さよならを忘れて

新巻へもん

青天の霹靂

「今までありがとうございました」

 アルバイト先での最後の出勤日、スーパーのバックヤードで大田原紹子が私に花束を渡してきた。店長やベテランさんを差し置いて、大田原さんが贈呈役になったのに深い意味はないのだろう。こういう時には一番世話になった若手がその役を務めるものだ。


「ありがとう」

 今までの礼を言い頭を下げる。大学生活のうちの3年近くをここで働いていたので思い入れは無くはない。そのうち大田原さんとは1年の付き合いだ。花束を手に通用口に向かうと拍手で送られた。


「さようなら。……」

 拍手の音の中で大田原さんの小さな声が聞こえる。私は戸口で振り返り皆にもう一度頭を下げて店を後にした。家に帰って上京の準備をしなければならない。なんとか就職することができた会社の入社式が3日後に迫っていた。


 大田原さんは私がアルバイトしていたスーパーマーケットのお偉いさんの御令嬢だ。高校一年生のときに社会勉強ということでアルバイトを始め、私が指導係にされる。奨学金だけでは足りずアルバイトで学費をまかなう私と違って優雅なご身分だなとは思ったが、節度を保って接した。


 一番年齢が近いということもあり、重いものを運ぶのを手伝いがてら話をすることぐらいはある。お偉いさんを父に持つものの、複雑な家庭環境ということを知ったのは、私がスーパーマーケットをやめて上京する直前のことだった。そんな話をきけるぐらいの関係にはなっていたが、大田原さんとはそれ以上何かあったわけじゃない。上京してすぐにその存在は忘却の彼方へと消えた。


 就職した会社は社員寮があるというのが魅力で選んだ。東京の家賃は恐ろしく高い。寮費は月3万円で光熱水費込み。奨学金の返済もあるし、少しは遊興費に回せるお金が欲しいとの目論見だった。ただ、仕事に忙殺され金を使う時間なんてありはしないというのに気が付くのに時間はかからなかった。


 同期は上手く職場に溶け込みプライベートも充実している。寮では彼氏を呼べないからといって半年以内に次々と出ていった。毎日職場で叱責されて神経を擦り減らす私にそんな余裕はない。職場と寮とを往復するだけの生活。仕事をやめたいと何度思ったことか。しかし辞めたら奨学金は返せなくなる。両親や妹に迷惑はかけられなかった。


 1年が過ぎ、寮には次の年次の社員が入ってくる。風呂は共同なので深夜に私が入る頃には恐ろしく汚れていた。長い髪の毛がいくつも浮かんでいる。寮母さんが掃除をしているがこの時間には当然いない。シャワーだけを浴びて寝ていたが、半ば学生気分の賑やかな連中もいつの間にか寮からいなくなる。私一人しか居ない寮というのは静かでもあり寂しくもあった。


 そして年度末の金曜日、疲れがピークに達していた私は自室に入るとスーツの上下だけを脱いで敷きっぱなしの布団に潜り込む。なんだかいい夢を見ていた。夢うつつの私は温かい肉まんを手にしているような気がする。いつものくせでふにふにとすると蕩けるように柔らかった。


 全身に何かふんわりとしたものが押し付けられる。

「ふううーん」

 甘い声が聞こえ微かな違和感を覚えた。嫌々ながら目を開けるとほの暗い中に白い容貌が飛び込んでくる。


 固まっているとパチリと相手の目が開く。

「お早う」

 どうも幻覚でも幻聴でもないらしい。誰かが私の部屋に侵入している。その事実が頭にしみこむと私はわっと言って布団から抜け出し、部屋の壁に背中をぴたりとはりつけた。


「だ、誰?」

「もう忘れちゃった? つれないなあ」

 すっと立ち上がると侵入者は窓のカーテンを少しだけ開ける。振り返った顔には見覚えがあった。


「大田原さん?」

「ああ。良かった。暗くて分からなかっただけなのね」

「こ、ここで何してるの? どうやって入った?」

 私の問いに大田原さんは小首をかしげる。


「もう10時なのに起きてこないから心配して見に来てあげたの。どうやってって、普通にカギ明けて入ったけど」

「なんで鍵持ってるの?」

「だって寮母だし。合いカギぐらい持ってるでしょ」


「は?」

「そんなことよりも続きしよ?」

 布団の側にすとんと座るとぽふぽふと上掛けを叩く。

「つ、続きって?」


「やだなあ。さっきはあれだけ積極的だったのに。死んだように寝てると思ったらいきなり揉みしだくんだもん。ちょっとびっくりしちゃった」

 私は右手を見下ろす。じゃあ、あれは肉まんじゃなくて……。

「そういうこともあろうかと事前にブラ外しておいて良かった」


 もう何がなんだか分からない。

「さあ。落合さん。ようやくその気になってくれたんだから、最後までしましょう」

 私はわけの分からない理由を口にした。

「いや、その布団しばらく干してないから」


 大田原さんはスススとにじり寄ってくる。

「それに昨日の夜シャワーも浴びてないし」

 私は壁に背中を押し当てた。アンダーシャツとパンツだけという格好がひどく無防備に感じられる。薄いとはいえ壁は壁。逃げ場は無かった。


「それに心の準備が……」

 弱々しく言ってみるが、大田原さんは私に馬乗りになる。可愛らしく唇を尖らせた。

「私は2年前からそのつもりでした。さすがに高校卒業するまではって遠慮しましたけど」


 大田原さんの手がアンダーシャツの裾にかかる。慌ててその手を押さえた。悲しそうな顔をする。

「私のことが嫌いですか?」

 ひたと見すえられ私は身動きできない。


「い、いや」

 ようやく絞り出した言葉に大田原さんは今にも泣きだしそうになった。

「いや。そうじゃなくて。嫌いじゃないわよ」

 慌てて否定すると上目遣いで見つめてくる。


「私があの時、どんな気持ちでさよならを言ったか分かります?」

「ええと」

「分からないですよね。でも、もういいです。こうやって会えましたから。忘れてください」

 いきなり唇を塞がれた。


 大田原さんは顔を放すと膝をさすった。

「やっぱり畳の上じゃ痛いですね。それじゃあ、お布団を干しましょう。落合さんはシャワーを浴びてください。それから朝ご飯を食べて、お掃除が終わる頃にはお布団もふっくらしているはずです。いいですね?」


 大田原さんは布団を畳んで抱え上げる。部屋の扉のところで振り返った。

「私が戻って来る前にお風呂に行ってないと、一緒に入ることになりますからね」

 スカートをひるがえして颯爽と出ていく姿を見送り、私は慌ててタオルをひっつかむと風呂場に走っていく。


 こうして私の人生に無理やり紹子が割り込んでくる日が始まったのだった。


 

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