃなユキオに比べて、弟のアキミツは大人しく、色白で、しょっちゅう女の子に間違われる子供だったから、ユキオは「アキミツに漁師は無理だから、船は俺のもんだ」と内心思っていた。


 一方、アキミツも弱虫で泣き虫の自分が漁師になどなれるわけがないと思っていたから、船をくれると言われてもそんなに欲しくはなかった。兄であるユキオがなりたがっているのだから、自分は遠慮しよう。自分は陸から船を眺めてそれを絵に描くことの方が好きだから、ユキオの乗った船を描こう。そう思っていた。


 しかしじいさんが身体つきも貧弱なアキミツに、頭から「お前に漁師は無理だ」と言わないところが嬉しかった。


 実際、じいさんにとって二人の孫はそれぞれの個性が真逆のところにあっても、同じ孫であることには変わりなかった。


 親も手を焼く暴れ者で学校の成績も悪かったけれど、弱い物いじめをするような卑劣さはなく、ただ子供らしく明るいユキオと、誠におっとりとしてお行儀がよく、成績もよかったが、あんまり大人しいから近所の悪童にいじめられては毎日泣かされてばかりのアキミツ。どちらも同じだけ可愛く、同じだけ手がかかった。


 じいさんはアキミツを守ってやるようにユキオに言い聞かせ、


「男は弱いもんを守ってやらんといかん。それでこそ、男や。そうでなかったら、船には乗せられん」


 と告げ、アキミツには、


「船も、この家も、儂が死んだらお前ら二人のもんやからな。アキは兄ちゃんを手伝ってやらんといかんよ。よう覚えておけよ」


 と言った。


 この時の言葉をユキオは今でもくっきりと鮮明に思い出すことができる。じいさんが自分とアキミツに一つずつ家の鍵を握らせてくれたことも。その日から鍵はユキオの宝物になった。

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