生きているかのように死んでいる。

八百本 光闇

死んでいるかのように生きていた。

 大雨で氾濫した川を見下ろしたまま、彼女は「いっしょに死のうよ」と言った。僕はびっくりした。彼女の台詞が余りにも唐突だったからだ。


「あぁ……」


 僕はため息を付く。大雨、橋、川。僕と彼女以外は誰もいない。これ以上ないくらいのチャンスだ。赤錆た手すりをもっと強く握ると、彼女は優しく僕の体にもたれた。温かった。僕の震えは収まった。

 僕を癒やしてくれるのは、今も彼女の身体だけなのだと思うと、胸元に水滴が伝わった。これが雨なのか、汗なのか、それとも別の人のものなのかは、僕にはわからない。


「うん、死のうか」


 驚くほどすんなりと返事ができた。どしゃ降りに濡れた彼女はおしとやかな微笑を浮かべた。雨のせいか、輪郭がぼやけていた。



 僕らは柵の外に出て、橋のきわに足をかけた。あと一歩進めば死ねる。眼下に流れる蠱惑的こわくてきな暗闇に惹かれて、足がムズムズした。


「死ぬんだね、僕たち」

「うん。願いが叶うんだよ」

「楽しみだね」

「うん」


 無表情で淡白な会話が過ぎて気まずくなると、彼女は赤いリボンを取り出した。そしておもむろに、「ね、腕、出して」と、言った。

 素直に出してやると、彼女はリボンで僕の片腕を縛った。そして彼女自身の腕もまくった。傷と痣だらけの肌がはだけた。


「これで死ぬまで一緒だね」


 彼女はリボンのもう片方で腕を縛って、照れ笑いをした。

 僕と彼女は繋がった。どちらかが落ちたら、引っ張られてもう片方も落ちてしまう。死にロマンチックな演出をしようと心がける性癖が彼女にはあった。


 僕は作り笑いを見せながら、紐を観察していた。頼りない紐だった。


 少し力を入れるだけで千切れそうだ。


「……そうだな」


 彼女に適当に返答すると、「でもさ、」と彼女は僕の手を掴んで、さっきよりもっと顔を赤くしながら僕の目をまっすぐ見つめた。「何?」


「最期まで……手、繋いでて」

「ああ、わかったよ」


 彼女は僕の指をなまめかしく絡めた。雨がより強く降ってきた。


「じゃあ……いくよ」

 

 彼女は目を瞑って川へと歩んだ。僕を引っ張りながら。



 この女は馬鹿だ。



 僕はそっと、彼女から手を離す。繋がれた紐でも連れて行かれそうになったが、紐を力強く引っ張って、ちぎった。思っていたより簡単に破れた。


 彼女は、たった一人で暗闇へ落ちる。半分になった赤い紐がゆらゆらと風で揺れる。彼女は悪魔でも見たかのように目を見開き、金魚のように口をパクパクさせている。


 彼女は何を言っているのだろう。醜い叫びに混じってよく聞こえないよ!


 女の叫びの意味を捉えようと努めているうちに、あっという間に女は落ちて、消えていった。その様を見守っていると、僕は自分が生きている感覚を掴めた感じがした。

 胸の中の不安が取り払われ、最奥に隠されていた恍惚が露わになったのだ。あの女の手を離したときに見せた、憎悪の眼差し。そして、女が次に手に入れるであろう、永遠の安寧。僕がずっと求めていたものだ。どれだけ苛烈な暴力を振るっても憎悪を見せてくれなかったマゾヒスティックな女もこんな単純な行為でああいう秘匿を見せてくれたのだ。


 僕は嬉しい。嬉しいから、僕は笑った。なぜか顔を笑顔にするのはうまく行かなかったが、嬉しいと思ったのだから僕は笑わなければならない。だから多少作り笑いのように見えても僕は笑った。嬉しくて汗がたくさん出たし、嬉しくて涙もたくさん出た。

 そうだ。やっぱり、僕はあの女が好きだ。もういない女に向かって、そう僕は叫んだ。誰も何も答えなかった。


 ……川が荒く流れている。白濁した波はもうあの女を奪っただろう。雨と波に突き上げられた岩が砕ける音を聞きながら、僕はしばらく川を見つめていた。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生きているかのように死んでいる。 八百本 光闇 @cgs

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ