私は難病である。
六野みさお
第1話 私は難病である。
『私は難病である。難病の名前は、私の本名に「病」をつけただけである。』
そんな衝撃的な冒頭の文章『私は難病である。』が、小説投稿サイト『ノベライズ』に投稿されたのは、去年の秋の終わりごろだった。俺はそのとき自分のその日の連載を投稿し終えたばかりで、暇に任せて新着小説を漁ろうとしたとき、たまたまその文章を見つけたのだった。
『私はほとんど自分の力では動くことができない。歩けるかというレベルの話ではない。誇張なく指一本動かせないのだ。
それならどうして君はそうやって文章が書けるのだ、と疑問に思う人もいるかもしれない。これには深い理由がある。つまり、私は目でパソコンに文字を打ち込んでいるのだ。嬉しいことに、最先端のパソコンは、私のキーボードへの視線を感知して、その通りに文字に変換してくれる。慣れればブラインドタッチ並みの速さになる。現代技術には感謝しかない。
私は生まれたときから、今とほとんど同じ状況である。病室から外に出ることはほとんどない。私は目でインターネットをサーフするくらいしかすることがない。
だから、私は体では小説を書かない。頭を使う。見たことがない景色を、聞いたことがない音を、したことがない会話を、想像だけで作り出す。
でも、ひとつだけ確かなことは、私はここで楽しく小説を書いて、みんなと仲良くしたいということだ。
これからよろしくお願いします。』
読み終えた瞬間、鳥肌が立った。その人物の一字一句が、俺の心臓に強烈な一撃を加えた。俺は十割の感動と、それと同じくらいの興奮に打ち震えていた。
普通、病気の小説家といえば、俺たちはどこか物悲しい、優しい文体を想像してしまう。でも、この作者はそのイメージを完全に壊してしまっていた。難病に立ち向かっているとは本人は言っていなくて、受け入れているのだけれど、同時に攻撃的であって、まるで病気と素手で殴り合っているかのような、これまでに見たことがない文章だった。
俺は手の震えで何回も押し間違いながらその作品に最高評価を付け、興奮のままに感想を送った。
『病気を受け入れながらも、病気と素手で殴り合っているかのような攻撃的な文章が最高でした。あなたがどんな小説を書くのか見てみたい。新作待ってます。』
すぐに返信が返ってきた。
『感想ありがとうございます。こんなに早く感想を頂けてうれしいです。新作待っていてください』
本文に比べると、感想の返信は比較的型通りに見えた。もしかすると、作者は友達が欲しいのかもしれないーーと俺は予想した。全く体が動かないのなら、きっとリアルには友達が一人もいないのだろう。俺は作者に少し同情を感じながら、その日は寝ることにした。
翌朝、俺が『ノベライズ』を開けると、驚くべきことが起こっていた。なんと、『私は難病である。』が、月間総合ランキングの5位に入っていたのだ。日間でも週間でもなく、月間なのである。俺は最初は信じられなかったが、確かにその作品は一夜にしてそれに値するポイントを稼いでいた。
そして、さらに驚異的なことに、月間10位にも同じ作者の作品があった。
その作品は、題名を『僕がリア充になった日』といって、ある少年が同級生に告白されてから別れるまでの数日間を描いた短編だった。全体を通じてコミカルな会話が続くのだけれども、その間に的確な心情や情景の描写が挟み込まれてあって、それらが絶妙なバランスを生んでいるのだった。
確かにその小説は、高い評価を受けるに値していた。俺はその小説家をーー彼は
そこからの水無月兜の快進撃はすさまじかった。彼は小説を書く以外にすることがないのだろう、一日に様々なジャンルの小説をどんどん更新しては、その全てで大ヒットを飛ばした。ファンタジー小説『俺は魔王になれるか?』、恋愛小説『あのときの君が僕を呼んでいる』、歴史小説『四人目の浅井』、ホラーと推理が組み合わさった『華麗なる密室』……。挙げていけばきりがない。とにかく、水無月兜は一瞬で総合ランキングを自作品で埋め尽くした。
さらに彼の評価を上げていたのは、感想欄とか『作者からのお知らせ』の欄とかで見せる、小説の中の文章とはちょっと違った面だった。あるときはハイテンションに、あるときは優しく包み込むように、小説と同じように多彩な文体を駆使しながら、それでいて小説よりもカジュアルな、フレンドリーな文章だった。そして、やはり時間は有り余っていたのだろう、彼はどんなに自分が有名になって、毎日百個以上の感想が届くようになっても、一つ残らず心を込めて返信した。
彼は他の作者の小説もよく読むらしく、毎日複数の作品に感想やレビューを書いていた。これも彼はどんなに有名になっても書き続けた。そのうちに彼の感想やレビュー自体が価値のあるものになって、彼にレビューをもらえば累計ポイントが二倍に伸びるなんても言われたが、彼は動じることなく、自分の好きな作品を評価し続けた。そして、彼がその多彩な作風に似て、どんなジャンルの小説もバランス良く読むことも、これまた評判が良かった。
彼が小説の投稿を始めて二週間が経ったとき、俺たちを驚愕させた事件があった。水無月兜は自分が女性であることを、つまり彼ではなくて彼女であることを発表したのだった。俺たちは彼女の『兜』という名前もあって、完全に彼女を男性だと思っていた。でも、水無月兜が男か女かということは、もう俺たちにはどうでもよかった。ただ俺たちは彼女の文章に魅せられていたのだった。
俺の仕事場は出版社だった。俺は出版社でプロの小説家と関わりながら、自分でも小説を書いていたのである。趣味で書いている程度で、一度も書籍化したことはなかったが、俺は小説を書くのが好きで、その二重生活を続けていた。
そんなとき、俺は出版社の仕事で、偶然水無月兜の小説を書籍化する企画の担当者になった。まだ駆け出しの俺が初めて一人で担当する小説家が彼女というのは、かなり偶然で、かつ場違いに思えた。水無月のこれまでの実績を考えると、俺では釣り合わないのではないだろうか、とも思われた。それでも、俺は運良く、水無月の小説の読者の中で、水無月に実際に会っている唯一の人になったのだった。
俺は毎日のように、水無月のいる病院を訪問するようになった。でも、俺と彼女の関係に大きな変化はなかった。というのは、水無月がパソコンを通じてでないと会話ができないことは変わらなかったからである。
水無月の顔はかなり整っていたけれど、ほとんど無表情のまま動くことがなかった。どうやら水無月は表情筋を動かすことも難しいようだった。だから、変わったことといえば、俺の声が直接水無月に届くようになったということだけだった。
俺は水無月の病室に置いてある丸椅子に座って、水無月が出版する本のことについて話をした。それが小説家と編集者の会議だったのは、ほんの少しの間だけだった。俺はもう最初の会議で一人称を『私』にすることをやめてしまうほど、水無月と急速に個人的に関わった。だいたい水無月の本の話はすぐに終わってしまうから、それから俺たちは、どうでもいい話をしたーー誰かが書いた小説や、俺が書いた小説や、小説とは全く関係のない話だ。俺は何度か、水無月に自分がコンテストに出す予定の小説を添削してもらった。
水無月の小説は全部書籍化するほどの人気が出るので、俺は毎日のように水無月の病室に通った。そのうちに、水無月と会うことは、俺の生活の一部になっていった。まるで水無月が何年も付き合いのある友達のような気がしてきていた。
俺たちはそのうち、水無月作の書籍の話は数分で終わらせるようになった。残りのうちの半分は俺と水無月が話している時間で、もう半分は俺と水無月がそれぞれ自分の小説を書いている時間だった。
俺と水無月の奇妙な関係は、他の小説家たちに明かされることはなかった。俺は相変わらず水無月の全作品に高評価を付け、感想を送っていたが、そんなことはもうさほど珍しくないことだった。逆に、水無月も俺をひいきすることは絶対になかった。その代わり、俺の作品が全て水無月に読まれていることは、俺だけが知っていた。
俺と水無月が初めてリアルで出会ってから一ヶ月ほど経ったころ、唐突にそれは起こった。
「私はもう長くない」
いつも通り新しく水無月が出版する本の話をして、それから俺の小説が散々に添削された後、水無月はおもむろにそう言い出した。
「わかるでしょ? 私の病名は、私の名前なの」
つまり、水無月の病気は水無月から始まったものーー水無月において初めて確認された病気であるそうなのだった。もちろん、治療法があるはずもない。ただ、体が少しずつ衰弱していくのを待つしかないのだという。
「なんとなくわかるの。もうそんなに時間がないって」
水無月が彼女の目線をパソコンに入力して言ったのはそれだけで、俺はそれに何も答えることができなかった。慰めればいいのか、元気づければいいのか、見当もつかなかった。ぼんやりとした無力感があるだけだった。
水無月はすぐに「ねえ、昨日の私の新作読んだ?」と話を変えてしまい、俺は衝撃をまだ受け流せないままに、「もちろん読んだとも」と答えた。
水無月のほとんど動かない顔がだんだんやつれているのは、毎日会っていればすぐにわかった。それでも水無月は、俺以外の小説家には完璧に自分の不調を悟らせなかった。毎日十作の連載を更新し、ときどきは短編を書き、感想には必ず返信した。
その日は突然にやってきた。俺は一年ほど続けた連載がちょうど前日に終わったので、ささやかな達成感を感じていた。さあ、今日は完結ブーストだ、一気にポイントを伸ばしてやるぜーーと意気込んでいた。
早朝の五時、朝型の俺が普段起きる、ちょうどその時間だった。水無月から俺のスマホに連絡が来た。
『緊急 今すぐ来て」
たったそれだけで、俺は目の前が灰色になるのを感じた。『緊急』の後の空白が、もうそこに水無月がいないかのような空虚さを演じていた。俺は今から作ろうとしていた朝食をすっ飛ばして、速攻で家を飛び出した。
俺はできるだけ急いで、なんとか遅くならないうちに病院に着くことができた。でも、なぜか水無月はそこまで深刻そうには見えなかった。人工呼吸器をつけていたわけでもなく、息は荒かったものの、その目はしっかりしていたし、いつもの目線での会話をすることもできた。
俺がその理由を聞くと、水無月は少しだけ呆れたような表情を浮かべた。そのころ、水無月は微妙に表情を作るようになっていた。あなたに笑顔を見せたいらしいわよーーと、顔なじみになった受付のスタッフさんが、水無月の秘密の努力をこっそり教えてくれたこともあった。
「分かってないな。私はそこまでして生きていたくはないの。私は自分の考えたことを出力できなければ、もう私ではないのよ。だから、小説を書けない、コミュニケーションが取れない状態で生きていても意味がないの。だから、そういう延命治療はいらない」
そう水無月は言った。
俺はそのあと、いつものように一日を過ごした。つまり、水無月との一日を。水無月と俺は、いつものように次に出す本の話や、他のどうでもいい話を、次々としたり、それぞれ自分の小説を書いたりした。
夕方になった。水無月はどんどん苦しそうになっていた。水無月自身もそれがわかっているようだった。それでも、水無月が言ったいつもと違うことといえば、これだけだった。
「私の遺作を今から仕上げる。あとはよろしく」
水無月はそう言うと、俺と話すのをやめて、小説を書くことを再開した。彼女のいつものルーティーンだった。彼女は文字をひとつひとつ、閉じそうな目を必死に開けながら打ち込んでいった。でも俺はその画面を見ている暇はなくて、いつ終わるかもしれない水無月を見つめていることしかできなかった。
太陽が完全に沈むころ、その時は訪れた。
俺は水無月に言われた通り、水無月のパソコンにあった水無月の遺作のデータを取り、それを出版社に持ち帰り、水無月の死の事実と、水無月の遺作をノベライズに公開した。そして、俺はまっすぐ家に帰って、すぐに深い眠りについた。
次の日の朝、俺は目を覚まして、すぐに水無月がもうどこにもいないことを思い出した。それはひどく不慣れなことで、でも今から少しずつあたりまえになっていくことだった。
俺は、水無月の遺作がよく伸びていることを願って、ノベライズにログインした。
『新着メッセージが874件あります』
いきなりそれが、俺のマイページに表示された。俺は不思議に思った。今まで、新作メッセージが100件を超えることなどなかった。俺はとりあえずそれを確認することにした。
見ると、おととい完結した俺の連載小説に、5000くらいのポイントと、500くらいの感想と、50くらいのレビューが入っていた。
俺は、まさか、と思いながら、一番最近のレビューを読んだ。
『最高の作品です。水無月氏のあの遺作と組み合わせると、さらに感動的です。何度も泣きました。』
俺は変な直感がした。俺は水無月の遺作の内容をよく見てはいなかった。俺は慌ててその遺作に向かった。
『週末』
その遺作の題名はそんな名前だった。
ある週末の男と女を描いた短編だった。二人は小説家で、女は不治の病を患っている。男もそれを知っている。二人はたがいに女の終末が近づいてきているのを感じながら、映画に行って感動し、レストランでおいしいお昼を食べ、世間話をして過ごす。
その短編が素晴らしいものであるということは確実だった。でも、俺はなぜこの短編と俺の作品が関係しているのかがわからなかった。
その理由は、あとがきで明かされた。それはたった一行だった。
『この文章は、「創造神」のスピンオフです。』
『創造神』。確かに俺がおととい完結させた小説だった。そのとたん、俺は何かがぴんときて、『週末』に登場する二人の名前を確認した。ーー案の定、『創造神』の主要キャラクターの二人だった。
『創造神』の話は、俺がかなり力を入れて書いた小説だった。二人の幼なじみの小説家の話だ。
男はどんなに頑張っても、女の実力に追いつくことができない。男はしだいに女に嫉妬を抱き始める。そんなとき、男は女が不治の病にかかっていることを知る。それを機会に、男は女が最後の作品を完成させるのを手伝うことになる。その小説は完成するが、その直後、女は力尽きる。
水無月の遺作になっていた一場面は、俺の本編では五行くらいで流された部分だった。毎日一緒にいる二人が、あるとき街に出かけるという場面。それが大きく膨らまされて、その場面だけで十分成立する、エモーショナルな小説になっていた。
俺は『週末』を五回は繰り返して読んで、それから俺のマイページに帰ってきた。『作者からのお知らせ』の欄にも、膨大なコメントが残されていた。その多くが、俺と水無月の関係がどのようなものだったのかを問うものだった。
水無月は、俺が普段から売れないと嘆いているのを、笑って聞き流していた。彼女は俺の渾身の作品を見ても、まだまだねーーと言って、俺の小説の不備を指摘したものだった。
それなのに、水無月は今まで一度もしたことがなかった、他の作者の小説のスピンオフを、俺の小説にした。
嬉しいんだけれど、少しくすぐったいような、身にそぐわない幸運のような、そんな気がする。
俺の水無月の関係は、いったいどう表現したらいいのだろう。小説家と編集者というだけでは言い切れない。友達というのもちょっと違うし、恋人というのも当てはまらない。
でも、これで俺は水無月を忘れられなくなってしまった。これから俺の行くところには、いつも水無月の影がついてくるだろう。でも、それでいい。もともと俺のしたかったことはそれだったんだ。俺はきっと、水無月が誰にも忘れられないようにしてみせる。まるで夏に短い命を華やかに散らすカブトムシのような君を。
さあ、急に増えた俺の読者たちには、どうこのことを説明しようか。
『みなさん、読んでいただきありがとうございます。実は、水無月は、ーー』
私は難病である。 六野みさお @rikunomisao
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