ロマンティック・アイロニーとは何か

ロマンティック・アイロニー(ロマン主義的アイロニー)とは何か?

インターネットで検索しても十分な情報が出てこないから、キツネが簡単に紹介しよう。


そもそもロマン主義というのは、啓蒙主義、古典主義への対抗言論(カウンタースピーチ)だった。これら(啓蒙主義、古典主義)が依拠するのは近代西洋の合理性。すなわち、科学的理性の力によって、人間も、社会も進化していくという、ある意味、盲目的な信仰だよ。近代合理主義の特徴は、世界は計算可能であり、それゆえに操作可能、設計可能であると信じることだった。


これに対してロマン主義が主張したのは、人間というのは狭苦しい理性の殻に囚われるだけの存在ではない、そこには想像力の翼があり、自由な意思の躍動があり、感情の沃野がある。つまり、理性によって説明し尽くされることのない〈感性〉こそが人間の本質、人間性の正体だということだ。近代合理主義への批判は二つの世界大戦の過程で先鋭化した(ダダイズム、シュールレアリスム、不条理劇)けれど、その先駆けとなったのがロマン主義なんだね。


さて、肝心のロマンティック・アイロニー。その主唱者はドイツ・ロマン派最大の理論家、フリードリヒ・シュレーゲルだ。彼は、近代合理主義の閉塞感、計量可能な〈有限性〉のイメージに囲い込まれた近代人の思考を解き放つためには、この壁を破壊するための武器、つまりは方法論が必要だと考えた。彼の脳裏に一人の髭面が浮かび上がる。


ソクラテス……!


そう、近代合理主義の地盤を固める最大の信仰は「この世界には正解がある。理性は正解に辿り着く」というものだ。これに対して「正解なんか、わからなくね?(アポリア)」という痛烈な皮肉(アイロニー)を突きつけた最古の英雄がソクラテスなんだね。


「ソクラテスのアイロニーは全てが戯れであり、同時に全てが真面目である。全てが無邪気で、全てが深遠。それはあらゆる自由のうちで最も自由なものである。なぜなら、それによって我々は自分自身を超えることができるからである」(byシュレーゲル)


普通、アイロニーというのは、表の意味と裏の意味の食い違いによって、話し手が聞き手を試すようなもののことをいう。


「そんな面白いことを言うなんて、きみは頭がいいんだね」(=そんな奇矯なことを言うなんて、きみは変人なんだね)


でも、ソクラテスのアイロニーは違う。そこには表も裏もない。なにせソクラテスだって答えを知らないのだから。彼は当時の最高の知識人たちを相手に、知識、道徳、宗教、国家のあり方を問い続けた。結果として明らかになったのは、誰も彼も、ソクラテスもソフィストたちもきみもぼくも確かなことは何にも知らないということだ。


だからこそ問いは続く。有限の正解ではない、無限の自己否定、それは必然的に次なる一歩を踏み出させる。新たな自己実現、新たな創造を実践するための、阻まれることのない無限の可能性。


これを、シュレーゲルは「自己破壊と自己創造の絶え間ない交替」、すなわちアイロニーであると説明した。無限を切り拓くものとしてのアイロニー。精神の飛翔能力。まぁ、これが本当にソクラテスの目指したものだったかはわからないよね。だから、後の人々は、このイメージをロマン主義者たちのイカロスの翼、〈ロマンティック・アイロニー〉と呼んでいるんだ。


ーーー


と、以上、YouTubeのショート動画の台本にしたくて駆け足で論じたけど、以下ではもう少し丁寧に、シュレーゲルの議論を解説するよ。


◆自己破壊

ロマン主義者たちに、無限への憧れがあったことは、上に見た通り。これは、「永遠の発展性をどのように達成するか」という問題に置き換えられる。

そして、永遠の発展性とは、〈上昇過程が際限なく続いていく〉ということだ。そんなこと、どうやったら可能なのだろうか?


「無限なるものの意識は構成されなければならない。ーー反対物を破壊することによって」

「無限なるものという意識は存在する。ただ有限なるものという幻想が破壊されれば、それはあらわれる」


シュレーゲルが最初に手掛かりとするのは、無限性へのアクセスで、それは有限性を破壊すれば得られるという。ずいぶん楽観的な気もするけれど、そもそも有限性という観念自体が幻想なのだというのがシュレーゲルの見立てだ。有限性こそ人間の条件だと考える近代理性とは拠って立つところが違うよね。自分自身の中にある、有限性という思い込みを破壊しさえすれば、人間の真実の相である〈無限なるものの意識〉を構成できる。この営為をシュレーゲルは〈自己破壊〉と呼んでいて、永遠の発展性への出発点とする。


◆自己創造

この無限なるものの意識が、次に取り組む課題は何だろうか?

そう、創造だね。創造についてシュレーゲルは、機智とか想像力とかを重視する傾向にあるようだ。


「機智とは無条件に社交的な精神である。あるいは断片的独創性である。束縛された精神の爆発である」

「機智に富んだ着想とは、さまざまな精神的素材の分解現象である。想像力はあらかじめあらゆる種類の生によって飽和していなければならない」

「自分の属している圏の外側にも、自分の感覚では捉えられない延長が存在しているということを理解していない者は、自分の属している圏においても取るに足らない存在である」


シュレーゲルは、遠いものへの想像力と、細部への眼差しを求めている。人間にとって創造とは、何もないところから何かを生み出すことではない。既にある何ものかを鋭敏な知覚し、理解し、分析し、交感し、感激する、そういった自己変容こそが創造性の正体だ。そのため彼はこれを〈自己創造〉と呼ぶんだね。これが、発展への推進力となる。


◆無限交替

こうして生じる〈自己破壊と自己創造〉は、単なる車の両輪ではない。これらは相互に喰い合い、絶え間なく交替してゆく無限否定のシステムだ。何故なら、自己創造なき自己破壊は空虚だし、自己破壊なき自己創造は欺瞞だから。


「冷静に表現すべき思想は既に全く過去のものでなくてはならない。もはやそれに没入していてはならない。芸術家が創作し、感激している限り、彼は伝達のためには不自由な状態にいるということになる」

「一つの体系を持つことも、いかなる体系も持たないことも、精神にとっては等しく致命的である。したがっておそらくはこの二つを結合するよう決心しなくてはならないだろう」


ここに、無限否定の実践としての、無限の生成、〈永遠の発展性〉の基礎が与えられる。これがロマンティック・アイロニーの構造だよ。


◆自己限定

さて、〈自己破壊と自己創造の無限交替〉によって得られる果実について、シュレーゲルが語ることにもう少し耳を傾けてみよう。


「個々の芸術や学問、人間などを正しく理解するための感覚とは、分割された精神である。それはすなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である」

「この自己限定こそは、人間にとって最初に最後のもの、不可欠にして最高のものである。我々が自己を限定しないときには常に、世界が我々を限定し、我々を奴隷にしてしまうのだから。我々が無限の力、自己創造と自己破壊を我が物としている場所においてのみ、自己を限定できるのだから」


本来、無限とは世界の属性であって、ちっぽけな人間はその世界に規定されるばかりの存在に過ぎない。しかし、ロマンティック・アイロニーの無限は世界の無限と拮抗し、人間に、自分自身で自らのあり方を決めることを可能とさせる。シュレーゲルはこれを〈自己限定〉と呼び、最高の価値を認めている。現代風にいえば、自己実現であり、自己決定であり、人格的自律ということになるだろう。


◆無限の帰結

それにしたって、面白いと思わないかい?

ロマンティック・アイロニー、無限への憧れから出発して、永遠の発展、無限の上昇の果てに到達するところは、自己の〈限定〉なんだ。これこそアイロニーというものではないか。


無限の帰結が有限である。このパラドクスがアイロニーの本質であるということに、もちろんシュレーゲル自身が気づいていた。


「アイロニーはパラドクスの形式である。良きものにして偉大なものは全てパラドクスである」


◆永遠の帰結

パラドクスといえば、もう一つある。


無限の否定、無限の自己破壊と自己創造だなんていうけれど、そんな生き方は本当に人間に可能なのだろうか?


シュレーゲルがロマンティック・アイロニーを論じたのは、『リュツェーウム断片』『アテネーウム断片』その他いくつかのエッセイとノートを著したごく僅かな期間に限られる。その後はぱったり口を閉ざす。実は彼、ロマンティック・アイロニーの理論を確立するや否やこれを放棄して、カトリックに転向したんだ。


ソクラテスが自ら毒杯をあおったように、シュレーゲルもまたロマン主義者としての自分を屠った。その意味については評価が分かれるだろうけれど、アイロニストがアイロニカルに生きようとすればアイロニーに対するアイロニーを生きざるを得ない、つまりはアイロニーというのは何らかの形で必ず〈終わり〉を迎えなければならない。永遠の発展性の帰結が必然的な終局なのだとしたら、なるほどこれもまたパラドクスであり、一際冴えたアイロニーだ。


近代合理主義というのは、前近代の宗教的な盲目を啓くことに自らの価値を認めていた。天上に救いを求めるのではなく、自然の摂理、物理法則、すなわち地球の重力に縛られることに重きを置いていた。これに反発して、「なんとしてでも地に足をつけたくない! 意地でも空中浮遊したい」というのがロマン主義の本性だったともいえるかもしれない。だからこそ無限上昇の夢を追いかけたんだね。

とはいえ、冷静にみると、シュレーゲルが提示する無限のプロセスは、必ずしも上昇とか発展とかを保証しない。それは無限に右往左往しているだけかもしれないし、無限に玄関を開け閉めしているだけかもしれない。


でもね、「こうだったらいいな」の強烈な自己実現として、アイロニーを見つけ、アイロニーを生き、アイロニーとともに潰えたのだとしたら、それはやっぱり、ロマンティックだよね。イカロスの翼は太陽の熱に溶けてゆく。


◇参考文献

フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』(冨山房)

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