第7話




 ◆ ◆ ◆



 一億から学費を引かれる以上、時間を無駄に過ごすことはできなかった。編入試験そのものにも料金が発生するため、落ちるほどに己の首を絞めていくことになる。

 ようやく屋敷内に慣れてきたと言うのに、これでは今すぐにでも銀行から一億を引き落とし、領地から逃亡したい気分だった。

 しかし面倒なことに、それをしてしまうとその場でケイトによって殺されかねない。

 彼女は金を引き落とした時点で、使ったとみなすのだ。


「一応、必要な本は揃えましたが……。旦那様、アレックス様にあまり無理を強いるのは……」

「いや、無理ではない。ケイトと彼自身が決めたことだ」


 机に山と積まれた本を軽く撫でつつ、スーゼアが苦渋の面持ちでオスカーを見やる。しかし侍女長の助け舟は切って捨てられ、思わず顔が引き攣った。

 本を一冊手に取り、活字を追えば、内容はそれほど難しくない。

 だが、長らく勉学から遠ざかっていた身である。専門用語が多くなれば、解読するところから始めねばならない。

 いったい何の為にこんな七面倒なことを、と辟易する心境が顔に出ていたのか、オスカーが肩を竦めた。


「アレックス。ケイトの口車に乗せられたと思うだろうが、これは君にとって必要なことだ。生きたいなら学べ。私は死人に期待はしない」


 ハッとして顔を上げれば、師は微かに目尻を緩ませる。

 彼なりの労いなのだろう。不思議と悪い心地はしなかったのだ。




 オスカーと、彼が忙しい時はスーゼアの助力によって、編入試験の為の勉強は進んでいく。

 自分の年相応だとシックスフォームスクールになるのだが、流石に編入試験が難関で、ケイトも交えて話し合い、セカンダリースクールを目指す事になった。

 とはいえ、編入試験までそれほど日程もなく、寝る間も惜しんで勉強漬けの日々である。分からない部分はオスカーやスーゼアに聞き、ひたすら参考書の活字を追い、ペンを走らせて頭に叩き込む毎日だ。

 オスカーは試験勉強の合間に、興味を持ちそうな様々な知識を、なるべく多く教えてくれる。

 軍事から、国の内情。流行りの芸術、数式の数々。世界情勢と世を渡る術。

 それまで知らなかった知識が花開いていく瞬間は、決して悪いものではなかった。


 

 ◇ ◇ ◇


 

 公爵家では使用人一同含め、同じ食卓を囲むことが常だ。普段は躾に厳しいオスカーも、食事に関してはうるさく言わない。ケイト曰く、食事は全員で楽しく食べる方が気持ちのいいマナーだ、とする家訓らしい。

 今日も食堂は賑やかだ。

 席に着くと運ばれてくる料理も、温かく味がよくしみている。少し懐かしさすら感じさせる味は、リンギスとベルギスが作っているのだと、最近になって知った。

 軍人がここまでするのか、と疑問に思う。人を雇う金がないわけでもない。だがこれも訓練の一環なのだと、彼ら兄弟は笑っていた。



 

「アレックス。君はなぜ、にいたんだ」


 食事を終えて、ケイトがジャンネを連れて退席した後。

 スーゼアが淹れた紅茶を飲みながら、オスカーが口を開いた。

 言われた意味を正確に把握できず、口内へ含んだ珈琲を喉の奥へ押し込み、首を傾ける。


「……? どういう、意味でしょう?」


 最近、ようやく板についてきた敬語で返すと、彼は目を伏せた。

 

「君はもともと、よい家柄の男ではないのか」


 どこか確信めいた言葉に、カップを持ち上げていた片手が、僅かに揺れた。

 オスカーは視線を珈琲に注いだまま、目を細める。


「君はテーブルマナーを心得ている。私が教えずとも、カトラリーの使い方を心得ているな」

「……こんなもの、見よう見まねです」

「いいや。一朝一夕で身につくものではないだろう」


 指摘に、微かに震えた喉を隠して、再びカップに口をつけて珈琲を飲み干した。苦みが鼻に抜けて目は冴え、それが逆に恐ろしく思えて、小さく首を振る。

 場の空気を感じ取ったのか、スーゼアが一礼し、食器を下げて食堂を出て行くのが見えた。

 オスカーの側には、双子の軍人だけが残り、静かに耳を傾けている。


「君の身に何があったか、教えてくれないか」

「……、……いえ、総統閣下には関係の無いことです。俺が話す内容など」

「君はケイトに買われた。その瞬間から、君は我らの家族だ。……関係の無い間柄ではないと、私は思っている」


 ゆっくりと視線が上向いて、ケイトと同じ赤い瞳が、まっすぐにこちらを射貫いた。

 相変わらず自分は、全てを見透かそうとする、この瞳が苦手だ。今も尚、気圧されそうになりながら、唇を噛みしめる。


 ──我らの家族。


 オスカーの言葉が脳内で反響した。

 自分はたかが金で買われた、身分もない男だ。お人好しがすぎると鼻で笑いたくなったが、真摯な表情にその全てを飲み込んで、眉間に皺を寄せる。


「……生活は困窮していましたが、両親と、三人の妹と、暮らしていました」


 ポツリと、口から言葉がこぼれ落ちた。

 自分でも笑ってしまいそうなほど弱々しいそれに、しかしオスカーは黙って頷いてくれる。


「貧しい中でも笑顔の絶えない両親は、俺の誇りだった」


 厳しくも気前の良い父。朗らかで美しい母。自分を慕う可愛い妹達。

 あの頃は細々としていて、金銭的な余裕など皆無な生活だったが、確かに幸せの中にいたのだ。

 毎日が新しい喜びに、溢れていた。

 けれど。


「父と母は、殺されました」

「…………誰に」

「わかりません。複数人の犯行だったことは、確かです。俺は妹達と逃げることに必死で、……それ以上のことはなにも、分かりません」


 今でも、子供達を逃がそうと必死に逃避路を用意してくれた、両親の顔が浮かぶ。泣いて嫌がる妹達の手を引いて、脇目も振らずに逃げ出した狭い路地を、今でも鮮明に思い出せる。

 雨の日だった。

 足音も、涙も、泥も、悲鳴も、全てを覆い隠し奪っていく、土砂降りの日だった。

 それから親戚を辿り、妹達を預けつつ自分は働きに出たものの、悪徳業者に引っかかってしまったのだ。

 しまったと気がついた時にはもう遅く、衣食住全てを奪われ、路地裏で生活するより道は残っていなかった。

 親戚を再び頼ろうとは思えなかった。妹達三人を預けるのでさえ苦労したのだ。数少ない親戚も生活は厳しい。これ以上の負担はかけられなかった。

 どのみち怪しい業者に目をつけられた男など、どこへも行けやしないのだ。

 心が疲弊する毎日の中で、満足に生活できるようなった今でさえ、鏡に映る自分を見るたび自問する。

 お前は何をしているのだ、と。

 

「……犯人を捜した事は?」

「毎日、です」


 オスカーの疑問に即答し、再び首を振って唇を噛みしめる。


「毎日ですよ。毎日、毎日、……今だって、本当は」


 当てのない詮索は勿論、手がかりもない。伝手もなければ、頼れる味方もいない。

 それでも、怒りだけが心を繋ぎ止めている。


「……両親を殺した奴らに復讐するまで、俺は死ねないんです」


 両親の無念を晴らすまで、死ぬわけにはいかなかった。

 死に逃げてはいけない。生き続けなければならない。どんなに暴力を振るわれようと、汚い悪事に手を染めようと、愛する家族を貶めた者を許してはならない。

 息の根を止めなければ、後悔をしたところで気が済まない。

 それだけが自分の正気を繋ぎ止めている。

 たとえ精神が壊れてしまっても、復讐を遂げることでしか、己の全てが報われないのだ。

 沈黙するこちらを汲んでか、オスカーも暫く無言になる。

 話の成り行きを見守っていたリンギスが、静かに口を開いた。


「アレックス。君は愛されて育ってきたのだろう」


 緩慢に視線を上げれば、彼は目を細めてこちらを見ている。

 それは同情とも憐憫とも違う、柔らかな色を宿す瞳だった。


「愛されていたからこそ、君は周りを信用出来ないのだろう。復讐心も、猜疑心も、君の心を守る防具なら、それでいい」


 だが、と一度言葉を切り、リンギスは僅かに顔を伏せる。


「初めて会った時、君は死にたがっているように見えた」

「……そん、なことは」

「ああ。そんな事はないのだろうが、自分はもう死んでもいいのだと、達観しているように見えたんだ」


 リンギスの静かな双眸に、狼狽えて唇を噛み締めた。小波も立たない声音なのに、心臓の音が乱される心地がして、眉間の皺を深める。

 吸い込んだ息は上手く肺を循環せず、握りしめた指先の力が徐々に抜けていった。

 他人から見た自分自身だ、間違いではない。

 事実、復讐を遂げるまで死ねないと思いながら、浮浪者としての生活は死んだようなものだった。

 両親を失って、妹たちの幸福を他人に委ねた瞬間から。誰かを貶め、誰かに搾取されなければ、明日を生きられない境遇から。自分の心は錆びついて、熱を失っているのだろう。


「……アレックス」


 心配げな双眸で腕を伸ばしたベルギスが、軽く肩を叩いた。

 しかしそれ以上は何も言わず、席を立って隣に座り直すと、片腕で肩を抱いて抱擁する。

 自身を傷つける意図のない体温に、握りしめられた拳は完全に解けて、テーブルに落ちた。空になったカップを呆然と見つめて、ひくりと喉を鳴らす。

 乾いた瞳でも、視界は揺れた。


 本当はただ、穏やかな死を、望んでいる。


 



 



 


 

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余命一億の宣告 向野こはる @koharun910

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