第13話 川瀬照子という女



 待合室に戻ってきた少女は、中在地の姿を見ると、

「まだいたんだ」

 という、素っ気のない一言を投げ掛けた。

 面食らう青年に対し、「着替えるからあっち向いて」と告げると、躊躇いなくスクール水着を脱ぎ始める。慌てて壁の方を向いた中在地は、何を言うべきか迷った末、当たり障りのない思いを伝えた。

「……お疲れ様」

 対し、少女はまた気だるげな口調で、疲れた、と小さく呟いた。

 だが中在地には分かっていた。あの『いきづまる水槽』から出る瞬間、彼女が紛れもなく安堵の笑みを浮かべていたことを。

 彼女はずっと、溺死の恐怖と戦っていたのだ。ただ、それを表に出さなかっただけで。狂気の渦中にあっても、平静さを失わず、『自分』で在り続けることができる。それがテリコの強さなのだろう。

 そう、水の中で燃え続ける、揺らめくことのない火のように。

 そんなことを、思った。

「お待たせ」

 振り返ると、制服にスカジャン姿のテリコがそこにいた。

 金の髪を丁寧に拭く姿は、水泳の授業の後の高校生のようにしか見えない。先ほどまで生死を賭けたギャンブルに挑んでいたとは思えず、なんだか無性におかしくなってしまう。

 と。

「封筒」

 テリコが言った。

「見たの?」

「いや、見ていない」

「ふーん……。ベネディクトさんは?」

「客の対応があると言って出て行ったよ」

「ううん、違う。封筒。見たのかな、って」

 首を振り、応じる。

「対戦者のつもりになって考えてみたいから、見ない、だってよ」

「……ふーん……」

 中在地はテリコにその封筒を手渡す。

 そうして、言った。

「俺の予測を聞いてくれるか?」

「いいよ。なに?」

「お前の『太子』――角だったんじゃないのか?」

 正解、と。

 また平然とテリコは応じた。

 ……少女が「事態が進行している」と口にした時。あの時は、戦型が角交換型相腰掛け銀に決まった時だった。即ち、あの時点でテリコの『太子』は取られてしまっていたのだ。

 テリコの取った策は、確かに恐るべきものだった。

 「『太子』は何か?」を予測する『太子将棋』で、角を『太子』にし、角交換を行うことで、ゲームの根幹を崩壊させてしまったのだから。自分だけ損をした状態で駒を進めていたのだ。言わば、手札を見ずにブラックジャックをしているようなものだ。

 しかし、少女は言った。

「そうでもないよ」

「え?」

「奇を衒いたいから、角を指定したわけじゃない。『太子』って要素を捨ててしまえば、ただの将棋として考えられる。将棋に集中できる」

「なるほど……。そういう風にも考えられる、か」

「私にはそうとしか考えられなかった」

 だって私は、ギャンブラーである前に、将棋指しだから。

 そう言って、彼女は笑ったのだった。

 それが将棋指しであり、ギャンブラーである彼女の一分だった。


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ギャンブラーの一分 吹井賢(ふくいけん) @sohe-1010

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