第12話 一分
どうしてこうなった―――?
喉元まで水が迫る中、ヴェントは自問自答する。
予測外の事態が、三つあった。
一つ目は、この会場に電波妨害が仕掛けられており、ソフト打ちというイカサマが使えなくなったこと。
だが、これはまだ良い。アバドン製のスーパーコンピューターのバックアップはあくまでも保険。ソフトの手など借りずとも、ヴェントはプロ棋士に勝ったこともあるほどの将棋指しだ。『シェオル』屈指の打ち手であるテリコにも後れを取ることはない。そう思っていた。
二つ目の予想外は、『太子』として指定した左の香車が取られてしまったことだ。
しかし、これも戦局の移り変わりを見れば、仕方のないことだった。テリコの側も、「左香が『太子』だ」と見抜いて取りに来たわけではないだろう。単に王を攻める過程で取ることになっただけ。故にヴェントの側も、普通に応じる必要があった。そこで香車を庇うような動きを見せれば、「自分の『太子』は左の香車です」と白状しているようなものだからだ。
ヴェントによって致命的だった予想外は、三つ目のみ。
三つ目――目の前の少女が、頭の先まで水に浸かろうとも、勝負を投げる気配がないことだ。
「…………」
最早、話すことはない。
そんな余裕は互いにない。
特にテリコの側は、窒息しないよう、定期的に椅子から立ち、呼吸をしなければならないのだ。けれども、余裕などないはずなのに、彼女は落ち着いていた。いつも通りであった。
そして、何故だろうか。
彼女の翠緑色の瞳は、気だるげながら、紛れもなく輝いていた。
燃え盛るのではない。揺らぐこともない白い火が、そこにあった。
「……っ……!」
少女は限界まで考えると、ゆっくりと立ち上がり、深呼吸を行う。
それだけなのだ。
そうしてまた、思案を始めるのだ。
まるで、死を恐れていないかのように。
その姿に――ヴェントは、恐怖した。
戦況は動き続けている。どちらが勝ってもおかしくない。どころか、今から詰みまで百手以上掛かるかもしれない。このまま息止め合戦を続ければ、どちらかが窒息する。あるいは、どちらもが溺死するかもしれないというのに。
―――なんなんだ、このガキは……!?
もう一分もしない内に、ヴェントの顔面も水に浸かるだろう。その頃には、テリコは立ち上がっての深呼吸もできなくなっているかもしれない。
だというのに、コイツは。
ただ将棋を打っているような顔をして。
―――イカれてやがる……!!
対局時計の電子音がいやに耳につく。俺は、負けるのか? いや、まだ負けてない。詰ませればいい。殺せばいい。どちらでも俺の勝ちだ。けれど、ここから何手で勝てる? 相手の『太子』すら分からない状況で?
―――まさかコイツ、窒息するまで勝負を続けるつもりなのか……!?
困惑は焦燥となり、焦燥は混乱となり、混乱は思考能力を奪う。
心が乱される。
ただでさえ貴重な空気が浪費されていく。
そして、その時は来た。
「……お前のようなイカれたガキに付き合い、死ぬのはごめんだ。だから、俺の、負けだ……!」
参りました、と。
永遠のように長い一分の後。
ヴェントは降参を申し出たのだった。
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