5. 愛、って


 笛の音が聞こえた。

 シーラの隣を歩いて川に近づくにつれ、笛の音は大きくなっていく。これがフルートの音だろうか……?


「オカリナです」

「フルートじゃないんですか?」

「その子、どんな笛でも吹けるんです。特にオカリナが好きなんだって言っていました」

「へえ」

「他には弦楽器も上手なそうです」


 ぽー、ぽーと暖かいオカリナの音があたりをほわんと明るくしていた。

 太い川が穏やかに流れる音と混ざって、ずっと強張っていた心から力が抜ける。


「……ツナ? 泣いているんですか?」

「……え」


 自分で気づかなかった。右目に溜まった雫がつうと流れ落ちていく。

 だから、川辺の岩に腰掛けたフードの彼女がこちらを振り向くまで気づかなかった。

 少女は俺の方を向いてオカリナから口を離し、色素が薄いその唇を開く。


「ツナさん!?」

「……リエーナフ?」


 心の底から驚いた。

 なんだか懐かしくて切ないオカリナの音色。どうしてか涙がこぼれる暖かい音を奏でていたのは、間違いなくハナニラの常連のリエーナフだったのだ。


「えへへ、泣いてくれたんですか?」

「いや……悪い。みっともないよな」

「そんなことないです! すっっっごく嬉しいですっ!!」

「はは……」


 演奏中とはまるで印象が違う。なんだか頬が緩む。

 いい演奏でしたね、シーラ……と言おうと顔を向けたら、彼女はむしろ頬をぷくと膨らませていた。


「え?」

「……ツナ、知り合いだったんですか?」

「はい。ちょっと前から」

「……もう!」

「え? シ、シーラ拗ねてますか……?」

「拗ねてないですっ」

「えっ、え?」


 なんでだ。わからない。

 助けを求めてリエーナフを見ると、シーラは何かに納得が行ったようでぽんと手を打つ。


「恋人さんなんですね!」

「いや、違うな」


 どこをどう見たらそう思うんだ。

 だけど少し嬉しい。これでシーラが嫌がっていたら悲しいな……と思って見ると。


「な、な、な……っ」

「……あー」


 頬を真っ赤に染めていた。

 ……この人、守りが弱い。


 ○


 ステージ裏の楽屋。

 演者には仮設住宅のような楽屋が提供されていて、手が付けられなくなった雰囲気をどうするかリエーナフと顔を見合わせた結果「その、楽屋に行きませんか!?」との一声で俺たちは場所を移動した。

 その時間でシーラも落ち着きなおした。拗ね気味だった機嫌も収まったようで俺はほっと息をついた。ようやく話ができる。


「えっと、私に何のごようでしたか?」

「聖なる力について聞きにきたんだ。リエーナフだとは思わなかったけど」

「私もびっくりです! なんですけど……私もあんまり知らなくて」

「どういうことですか?」


 リエーナフがポーチからさっきのオカリナを取り出した。白く透明感のある陶磁器のようだったが、光の加減で赤色が揺らめくように見える。


「フルートも持ってきているんですが、これに聖なる力が宿っているそうなんです」

「なるほど、俺がさっきああなったのも……」

「音に聖なる力が乗っていたのもあると思います! でも、元々のオカリナの音もすっごくあったかいんですよ!」

「大切にしてるんだな」

「はい! ですけど、私はこれ以上知らなくて……ごめんなさい」

「そうですか……」

「……私はって言ったか?」


 含みがある。じっと見ると、リエーナフの薄い目が泳いだ。シーラもじっと見る。


「じ、実は……」

「実は……?」

「実は?」

「ヴァネッサおばあさまなら、知っているかもしれません……!」

「ヴァネッサおばあさま?」


 初耳……でもないな。

 確か、ヨルさんとズィーさんが話していた。このあたりで公演があるとか。


「その方もフルート奏者の方ですよね?」

「はい! あんまり知らないんですけど、家系がワケヒトリカミのヒノカワ? というところみたいです」


 ──ワケヒトリカミ。

 思わずシーラと顔を見合わせた。わからない言葉もあったが、ワケヒトリカミとはウィルさんから聞いたメテオを降らせた存在そのもの、今は地球上から飛び立った不死鳥だ。


「ヴァネッサさんとお会いすることはできますか?」

「えっと、電話することはできるんですけど……」

「はい」

「……その……!」

「電話できない理由があるのか?」

「こ、怖くて……」


  ……怖い?

 なるほど、おばあさまが怖い……。それでもお願いできないか、と言いかける俺をシーラが目で静止する。


「リエーナフちゃん、ヴァネッサさんの場所を教えてくださいませんか?」

「……そうですね」


 少し前の俺なら、もっと食い下がったかもしれない。

 しかしメテオを止めることが全てではない。誰かを大切にすることを、俺も大切にしたいと思うからだ。


「……ホテルです。京王永山駅前のところで、私も泊まっているところで……私も一緒に行きます!」

「いいのか?」

「はいっ! 私も、ツナさんとシーラさんのお手伝いをさせてください!」


 リエーナフが胸の前でグッと頑張るのポーズをした。

 また一歩前進だ。拳を握り締める。

 もう少し話を詰めて、今日の日程が終わった後にリエーナフのホテルに着いていくことになった。リエーナフはスタッフに呼ばれ、音の調整のためにステージへ。

 俺はシーラと二人、楽屋に残った。

 俺とシーラは二人だ。だけど、一人の部分もある。

 俺は考えなければならない。一人の俺という人がなぜ、メテオを止めに行くのかを。

 そうして思考の土を掘ろうかという時、隣に座っていたシーラのちょいちょいと袖を引かれた。


「どうしました?」

「ツナ、わたし悩みがあるんです」

「……そうなんですか?」


 あのシーラに悩みが? という気持ちを含ませて言うと、もうと心外そうに笑われた。


「リエーナフちゃんと前のリハで一回だけ合わせたんです。でも、わたしの声が負けている気がして……」

「ははあ……」


 シーラにそんな悩みが、と思う。

 そして、返事に困る。シーラのアイドルの部分を取り立てて考えたことはなかった。


「メロディが被るところがあるんです」

「そうなんですね」

「はい。歌には自信があったんですが……」

「気持ちの話ではないんですよね」

「はい……。技術の話、かもしれません」


 シーラの歌を聴いたことがない俺が何と言うべきだろう。わからない以上、正直に言うしかない。


「正直、よくわかりません」

「そ、そうですよね」

「だけど、そのタイミングでシーラの声が霞んでも、終わったときにシーラのやりたいことができていたらいいんじゃないでしょうか」


 シーラがどんなアイドルなのか俺にはまだわかっていないが、カイトたちと話していたから思ったことだ。半分借り物のその言葉にシーラは考え込んだ。

 羨ましいな、と思う。悩みはシーラにとって必ずしも苦しみじゃないのだろう。


 俺にはそうじゃない。自分を見つめるのは苦しいことだ。

 自分のこととは案外わからない。なぜ進むのだろう。その理由はすごく近くにあるような気がしたけど、やっぱりまだわからない。

 ……シーラと違って、まだこんなところで躓いている。彼女はもっと先にいるのに。

 そう思って心が急く。シーラの隣では、まともに考えられないこともあった。


「……俺、戻ります」

「は、はい。また後で」

「はい」


 ……突き放すように言ってしまったかもしれない。

 ガラガラと楽屋の引き戸を出て、ただどこに行くでもなく川のそばに歩いていく。

 川面を覗き込む。きらきらとプリズムのように空の光を照り返す水面に自分の顔が映った。

 きれいすぎてそぐわない。目を背けて少し離れたところに腰を下ろす。


「シーラはすごい」

『どうした? 急じゃないか』

「俺とは違う」

『言っただろう。お前はすごいやつだ。シーラ嬢と違うところですごいのさ』

「……」


 すごくなんてない、と言おうとした。

 だけど川面で魚が跳ねた。それを見て、言うのをやめた。

 ゆっくり立ち上がって川に近づく。水面ばかりを見ていたけど、もう一つ深くを見ると川はまた見えかたを変える。水草、変な形の石、魚の影。

 それを見てもう一度川面を見ると、また見え方が変わるのだ。

 ……見えていたつもりで、見えていなかったことがあるのかもしれない。

 川面に映った俺を見つめる。その背後に、人影が映った。


「よう、ツナ」


 右肩に手が乗った。キャップのつばで目元を隠したそいつは──。


「──サン」


 川面に反射した人影の口元がにいっと歪む。

 背筋が冷えた。手を振り払って飛び退く。


「おおっと、ツれないな」


 ホープは使えるか。


『……』


 インペリアルからの返答がない。近くに落ちていた木の枝を拾う。

 湿って折れやすそうだが仕方ない、これで……。

 サンは片頬で笑ったまま亀のような速度で俺に寄る。何をしてくるのか、後ずさりながら彼の一挙手一投足を凝視する。

 サンの腕が懐に入って、拳銃を取り出した。目にも止まらぬ速度。

 銃口が向けられる。丸い銃口の内側は真っ黒で底が見えず、その冷たさに釘付けになる。

 引き金が引かれた。銃口はパン、とクラッカーの音を鳴らして……クラッカー?

 銃口の先からは色とりどりの国旗が連なって、だらんと垂れていた。


「……は?」

「今日は戦いにきたわけじゃないのさ。あまり警戒しないでくれ」


 そうは言われても。

 確かに敵意は感じないのだが、ここで枝を置くのも間抜けな気がする。

 魚が跳ねて、ぴちゃんと音がする。

 ……ポーズだけ意地を張るのも、間抜けには変わりない。俺は枝を置いた。

 川の流れる音。虫の鳴き声。穏やかな風と、ぼんやり聞こえてくるリハーサルの音。今は雰囲気からしてロックバンドだろうか……。


「まあゆっくりしよう。俺の立場を聞いてくれ」

「閃輪団、じゃないのか?」

「それが違うんだな。閃輪団はカイロウだけ。俺はカイロウと個人的に利害が一致しただけだ」

「利害?」

「ああ、俺にはいくつか目的があった。それとかな」


 サンの長い爪が俺のピアスを指す。

 ピンと空気が張り詰めて反射的にピアスを付けた右半身を引く。


「耳ごと抉り取ってもよかったんだが、けどそれはもうよくなったんだ」

「……」

「大切な人ができたんだ」

「……え?」


 サンの風貌から出てくる言葉にしてはずいぶん可愛らしい。

 つまり、恋をしたってことか?


『ツナも似たようなもんじゃなかったか?』


 ……そうだった。


「急に?」

「ああ」

「……一目惚れ?」

「まあな。コスモスという名の女だ。知っているか?」

「……」

「知らないか」


 いや、気にしなくていい、とサンは目線(見えないが)を外した。空気が弛緩する。


「今の俺の目的は一つだけ。あいつがいる世界を救うことだ。カイロウと協力したのもそのためだった……もう手は切ったがな」

「じゃあ放っておいてくれ。そうすれば俺たちは、勝手に世界を救う」

「そりゃあありがたいな。願ったり叶ったりだ。だが、本当にできるのか? あんなにでけえものをだぜ」

「……できるさ」

「そうか。じゃあ火の加護を使ってみろ」


 ……インペリアル。


『……使えな』

「──そんなわけがないはずだ」

「な……」


 この男……インペリアルの声が聞こえているのか?

 サンはまた、にいっと笑った。


「わかっているさ。ツナ、お前が昨日から何度か火を出そうとして失敗していることも。そしてそれは出せないわけじゃない、お前がインペリアルと呼んでいるその宝石の中の男が、出さないだけだ」

「そうなのか、インペリアル」

『……ああ、そうだな。悪かった、ツナ』

「そしてツナ、火を使うのにその男の助けは必要ない。自分で使おうと思うだけ、それだけでお前は火を使えるし、昨日とは違って制御できる」


 サンは台本を読むかのようにすらすらとのたまう。どこか遠い立ち位置から言っているような声色。


「……どこまでわかっているんだ、お前」

「まあ、そんなことどうだっていい。大事なのは俺とツナの利害が一致していること、だろ?」


 サンは言及をのらりくらりとかわす。だが彼の言葉には一理ある、と俺が思っているのも事実だった。

 ……火の加護。使えば使うほど火傷が広がっていく。その先に何が待っているのかはわからない。

 心配してくれたのか?


『ツナ、自分を犠牲にすることはないさ。もし死んでしまったら、生きていようがなかろうが同じだ。だったら苦しむ必要はない』

「そうは行かないな。ツナ、お前には守る人がいるだろう? 俺と同じでさ」

「……そうだな」

『ツナ……』

「使ってみろ」

『待て、ツナ』


 左手を開く。小さな種火が生まれた。赤色の中に、白色と橙色が混ざっている。

 この世界に必要な火。ホープ。

 じっと炎を出した左手を見ていた。視界の外で、目の前にいたサンの影が動いた。

 サンが突進してくる。左手を腰の剣に掛けていた。


「試してやる」


 剣が鞘から抜ける。その動きが手に取るようにわかった。

 俺が右足を引くと、その目前を切っ先が通過する。そのタイミングで左手の種火を突き出した。

 種火は炎となり、サンを襲う。

 サンは自分の横に扉の枠を開いた。俺の真後ろに扉の枠が生まれる。サンのこの技の正体はわかっている。扉の枠と枠で空間を接続する技だ。

 予想通りサンは俺の真後ろにテレポーテーションした。剣が振りかぶられる。

 とっさに左手の種火を吹き出そうとして──止める。

 種火を“成形”するのだ。まっすぐ細長い、つばが付いている、そのイメージ通りに“剣”を生み出す。

 成功した。俺は火の剣の柄を握りなぎ払う。鋼鉄の剣とかちあい、つばぜり合い、そうするとサンの持つ鋼剣が焼き切れていく。

 サンはバックステップを踏んで剣の間合いから外れるが──この剣は“伸長”する。首に迫った火の剣の一閃を、サンは間一髪しゃがんで回避する。


「……心配はないみたいだな」

「ああ」


 手を離すと火の剣は消えていく。まだ余裕を残しているのが不気味ではあったが、サンからはもう敵意を感じない。


「じゃあな」

「ああ」

「──必ず、世界を救え」


 サンの背後に扉の枠が現れる。枠の内側はどこかの住宅街。

 サンが手を振ってその中に入っていく。扉の枠が消えていく。


「……」


 何を思えばいいのかわからない。


『……戻ろうぜ、ツナ』

「……そうだな」


 ただ、必要なことだと思って炎を振るった。それだけが俺にできることだから。

 自分の中のその無感情さに怖気づいた。それでも必要なら同じように火を生むだろう。

 心臓から生まれた熱が、じくじくと火傷を広げていく。


 ○


 メテオはまた大きさを増したように見える。本当はさっきと大して変わらないはずなのに、なぜだか大きく見える。

 それでも仮設楽屋に向かってぼーっと歩いていると呑気な昼下がりだ。

 スタッフたちの間を通ってシーラの楽屋に向かっていると、肩を叩かれた。


「ツナ、探したぞ」

「……ああ、カイトか」

「カイトか、じゃない。あの子の番、始まってるけどツナがいなかったから探してたんだ。見に行かなくていいのか?」

「シーラの?」

「ああ」

「すぐ行くよ」


 こっちだ、と手招かれて駆け足でステージへ。華やかな伴奏と歌声がうっすら聞こえる。


「もう最後の一曲に差し掛かるあたりかもな」


 ステージ脇から観客席に出る。パフォーマンスを終えたばかりなのか、ステージ上の彼女は肩で息をしながら笑っていた。

 最初にシーラと出会ったとき、他の二年生と違うと思った。それからシーラという人のひととなりを知った。だけどここにいるのは、そのシーラとも少し違う。

 アイドルがいた。


『みなさん、ここにいるみなさーんっ! 楽しんでくれていますか?』


 シーラの笑顔にイエー、とスタッフたちが返す。場はすっかり暖まっているみたいだ。


『みなさんの頑張るところが見えていました。設営をしてくれたみなさんも、音や照明をしてくださるみなさんも、そんな人たちとわたしたちを繋げてくれるみなさんも、見えています。今日はリハーサルですけど、このステージはわたしからみなさんへのお返しです!』


 カイトすらシーラに釘付けになっていた。

 みんなシーラを見ている。シーラはみんなに言葉をとどけられる場所にいる。


『みんな、絶望に負けないでください。たとえ一番最後の瞬間がすぐそこにやってきていても、わたしの言葉がとどくところにいる人には、自分を大事にしていてほしいんですっ!』


 会場がしんとする。

 シーラは笑顔のままだったが、決して軽薄な言葉ではない。心の底から出てきた言葉だ。

 同じ空の下にいる。それならきっと気持ちはつながっている。


『とどいていてください!』


 信じよう。それが数少ないできることで、俺たちが生まれてきた意味だと思うから。

 後ろのバンドメンバーたちが伴奏を始める。曲が始まるのだ。


『聞いてください。“Twinklythm(トゥウィンクリズム)”!』


 リズムに合わせてシーラが踊る。歌に合わせてみんなが腕を突き出す。

 Bメロ後の間奏を挟み、曲がサビに差し掛かる。


──わたしと君 世界中! めぐりめぐって トゥウィンクリズム!


 その瞬間、撃ち抜かれた。

 歌詞の言葉にシーラの気持ちが乗り、それは愛の矢となって俺やきっとみんなを撃ち抜いた。

 とどけようとするシーラのとびきりの笑顔が目に飛び込んでくる。高揚した声色が伝わってくる。

 差し出した手を左から真ん中、右とみんなにとどけようとするダンスの振りに“ちゃんととどいてる”と、とどけ返したくてシーラに向かって手を伸ばす。

 そんな気持ちを自分が持てるのが、何よりも嬉しい。腕をシーラに伸ばす、この気持ちを今この場にいる他のみんなと共有できているのがとてつもなくすごいことに思えた。

 愛だ。これがシーラの愛であり、きっと愛ゆえにメテオを止めに行くのだ。

 俺の悩みは晴れない。俺がメテオを止める理由は見つからないかもしれない。

 それでもここには人々がいる。

 みんながここにいる限り、そしてここにいないみんながそれぞれのところにいる限り。どれだけ悩んだとしても、俺は迷わずメテオを阻もう。


 ○


 楽屋にはリエーナフがいた。椅子に座る。

 締め切った楽屋に外からの陽が差し、なんだか空気がぼーっとしていた。


「ツナさん、おかえりなさい!」

「ただいま。さっきまでシーラがステージにいたが、リエーナフもあそこにいたのか?」

「ステージ袖にいました! シーラさんとコラボするのは別の時間です」

「そうか」

「トリなんですよ!」

「へえ、最後」


 ガラガラと外側から引き戸が開いた。汗拭きのフェイスタオルを持ったシーラが敷居を跨ぐ。


「シーラさん、おかえりなさい! すっごくよかったです、感動しました!」

「ふふっ、ありがとうっ」

「シーラ、おかえりなさい」

「はいっ、ただいまっ」


 シーラも椅子に腰掛ける。俺はアイドル衣装のシーラになんと言おう。


「シーラ」

「なんですか?」

「その……よかったです。普段のシーラと少し違って、びっくりしましたけど」

「ふふっ、ありがとうございますっ」


 結局普通のことを伝えた。それだけでシーラは本当に嬉しそうにしてくれる。

 俺が伝えたはずなのに、俺の方が大きいものをもらってしまったような気がした。彼女には敵わない。

 もう一言、何かを言いたい気持ちに駆られて口を開くのだが、結局何も出てこなかった。

 シーラはそんな俺を見ている間ずっとにこにこしていて、その仕草に「わかってますよ」と言われているみたいで、やっぱり敵わない。

 やりとりを横で眺めていたリエーナフが徐々に顔を赤くしたが、これをどうかしたのか聞くのもまた藪をつついて蛇を出してしまいそうだったので放っておこう。

 その傍ら、楽屋の外がにわかにざわつき出した。

 ざわつきはこちらに近づいてくる。誰かがいるようだったが、スタッフたちが壁になって細かいことはよくわからない。

 席を立ってよく見ようとした途端、スタッフたちの壁が左右に割れた。そこにいた女性と扉のアクリル越しに目が合う。

 金髪の歳を召した女性だ。外国の方だろうか。身長はシーラと同じぐらいで、シワを刻んだ顔に切れ長の目が厳格そうな雰囲気の人だ。

 老婆がそのままこの楽屋の扉をノックしたから、俺は振り返ってシーラに視線で確認を取り大丈夫そうな反応をもらって扉を開ける。

 老婆の視線はまずリエーナフに向いた。


「ば、ヴァネッサおばあさま……!?」


 ヴァネッサおばあさまというと……リエーナフの祖母で、聖なる力について知っている人のはず。どうしてここに?

 ヴァネッサさんはリエーナフを一瞥し、俺に向き直った。


「ホープ、あなたを待っていました」

「ええと……ツナです。よろしくお願いします」

「どうも。わたくしはヒノカワの末裔、ヴァネッサです」


 差し出された手と握手する。

 彼女の口調は冷たく静かで、揺るがぬ一本の芯を感じさせた。リエーナフが怖がるのもよくわかる。


「その、どうしてあなたがここに?」

「あれほどの火を使って悟られないわけがないでしょう」

「ああ……」

「火の加護を使ったんですか?」

「ええ、さっき。そんなに気にすることじゃないです」


 火の加護にも慣れたつもりだったが、他の炎使いやこの人を見る限りもっと幅の広い技術なのだろう。

 まだ聞くことがある。


「リエーナフも言っていましたが、ヒノカワとはなんですか?」

「古代の王国の役職。火の皮をまとい、ワケヒトリカミの降ろされる意思を彼のカミがおわすメイツイ神殿の頂から人々に流す日の川にございます。ワケヒトリカミは日の化身で呼ばれておりました」

「ワケヒトリカミ……人々に怒ってメテオを降らせた不死鳥」

「その口伝は不正確です」


 シーラが外の扉を閉めてくれた。どうぞ、と椅子を譲る。

 椅子についたヴァネッサさんと向かい合う。


「違うんですか?」

「ええ。閃輪団に伝わるのは偽りの歴史、ヒノカワに伝わるセントの王国の歴史は呪いの歴史でございました」

「呪い?」

「全ての民が加護を授かっていたころ、セントの子供は右腕を切り落とし、それを彼のカミに捧げました」

「み、右腕を?」

「ええ。人の身に余る加護を己の右腕とする濁った欲望にございます。彼のカミはその欲望を一身に受け続け、その身を穢しました」


 不死鳥は穢れた……。セントは不死鳥を利用したのか。


「彼のカミには、その実感情がないのです」

「感情がない?」

「ワケヒトリカミは原始地球から生まれたと閃輪団は考えています。地球が水と緑の富んだ星になる前、それは二つの岩の星でした。片や太陽系、片や小惑星帯。小惑星帯の岩の星は太陽系の岩の星に隕石として降り、溶岩と分厚い黒雲の原始地球が生まれます。このとき衝突した小惑星帯の星から生まれた火の鳥を、人はワケヒトリカミと呼びました」

「はい」

「三柱の星轟でも、彼のカミは人々を守る存在とされます。守るために必要なことを状況に合わせてただただ遂行する、それだけの意思なき存在でありました。セントの信仰はまことに信心深いものでしたが、その信仰はもっとも悪い形でカミの在り方と結びつき、やがてその時が訪れます」


 小惑星帯の星から生まれた不死鳥に意思はなく、プログラムのように人を守る使命に従う。古代の王国でセントが信仰したのはそういうものだった。


「ある女がメイツイ神殿へと忍び込みました。女はカミに語りかけました、何度も何度も。カミはそこで、感情と呼べるようなものの源を発祥したのです」

「へえ……」

「ですがその行いが見つかると、カミの内面など知る由もない王宮は女を裁きます。彼のカミはその在り方ゆえに、そして人に伝わる言葉を持たぬゆえにそれを守ることはできませんでした。わたくしどもの血統にあたるヒノカワの祖も、カミの感情を正しく読み取り伝えるのは困難であったと伝わっております」

「不死鳥は怒らなかったんですか?」

「ええ。その感情は悲哀であったと言います。人が言葉で感情を表現するように、カミは感情の発露としてあの隕石を呼び寄せたのです」

「……メテオ」

「人が呼ぶメテオとは……オールトの雲より飛来した流星、名を“ヨアル”。ワケヒトリカミいでし原始地球の片割れの、その姉妹星です」


 ……ええと、つまり。

 不死鳥は小惑星帯の星から生まれた。小惑星帯の星にはオールトの雲と呼ばれる場所に姉妹星があって、悲しみの表現としてそれを呼び寄せた。

 それこそがメテオの正体、ヨアル。


『迷惑なもんだな』


 まったくだ。


「メテオ……ヨアルに聖なる力が有効なのはどうしてなのですか?」

「聖なる力はヒューマン・ホープやホープスとも呼ばれています。つまり人々の願いの集合です。隕石が聖なる力に弱いのではなく、人々の願いと聖なる力が同じ方向を向いた時、それは世界のルールすらをもねじ曲げる力になりうるのです」

「なぜ、そんなものを宿せるのが俺なんですか」

「初めて聖なる力を用いたのが特殊な火の加護を帯びた者だったからです。どんな者にも可能性は開かれていますが、実際に宿せるのはホープぐらいでしょう」

「そういうものですか」


 俺以外が聖なる力を宿すのは、やはり難しいということだ。

 もう一つ、聞くことがある。


「聖なる力のありかを教えてください」

「願いの塔、その頂上に」

「願いの塔……?」

「ええ。願いの塔の頂上は星の神殿に繋がっています。聖なる力の根源は、そこに鎮座する聖剣の白刃に秘められているのです」

「場所は」

「英雄に聖剣が必要となるその時に。メテオが地球に最接近した時にホープ、自然とあなたの前に現れるでしょう」


 これが伝えられることの全て。そう言ってヴァネッサさんは席を立ち、楽屋を出ていく。


「ありがとうございました」

「あ、あの! ヴァネッサおばあさま!」


 その去り際。リエーナフの呼びかけを聞いてヴァネッサさんが振り向く。


「ありがとうございます!」

「……ステージの仕事、きちんと努めなさい」

「……! はいっ!」


 そう言って、今度こそ去っていった。


 ○


 その最終リハが終わるころには夕方だった。多摩川の川面が、すっかり夕暮れに染まった橙色の空を照り返す。

 河川敷から見える四谷橋を通る車の交通量も増えた。帰宅ラッシュだ。

 フェスの初日は明日で、シーラの出番は三日目。テントやステージはそのままに、他のスタッフたちがぞろぞろと撤収していく。

 俺は背が高い芦の隣にリエーナフと並んでいた。高い順に芦、俺、リエーナフだ。

 この前の身体測定で測った身長は170センチ後半だったが、それよりも芦は長く茎も立派だった。


「帰らないのか?」

「もう少ししたら帰ります。ハナニラに!」

「はは、そうか」


 朝ハナニラで話してからもう夕方になるというのに、リエーナフはずっと元気がいい。俺が常日頃から元気がないが、話していると明るい気持ちになる。

 だけどそのリエーナフも心に憂いを抱えている。祖母が怖いと言ったリエーナフの様子はハナニラの窓ガラスの前で初めて彼女と会ったときと似ていて、怯えていた。

 思い返すとそれは自身の暗がりを責めるようだった。怖いとか申し訳ないとか、悪く思われているだろうとか、リエーナフの心の中を覗くことはできないがきっとそういう気持ち。そんなリエーナフに聞いてみたかった。


「リエーナフは、愛っていうとどんなことが思い浮かぶ?」

「愛、ですか?」

「ああ。急なんだが」

「んー……そうだなあ……」


 落ちた木の葉が川を下るときのように、穏やかな時間が流れていた。

 俺の質問は穏やかな時間を流れる舟に乗り、リエーナフはほっそりした顎に指を当てて考えを浮かべる。


「……たくさんあります、愛!」

「ふむ」

「ラブレターみたいな音楽を聴いた時とか、きっと大切なお友達なんだなって人たちを見かけた時とか……それに、おばあさまです!」

「ヴァネッサさん? 怖いんじゃなかったのか?」


 逆方向を向いている。

 冷たい気持ちと温かい気持ちだ。怖いけど、愛。


「変ですよね。でも、本当なんです」

「うん」

「私、両親が忙しくて家にいないから、おばあさまがご飯とか洗濯とか、レッスンをしてくれてるんです。でも、すっごく厳しいんです! 夜の十時過ぎには寝なきゃいけませんし、苦手な焼き魚も残しちゃいけなくて!」

「そんな感じの人だったな」

「はい! そうなんですけど、なんだか……おばあさまは、あたたかいんです。ツナさんに聞かれて、思いました!」

「そうか」


 逆の気持ち。逆の気持ちを持っていても、いいのか。

 リエーナフは素直な気持ちをまっすぐ語った。

 どんな感情だって咎められる理由はない。それは、俺たちが当たり前に与えられている許しだ。


「ツナさんの愛ってなんですか?」

「……ないな。俺が持つには、上等すぎる気持ちだと思う」

「そんなことないです。あればあるだけステキです!」

「それによくないですよ、自分の言葉でも人は傷付きますから! 」

「ああ……。だけど難しいな、自分を責めるのも、責めないのも」


 情けないながらもそう言うと、リエーナフが眉を下げて気遣うような顔をする。十二歳の子にこんな表情をさせて、情けない。


「ツナさんは、隕石を止めるために頑張っていたんですよね」

「ああ」

「それも、すっごくステキな愛です!」

「……ああ」


 褒められるのは苦手だ。自分がそれに値するとは思えないが、だからやめて欲しいとも言いづらい。

 無理やりにでもありがとう、と言ったらすっきりするだろうか。

 ……そんな嘘吐くべきじゃない。

 俺はリエーナフから目を逸らした。そのとき視界の端に、衣装を着たままのシーラが映った。挨拶周りをするとかで離れていたのだ。


「シーラさん、帰ってきましたね」

「ああ」

「じゃあ私、ハナニラに行きますね」

「そうか」

「ヨルさんのクロックムッシュを食べに行きますっ」

「そうか」


 そんなおしゃれなものも出していたな。フランス流のトーストだ。

 リエーナフは立ち上がって一礼。その去り際、思い出したように俺の耳元に口を近づける。


「……恋、頑張ってくださいねっ」

「え」


 今度こそリエーナフは去っていく。シーラとすれ違いに一言交わして、ステージの向こう側に歩いていった。 


「何を話していたんですか?」

「リエーナフに怒られました」


 今度はシーラが俺の隣に並んだ。彼女は俺より頭ひとつ分小さく、リエーナフよりかは頭一つ分大きい。なんだか安心する高さだ。


「えっ、リエーナフちゃんって怒るんですね。なんと言われたのですか?」

「自分を大事にしろって」

「あ〜」

「俺、そんなに自分がどうでもいいように見えますか?」

「そうじゃないんですか?」

「……そういうつもりはないんですけど」


 そうじゃないとも言い切れない。俺はシーラを守るためなら何度だって殴られるし、メテオを止めるためなら心臓を燃やして炎を生むだろう。

 自分に愛があるかなんてわからない。少なくとも、自分に向ける分の愛は持っていない。


「ステージ、見ました」

「あ、ありがとうございますっ。どんなことを思いましたか」

「愛を」

「愛?」

「あのステージを見たら誰だってわかります。シーラが何かを伝えるためにあそこに立っているってこと」


 愛だ。それは愛だった。


「シーラのステージには、愛があります」

「愛と言われると、そうかもしれません。……ふふっ、ちょっと照れくさいですけど」


 横目で見ても、シーラの表情は西日に染まってちゃんと見えなかった。

 だけど、照れくさいだけじゃないのは確かだった。謙遜しながらも、彼女はきっと自分に愛を向けているから。

 大きなステージの床板にはたくさんの想いが乗っていて、そこに立つのは怖いことだと思う。それでもシーラがステージに立てるのはきっと、自分に愛を注いで大切にできる人だからだ。


「アイドルの笑顔は、見にきてくれるみなさんにとどく時に幸せになって、その幸せがまた誰かに伝わって、世界をめぐるんです」

「はい」


 昨日も聞いた話。印象的だったから強く覚えている。


「だけど、みなさんにとどけるのはすごく難しいんです」

「それは……そうでしょうね」

「だからわたしは、笑顔に愛を込めてとどけ! って祈ってます。幸せになってほしいって思ってる人のステージは、幸せになってほしいって思ってる人のステージになるんです」

「……よくわからないですよ」

「込めない愛が伝わることはないですけど、込めた愛はもしかしたら、すっごく頑張れば伝わるかもしれないんです。もしそうして笑顔が伝わったら、生まれる幸せはファンのみなさんに乗って遠くまでとどいていくはずですから」


 わかるようで、やっぱり俺にはわからないことだと思う。

 だけど、そんなものを持っているシーラはすごい。


「とどけるための愛……。シーラはそれを信じているんですね」

「はいっ」

「俺にはわかりません。けど、素晴らしいものだと思います」

「ありがとう、ツナ。ツナにもきっとあります、愛」

「そうは思えないですよ」

「大丈夫です、二人ですから。ちゃんとあの隕石、ヨアルを止めて、ゆっくり一緒に探しましょうっ」

「……ええ」


 また、目を逸らした。俺の火傷をシーラは知らない。

 座りましょうとシーラに連れられて、水の音が近い川辺の岩に腰掛けた。

 朝よりも大人っぽいような華やかなような印象だった。ステージに立つための衣装や化粧は、可愛いだけではないのだ。人にとどける人間としての責任感を帯びて、大人っぽく見えた。

 隣に座るとその顔がぐっと近づく。風が吹いて髪がなびくと、ふわりと柑橘系の匂いがして俺は気づかれないように身体を引く。

 シーラの距離感には慣れたつもりだったがそんなことはないかもしれない。


「わたしはサナさんを待ちますけど、ツナはもう帰ってもいいんですよ?」

「いえ。帰ってもやることないですから」

「……お店にリエーナフちゃんがいるんじゃないですか? 聞きました、常連さんだって」

「まあ、そうですけど……。シーラと話してるのは悪くないですから」

「ふふっ、そうですか」


 シーラの視線が生暖かく、俺は逃げるように空を見る。

 たった一歳の違いのはずなのにこんなにも違う。シーラは楚々としていながらも堂々と立ち居振るまって、繊細な撫子の花のように上品だ。

 空へ向かって凛と背筋を伸ばす。橙のガラス細工を思わせる、オレンジ色の薄暮に向かって。


「ツナ、よく空を見ていますよね。お好きなんですか?」

「どうでしょう。他にやることがないだけかもしれません」

「わたしはですね、ツナが空や街を見る目が好きなんです」

「どうしてですか」

「そうしているときのツナはツナらしいんです、力が抜けていて。穏やかなだけじゃなくて少し切なそうで、それは本当のことを真っ直ぐに見つめているからなんじゃないかなって」


 そう言ってくれるのは少し嬉しい。

 だけどピンとこないのだ。その言葉を自分の心のどこで受け止めればいいのかわからない。俺にはそうなんですね、と答えるのが精一杯だった。

 かあ、かあ、と夕方のカラスが鳴く。俺の空虚さを笑うようだ。


「俺、やっぱり帰ります」

「ごめんなさい、嫌でしたか?」

「いえ、ただ……そうじゃなくて」


 衣装のシーラを置いて立ち上がる。

 悪いのは俺だ。シーラの言葉をきちんと受け取れないのも、それで彼女を悲しませてしまうのもそうだ。

 そうしたのは俺自身。だから去り際にシーラと視線が絡んでも、何も言えなかった。


「ツナ、また明日です。部室で」

「……はい。また明日」


 リエーナフがおばあさんに愛を感じているように、シーラが愛を込めてステージに立つように、それぞれの愛がある。

 俺の愛もどこかにあるのだろうか。

 シーラの前から去って、河川敷沿いの道。強い西日だ。

 心臓がじくじく痛んで身体を蝕む。熱と痛みが左腕を遡ってきて、学ランの袖口から火傷でただれた皮膚が覗いていた。

 俺はふらふら歩いていく。ヨアルが衝突する日、俺が必要とされるその時まで。

 自分自身が隕石を止めに行く理由は俺にないが、誰かが求めるからそこまで歩く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

THE DAY 高戸 @Code_height

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る