空を見た

 3月1日___

 私は、学校の屋上から風に乗った桜と共に天を仰いだ。


 脳内を走る、3年間の記憶に私は小さく笑みを浮かべた。学校に、家に、バイト。溜まりに溜まった疲労がいつ私の中で爆発するのか分からない時期もあった。手をたたいて笑うクラスメイト。冷たい目をして私を見下ろす両親。私の些細な言動でその気になる気持ち悪い大人たち。気が付けば私という存在は失われていた。いつだって痛い目を見るのは私。苦しい思いをするのも私。捨てられるのも私。不幸は私のお友達で、私と不幸は共に生きてきた。


 これって単なる被害妄想?自己憐憫?違うよ。だって、私の心を知っているのは私だけだもの。私の感情は私だけのものだ。私のつらさを理解することはできるけど、分かることは誰にもできない。例え同じ境遇にいたとしても、環境が違えば心の強さも違う。周りに一人でも頼れる人がいれば、いくらか余裕ができるんだろうけど。私にはそんな人、もういないから。おばあちゃん、おじいちゃん、弱い私でごめんね。言いつけを守れない人間で、ごめんなさい。私はきっと地獄に落ちるだろうけど、二人は天国でうまくやれてるはずだよね。自分を何度も傷つけて、自分を殺す私には天国に行く権利なんてないんだ。私の幸せを望んでくれている人を、生きる道を指し示してくれた人を裏切るような。こんな私なんて、生きる資格がないんだ。誰かの死を悲しむ資格なんてないんだよ。


 別に怖くはないよ。心残りなんてこの世界のどこにもないから。空を見上げると、黒く淀んだ闇が私の首を絞めつける。明るく世界を照らすあの太陽は、今日も私の光を奪っていく。空中を下りていく感覚が、堪らなく気持ちよかった。この世界に、ようやくさよならが言えるよ。そう思いながら地面が迫ってくる頃、私はゆっくりと目を閉じた。




 目が覚めると、私は暗闇の中にいた。見たこともない暗闇に包まれて、自分が目を開けているのかも分からない。明かり一つない世界に、恐怖心が芽生え始めた。誰かいないのかと、叫ぼうとして口を開いた。しかし、音が響くことはなく、ただ口を動かしているだけだった。続いて体を動かそうと足を踏み出す。ところが、足に力を入れても動くことはなく慌てて足元を見てみると、私の下半身は沼のようなものに沈んでいるた。どうやら目は見えているようだ。どうにか動けないかと、また周りを見渡してみる。


 すると、上の方から強い光で照らされて目を細めた。どうにか目が開けられるようになり、光の元を目で辿ってみる。そこには、人ひとりが昇れそうな幅の階段が、暗闇の中から切り取られたように存在していた。その先には神々しいほどに装飾が施された扉が。いったい何の扉だろう。暗闇の中に強い光を放つそれに目を奪われた。いつの間にか、私の下半身を埋めていた沼のようなものはなくなっており、私は光の階段へと進んでいく。一段一段ゆっくりと、緊張感を覚えながら十数段先の扉へと手を伸ばす。取っ手に手をかけようとしたとき、突然どこからか声が聞こえてきた。


「その先に行けるのは、閻魔が許したもののみぞ。そなたにそこをくぐる許可が出た覚えはないが」


 声に驚いて伸ばしかけていた手を引っ込めると、何者かに反対の手を掴まれ、振り向かされた。そこには白衣びゃくえの上に白い羽織を身に着け、アルビノのような白い髪に赤い目をした女がそこに立っていた。肌は白く、人には出せない後ろの扉のような雰囲気を持った彼女は苦々しげに呟いた。


「貴様も自ら命を絶ったのか。最近の現世は一体どうなっているんだ」


 その言葉に、思わず肩を震わせた。自分から死を決断したものの、いざ他人から言われると安易な決断だったのかも、と思わされた。だけど、あの世界は私には生きにくかったのだ。今更、誰になんと言われようともう遅いのだけれど。


「まあいい、貴様の名は」

「まつ......小野葉月」

「では葉月、その先の扉がどこにつながっているのか知っているか?」

「いえ、知りません」


 まるで説教を受けている気分だ。彼女はため息をつくと、私の右手を掴んで階段から降りていく。初めて来た場所で、見たことも無いのに知っている訳がない。そこにあるものに不用意に触れることは、かなり危険なことだったかもしれない。気を付けよう。もう死んでいるから、気を付けることはないかもしれないけど。彼女に手を引かれるがまま歩いていくと、どこからか花びらが飛んできた。花びらは私の肩に触れると、儚く消えていく。


「ここはあの世とこの世の狭間。さっきの扉は奈落へと繋がる扉だ」

「奈落......地獄ってことですか?」

「そうだ。葉月が行くべきところは、まだ決まっていない。閻魔の判決が下されていないからな。しばらくはここで過ごすといい。判決には時間がかかるんだ」


 そう言って彼女は、どこからか現れた椅子へと腰かける。私はどうしたものかと、今来た道を振り返る。そこには暗闇が広がるばかりで、先程まで私が見ていた扉でさえも目視できなかった。次に歩いてきた方角に目を向けると、数々の花びらが止むことなく舞っている。辺りには花一つ咲いていない。本当に、この花びらたちはどこからやってくるのだろう。そこでふと、彼女はいったい何者なのだろうかという疑問が浮かび視線を向けた。


「......なんだ、何か用か?」

「その、貴方のお名前をお伺いしてもいいですか? 状況がいまだ飲み込めていなくて」

「名乗っていなかったか。我は不知火しらぬい。ここ、狭間の管理者の一人だ」

「狭間の管理者?」

「そうだ。知っているだろうがあの世には二種類あってな。閻魔の判決によって極楽に行くべき魂か、奈落へ行くべき魂かが決まる。判決を待っている間、貴様ら魂がどこかへ行かないよう見張るのが我の役目だ」


 淡々と、そう述べた不知火と名乗った彼女は自分の役割も説明してくれた。少し堅苦しい口調だが、悪い人ではないだろう。不知火さんは私の顔を見ると、また話を続けた。


「葉月は、なぜ死のうと思った?」

「......生きる意味がなかったからです。学校ではいじめられていて、家では私を家族と思ってくれる人が一人もいなくて」

「そうか。葉月が自分で決めたことにとやかく言うつもりはないが、もう少し生きてからでも良かったんじゃないのか」

「どうしてですか? 誰にも望まれていないのに?」

「望まれていることが全てじゃないさ。生きる意味もわざわざ決めるものじゃない。辛いことがあれば良いこともある。逃げる選択をして、失敗してもその分成功する何かがある。それを手に取れるのは、生きている者だけだ。諦めたところで、人生をリセットしたところで、次が幸せとは限らないだろう」

「次が不幸だっていう確証も無いでしょう! 誰かを悲しませることしかできない私に、何ができるっていうの! つらいことから私なりの逃げ方で逃げることの何が悪いっていうのよ!」

 

 心に響くことがなく、逆に癪に障る話を続けられ私はつい声を荒げてしまった。どんなにつらい思いをしても、前を向けるのはいい子だけ。私は下を向いて立ち止まることしかできなかった。逃げる選択ができなかった。自分の命を絶つことが、あの人たちの償いになると思ったんだ。そうすれば、みんな笑ってくれるでしょ。私は生きる苦しみを味わわなくてすむし、私をみて不愉快な思いをさせることもない。ただ、少しだけ、あのドブのような心を持った人たちが苦しめばいいと思った。後はもうどうでもいい。


「復讐をしようとは思わなかったのか?」

「復讐? そんなことする勇気があれば、自殺なんてしてませんよ」


 そう言って自嘲気味に笑う私を、不知火さんはただじーっと見つめてくるだけだでそれ以上何も言ってこなかった。その後は特に何を話すでもなく、閻魔の判決とやらを二人でただ待ち続けた。飛んでくる花びらを数えていると、私の頭上から一枚の紙が花びらにと共に降ってきた。


「どうやら決まったようだな。紙にはなんて書かれている?」

「......えーっと、『小野葉月、奈落の門を通るがいい』」

「そうか。ならさっきの場所に戻ろうか」


 そう言って立ち上がる不知火の後に続き、扉が現れた場所へと引き返す。飛んでいた花びらはなくなり、今度は眩しいぐらいの光に覆われた扉が現れた。話を聞いた後にその扉を見ると、とても地獄へ行くための扉だとは思えなかった。不知火さんは扉の前で立ち止まると、私に向かって小さく微笑んでこう言った。


「ここから先にある道をまっすぐ進むと奈落の入り口につながる。我が案内するのはここまでだ」

「そうですか」

「......葉月、貴様にはもう生きる道もないし、生まれ変わったとしても記憶なんて持ち合わせていないだろうがこれだけは言っておく。お前はもう少し他人に頼ることを覚えた方がいい。友人知人でなくとも、警察やその辺を歩いている年寄りやどこかの店の店員みたいな名前も知らない誰かに助けを求めてもよかったんだぞ。他人の迷惑よりも一人の命だ」


 そう言ってきれいな髪をなびかせながら扉を開け、私の通る道を作ってくれた。私は不知火さんの言葉に反応を示すことはせず、そのまま奈落へと足を踏みいれた。後ろから扉が閉まる音が聞こえると、私は呟いた。


「馬鹿だなあ、頼った結果がこれなんだよ。自分が情けなくて、自分を強く見せたくて、無理して壊れたのが私なんだ。助けを求めた相手が私で鬱憤を晴らすように扱って、最後は何もしないで捨てられた。不知火さん、私のことがどう見えたのかは知らないけど、余計なお世話だよ......」


 扉の先は、壁に掛けられた蠟燭が不気味なほどに揺れている。蝋燭を辿って進んでいくと、奈落の空気が彷徨っていた。思わず口元を隠したくなるようなその空気が、私には居心地のいいものに感じた。迷わず奈落に入ると、私というもの取り戻したような感覚に襲われる。足元に群がる鬼たちと共に、私は奈落のなかに姿を消した。

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短編集 睦月ふみか @mtkfmk

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