ショートエピソード

【二宮藍】ショートエピソート① 

 ――あい。


 僕の唇が形作かたちつくるたった二文字の意味。


 大好きな女の子の名前を口にすると、得も言われぬくすぐったさと切なさを胸中に覚え始めたのはいつ頃だったのか。


 小学五年生の夏休み、彼女とよく遊んだ神社の境内がすべての始まり? 過去の記憶を紐解いてみても、その部分だけはまるで消しゴムをかけたみたいに曖昧だ。


 むきになって思い出すまで彼女の名前を何度も口にするとか。いっそのこと叫んだりするのもいいな。そんな子供じみた考えまでがふと頭をよぎる。


 いまの僕は恋の浮かれ馬鹿と呼ばれたって構わない。


 壁に掛けられた時計は新しい日付けを表示していた。自室で藍の名前を叫ぶとか、そんな真似をしたら隣の部屋で寝ている妹を起こしてしまうから絶対に駄目だ。僕は言葉を発しないよう慎重に唇を動かした。口腔内で舌が動き吐息に似た空気を押し出す。


 とても甘いチョコレートを食べた後みたいな多幸感が舌先からじわじわと全身に広がった。


 好きな相手の名前を口にする。 そんな当たり前だけど、いまの僕にとっては奇跡とも思える行為にとても嬉しくなった。深夜のテンションなのか、昼間の自分には思いもしない思考が頭をもたげてくる。言葉が存在しなかった太古の時代だって誰かを愛おしいという感情は絶対に存在したはずだ。いや、それどころか僕らの祖先はテレパシーのような能力でやり取りをしていたとさえ唱える説もある。現代人のほうがはるかに進化していると言う考えはまったく誤りで、それこそ奢りなのかもしれない……。


 ああ、そうだったな。話を元に戻そう。たとえ彼女とのきっかけは思い出せなくともこれだけは断言できる。


 僕は二宮藍にのみやあいに恋している。自分でもびっくりするほど……。


 明日も学校があるというのに夜更かししている理由わけは分かっている。眠れないのは中学でも同じクラスになった彼女との間に昨日起こった出来事サプライズが原因なんだ。小学時代よりも疎遠になったとはいえ、まったく顔を合わせないのは無理な話だ。情けないけど僕の一方的な恋のこじらせで藍と距離を置いたのが正直な話なのだから。


 もういっそのこと僕が彼女に恋した理由を洗いざらい思い出そうか? そんな片想いの棚卸たなおろしをしたほうが気持ちがスッキリするかもしれないな。このままで朝を迎えたら寝不足で倒れちまうから。藍の前でそんなみっともない姿は見せたくない。


 僕はベッドから立ち上がり、傍らに置かれた勉強机に歩み寄った。乱れた肌掛けの布団が床に落ちる。椅子に座り直して目を閉じた。眠りではなく過去への追想に向かって。


 彼女を異性として意識し始めた時期は覚えている。それこそ神社の境内でかくれんぼをしていたときだ。妹が珍しく鬼の役で僕と藍は急いで隠れ場所を探した。集会場と神社の通路下に身を隠せる狭い空間があった。いつもは僕ひとりで隠れて鬼から見つかったことはないとっておきの場所だ。なぜかその日に限って藍と一緒に行動した。普段に増して境内でもたもたしている彼女の態度に業を煮やしたのかもしれない。


『あいっ、そんなんじゃさくらんぼからすぐに見つかって鬼にされちまうぞ!! お前が鬼の役になると長引くから見てられないんだよ』


『ご、ごめんね。私の要領が悪くて。恵一くんと桜ちゃんに迷惑かけちゃってるね』


『そんなん言ってる場合じゃねえよ。ほら、鬼のカウントが終わっちまうから!! しっかりと僕の手を握って後をついてこいよ』


『う、うん、恵一くん、ありがとう……』


 とっさに藍の手をひいて境内を駆け出したんだ。びっくりするくらい華奢で柔らかな彼女の指先にどぎまぎする。思えば神社でのあの瞬間やりとりから幼い僕は恋の片鱗へんりんに身も心もからめとられて、すでに熱病の渦中に落ちていたのかもしれない……。



 次回に続く。



 ☆★★作者からの御礼とお願い☆★☆


 ついに始まりました!! ショートエピソードです。


 前回更新から間隔が空いてしまい、大変失礼しましたm(__)m


 時系列的には中学生の藍が亡くなる前の物語になり、本編で語られていなかった中学時代の二人の接点について描いていきます。どうして恵一は彼女に恋をしたのか?  


 藍が小学時代から一途に恵一のことを想っていた理由は? そんなショートエピソードになる予定です。


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桜が咲くこの場所で、僕は幼馴染の君と二回目の初恋をする。 kazuchi @kazuchi

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