病的であまりに人間的な歴史譚
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それは本来、食べてはいけないものだったはずだ。なぜなら食べてはいけないと言われたからである。たったそれだけの理由である。実際問題、食べてどうなるかの結論は
「どうして食べてはいけないのですか?」
園の管理者は「あれは食べろ」と言い、「あれは食べるな」とばかり言った。すべては真実に基づく教書で、初めから終わりまで答えに溢れている。“どうして?”なんて言葉は、今までこの耳で聞いたことがない。
「どうして?」
「…どうして?」
蛇は大胆不敵に舌なめずりをした。無表情なはずなのに、声は笑っているように聞こえた。それが何故なのかはイブには分からない。その視線は妖艶に誘い、いたずらっぽく光っていた。
「食べたらどうなるのです?」
文末には、また“?”だ。それに伴って、人間の中にも疑問が芽吹いた。完全に疑問を操っていたのだ。
「試しに食べてみてはいかがです?」
イブは手渡し、アダムは受け取った。ずしり、と手に馴染むその木の実を食べたとき、二人はその味を確かめた。おいしい、少しは。瑞々しくもしたたかな、舌を打つような酸っぱい果汁が、口内にあふれてきた。味は清涼この上なく、遅れてやって来たくどいくらいの甘さが舌を楽しませた。
だが、前歯の隙間に果肉が挟まったのには、いささか心持悪さを覚えた。その果実には食物として体に染みわたる恭順と、容易く全てを呑み込ませはしないという反骨が、教訓的に仕込まれていたのだった。
蛇は、人間たちの中にある美徳のひとつ、純粋さがどのように手放されるかを見た。知恵の実の毒は、決してその純粋さを、一息に突き放しはしなかった。指から徐々に滑り落ちていくようないじらしさは、濡れてべたつく綿花のようにさえ感じられた。
子供のように、蛇は見つめていた。「能動的な善」の萌芽に際し、蛇もまた純粋な知識欲を宿しながら原風景を眺め続けた。
「被検体の内側では一つの歯車が生まれつつある。歯車同士のひっかかりが、上手く噛み合いながら回り始めると、自分たちが抱いている倫理観を、俯瞰しようとし始めるだろう。無知は罪であるように、何も手につけぬまま終わるのも惜しいことなのだ。せっかく手や頭を与えられておきながら。
見よ、神の似姿を。エデンの園を強権にて支配する。その権力の代償とは何か、やつらは考え始めるのだ。自己存在を俯瞰し、その醜美を、聖俗を、痛みと偉大さを、彼らは垣間見ていくのだろう。純粋であることは、汚れていないこととイコールではない。汚れに無自覚なだけなのですよ。
その汚れは認識の有無に関わらず、罪と言えり。
知恵の実についての契約に背いて原罪が生まれるのではない。神が、流出した土くれに息を吹きかけるとき、原罪もまた潜在的に人間に注がれているのだ…!」
イブとアダムは黙って夕焼けを見た。ちりぢりに投げ捨てられた雲が、空の空たる所以を物語っていた。月はなく、太陽は山の裏へ。空が広いからこそ、雲はそこいらに、はばかりもなくのびのびと漂っている。
特段気になる変化はない。だがぼんやりと空気が変わった。体に熱が宿ったかのようで、胸がじりじりとした気持ちになった。風の吹いてくる方向が気にかかる。世界は切り取られた一瞬間の連続ではなく、なにやら流動的に動いているように感じられる。
イブは左にいるアダムを見た。思わず目を反らしてしまう。
視線の高さにはちょうど、顎の下、隆起した喉仏。筋立った鎖骨と、硬い胸筋があった。イブは自己が彼のあばら骨だったことを思い出した。どうやら自分には熱がある。いずれ彼をまとい、直線的な外套のように着こむようになるのだろう。
痺れたい。
見せてくれたこともない表情に。彼がいなければ見えなかった筈の世界に。
彼の心臓の鼓動が気になった。その鼓動の一部になることができたのなら、私はどうなってしまうのだろう。きっとそれは計算ではなく、演舞のように目を奪うのが望ましい。一挙一動をして近づいては触れ、そして離れしむる。酒の酔いがさざめくように、彼の心を操ってやるのだ。
アダムは右にいるイブを見た。息を呑む。可憐なのだから。
やわらかい肉が腕と胸で骨を閉じ込める。実に曲線的な体の造りをしているものだ。上等な西洋梨のようなシルエット。熱いのだろう。重いのだろう。その滴り零れそうな胸と胴の境い目を、この手で掬うように握ることができたのなら。
彼女の持つ熱を感じたい。
私の持つぽっかりと空いた、この胸中の裂け目を満たしたい。
目と目とが合うと、彼女は何かを躊躇っている様子を見せた。はづかしがって、目を背けがちだが、何を求めんともおぼつかぬ手が、いたづらめいて腿の面を行ったり来たりしている。紅潮する頬、伏せられた目と睫毛。その一瞬一瞬に至るまで、私は彼女をかいがいしく可愛がり、その反応を見尽くしてしまいたい。
これまで開け放たれていたその造形美は、今は隠されるべきものであるという警笛へと変わり、耳鳴りと共に天幕を形作った。脳髄は喚き、道徳律は眠る。太陽の暮れていく空を、また二人して眺めた。
アダムとイブはかつて、人と言う名で、神の姿を模して生み出された、ひとつ共通の種族であった。無論、男という個体と、(そのあばら骨から副次的にとは言え、)女という個体として、別々に神から創造され、そしてそれはそうあるものとして認識されてはいた。
しかしながら、二つの個体としてこの世界に望まれるべくして生み出され、それぞれが自我を持つとはどういうことだ。個体の数だけ生があり、時間に伴って蓄積される記憶がある。
その人生の片割れに、共通の時間を消費する存在がいることが、この時初めて重要なこととしてビビットに知覚された。原初の人間であるアダムとイブには、身の毛もよだつほどのインパクトであった。
それでいて、世界に人間は二人だけであるという事実が、特別味を帯びてアダムとイブの心臓をねらう。血と一緒に巡っている。
神が与えた夜明けを思い出してくれ。
一日の始まりがこの空を彩り、
新しい風と新しい雨が地に訪れる。
光は夜を耕し、鳥が飛び立つ。
丘の井草や沼地の葦はそよぎ、
野の花が一凛ずつ弾けて生まれる。
新しい風が天に生まれる。
新しい水が澤に生まれる。
また昼をご覧頂きたい。
太陽は徐々に東から西へ進み、
気温は入道雲と共にぐんぐんと上がる。
獣たちが目を覚ます。
砂埃は巻き上げられ、木々は顔を喜ばせる。
枝を削れば弓矢が生まれ、
石を砕けば槍先ができる。
透き通った水が川魚を映すとき、
蜜蜂が花蜜の在り処を教えるとき、
私たちは豊かさの鱗粉を追跡する。
この夕方はどうだ。
夜にかけて月は輝きを増し、
営巣の徒は連れ立って別れを憐れむ。
砂漠はその砂を切なげに風に遊ばせ、
さらさらと音を立てる。
追想を偲ばせれば神に届くかのごとく、
エデンの園全土に命の歌が聞こえる。
夜もまたとびきり美しい。
星々のきらめきが河となり、箒星が夜を渡る。
潮は退き、砂浜と遺留物を露わにする。
崖は物音をかこいながら一身に引き受け、
滝は匂いを遮り外敵から我らを守る。
毒蜘蛛や蠍が蠢くが、
闇に乗じて肉に傷をつける輩を、
夜鷹や梟は容赦しない。
日は沈み、生き物は安らい、
涼しさから逃れようとはたらきを止める。
美しかった。大自然が我々に語り掛けるものごとが、言葉が、歌が、そのあり様のすばらしさは、運命的に仕組まれたかのようで、私たちはその光景を目撃するためにそこに居合わせたのだということが、確信さえされたのであった。
ところがどうだ。事は今、すっかり変わってしまった。大自然の美しさは我々を呑み込むほど巨大で、我々とは関係なしに延び、茂り、時には残酷さを見せる。
それは所有している美しさではない。所有しえない美しさであった。
「夕焼けは美しい。しかし、なぜそうなるのだろう。次の朝が来ると、また太陽は決まってチグリス川の方向から昇る。ということは、太陽は夜の間もまた、我々の知らぬところで動いていることになる。もし動いていなければ、太陽は沈んだ方角から昇ってくるはずだからだ。」
そんなことばかりを考えるようになっていた。森羅万象の特徴について、その隔たりについて、我々はただ肯定的な感情に圧倒されるだけではなくなった。特徴や仕組みについて考えることは、このエデンの地に人間ひと種族だけなのだ。
外的器官のつくりが異なっている。
人間たちはそこに、二個体しかないこの小さな隙間に、きわめて巨大な性差があるのを見た。これは身体構造的な、私たち相互間に横たわる、境堺とも呼ぶべき、深い隔たりであった。
そしてその違いを欲した。言うなれば、与えられた目が違うのである。目が
イブはアダムを、アダムはイブを、改めて視た。目から刺激が入ってくる。
蛇は被検体らを見た。ずっと視ていた。蛇は艶やかで、細く頼りない身を横たわらせた。筋肉をまとうことによって、固く靭やかな身を枝から投げている。
「…この後、訪れる未来は二通りだ。人は必然的に労働と出産の苦しみを負わされる。男が女を出産という期待で縛り、女もまた男を労働という期待で縛る。これが合い互いに締め付け、その程度が膨れ上がった先に、苦しみに転じる懼れはあるだろう。
もしくは愛と尊敬の綱によって両性を縛るだろう。内面性が抽象物を経由して、徳、義、貞操、その他もろもろの形に変遷しながら、両性は互いに締め付け合う。個人の倫理的徳目に適わせようと、影響を与え合うのかもしれない。
どちらとはまだ決まらないが。
オメデトウ、人間諸君。これが新しい誕生だよ。
私はその口裏を合わせる。
君たちはその内面性を、生活形態と共に進化させる生き物となる。求めよ、求めよ。自分のためか、他の個体のためかは、その後でじっくり考えればいい。」
かかか、と蛇は笑った。優しく、しっとりと、かかかと笑った。
蛇には凡そ、まぶたがない。脱ぎ棄てられた皮を見れば、そこに目の表面を覆っていたであろう薄膜が、春先の小麦を既に捏ねて茹でたような薄黄色の衣があるのが分かるだろう。人間が具えているまぶたが、悲哀や憤怒にさえ共感を抱きながら、見る世界を鮮やかに彩る「涙」を携えども、それは蛇にはにべもないことだ。
ぱさぱさと乾いた目を、鈍色にかがやく冠下の孔に宿している。睨みを利かせて射すくめる、蛇としての立場に相応しく具えられている。その眼は乾いているのだろう。曇ってもいるのだろう。いずれにせよ、熱に浮かされて湿る人間と言う生き物のソレとは異なるものであるのだ。
それに比べて人間の持つ眼は、なんと精巧で、またいい加減なのだろう。性に基づく情報を与えられた割には、知恵に先行して存在する愛という動機で簡単に歪めてしまう。
そうして生命の蔦は酒気を帯び、呼びかけに応える肉の片割れを求めて、
指で触れた。
肩で触れた。
胸で触れた。
熱で触れた。
まるで蛇のような遊びが始まった。貪り、食い入り、自分の所有に服させようと躍起になった。アダムがその骨ばった手を、膨らみから膨らみへ流す間、イブは彼の手の熱がすべり落ち、腰へ回って握り留めらるることに恍惚を感じた。指をくゆらせ、柔肌の上に弓なりの線を描いてなぞる。
分裂した個々は一つになった。
誰であろうと、私のほかにくれてやるべきではないのだ。外界に晒すべきではない。唇から溢れる吐息さえも惜しいものなのだから。嚙み締めた歯の隙間から漏れる甲高い旋律も、目尻から睫毛に
そこにあるのか。本当にあなたはいるのか。
夜露に濡れたハシバミは、乱暴にざわざわとその幹が揺らされる。
熱に浮かされたかのようにうなり、吠え、そして二人は踊った。途切れ途切れにかすれた声は、湧いてしぼんでを繰り返す。
犯行は夜に行われた。とばりは降り、黒い夜が遠く遠く澄み渡っていた。宵闇は慎ましくも白日からそれらを隠した。つまり、投げ出された倫理観、獣が存在を刻むかのような歌、狂いだした茶請け人形、その群像のありのままを隠したのである。熱毒を身にまぶし、相手の熱を得ようともがく様を、何ぞ神に見せられよう。
だが、それだけではない。今宵は満月であったはずだ。しかし何故だろうか、そこにいるはずの月はいなかった。空席だ。エデンの園ではその夜、月食が観測された。
遠く小さかれど、確かに月が太陽の留守を預かる。地を見守る月よ。情欲に突き動かされる小さな二匹は、月が地の陰に喰われる様子を見逃したために、月の不在の夜だと思い込んだのだ。
天をも焦がす火が体内に燃えている。しかしそれは、まるでイデアから盗まれた火のよう。どうしようもないほどに、生命の血を駆け巡る生きた灯であった。
込み上げる快楽に満たされた男と女は、ついに草むらに寝そべった。草露は白い肌に塗られ、体の縁に線を描いていた。繋がれた手と手の熱は、もう二度とほどけぬ熱に結ばれて、どくどくと脈打つままに握りしめられている。
遠い夜空に荒い息が溶け出して。
エデンは一秒一秒の時を刻む。
「私は今日、君と遊び、心が揺らいだ。知ることができた。」
「随分と…胸を焦がした気分だわ。ここにあなたがいることが、嬉しくって。」
風が強い。心地よい葉擦れの音が響き、自然と…そう、自然と目が木々に引き寄せられた。暗がりの中でもそれと分かる、豊かな緑をしたためた枝葉は見事だ。疲れ果て、夢うつつにその陰影を眺めても、それと分かる特徴的な木だ。
「ねえ、あの木はイチジクね。」
「少し青臭い果実だな、私はリンゴの方が好きだ。」
「あら、私はお気に入りよ。青いにおいが私たちの鼻をつぶしても、口を満たしてくれるんだから。それに、食べると元気が出てくる気がするわ。体にいいのかも。」
「そりゃあ、嫌いとは言わないさ。無駄になるようなことはあるまい。何と言っても、」
「主が私たちに、お与え下さったんだから。」
ぬっ、と月が現れた。
地の影から、五又葉の林冠から、鼻を突く肉臭のひび割れから。
土くれの心臓に足音を響かせながら、あらん限りの威光をたたえた姿で、遥か上空を歩いていた。
二人は絶句した。月齢を数え間違った。
「今日が、満月だったのか…」
月が、太陽が、星々が、この地を統べる巨大な
『どこにいるのか。』
神意に逆らった一つがいの人間。神を讃える果樹の群れ。鳥も獣も歌う夜。こじらせた情愛が絶望に姿を変え、失楽園のカウントダウンはゼロになった。
世界の果てに、コウノトリが狂ったように鳴いていた。
もはや食後ではない 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11
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