第11話 白い炎



 ヴェント、飛車打ち、王手桂馬取り。

 テリコ、王将を二段目に移動させる。

 対しヴェント、桂馬取り飛車成。

 手数は八十を超えていた。

 既に両者共に持ち時間はない。互いの陣地の半分は崩壊している。

 将棋を知る者なら誰もが思うだろう。

「この勝負――どちらが優勢だ?」。

 囲碁や将棋といった遊戯においては、「どちらを持ちたいか」という問い掛けがなされることがある。先手か後手を引き継ぐとしたら、どちらを指してみたいか、という意味で、それは即ち、「どちらが勝ちに近いか」の判断である。

 しかし、ことこの『いきづまる水槽』においては、どちらも持ちたくない者が大半であろう。

 一つは趨勢が読めないという理由で。

 一つは、窒息の危機が迫りつつあるという理由で。

 両者の足首は、すっぽりと水に浸かっていた。

「冷たい、ねぇー」

 他人事のように呟く男。しかし、その額には汗が浮かんでいた。

 冷や汗であった。

 暑くはない。むしろ寒い。足先から熱が奪われていく。持ち時間を超えるごとに、着実に上がる水量。ただの水が無音の死神と化し、足元から忍び寄ってきていた。

 『太子将棋』という盤上の遊戯を脇に置き、『いきづまる水槽』というギャンブルを見た場合、圧倒的にヴェントが有利であった。

 それは彼がイカサマをしているからではない。ソフト打ちとフラッシュサインを用いた策は、この会場に電波遮断装置が実装されていた時点で、ほとんど意味がなくなった。自らの奴隷に持たせたスマートフォンはソフト打ちの為に造らせた特別製だが、それでも、通信ができなければ実力の半分も発揮できないだろう。

 本物の将棋指しならば、スマートフォン程度の人工知能に、負けることはない。

 ヴェントが有利であったのは、将棋ではなく、『いきづまる水槽』のルールであり、構造的欠陥と呼べる部分だった。

 「十秒以内で一手を指し、一秒超過するごとに、一定量の水が注入される」――一見、平等なゲームに見えるが、決定的な不平等がある。体格、身長の差である。

 あのディーラーの女は言った。

 ―――『一秒でも超えてしまった場合、水槽一目盛り分の水――約一センチ分の水が注入されます!』

 さて、“水槽一目盛り分の水”とは、具体的には何リットルであろうか?

 それは対戦者の体格を考慮して注がれるものなのか?

 だとしても、長身の人間はそれだけ座高も高くなる――窒息するまでの猶予も、長くなる。

 そして、ヴェントはテリコよりも圧倒的に長身だ。

 その事実、決定的な不平等は、手が進むごとに顕著になっていった。

 九十手―――。

 ヴェントは膝まで水に浸かる。

 テリコは腰まで漬かっている。

 百手―――。

 ヴェントの腹部が水に濡れ始めた。

 テリコはその豊満な胸部が水に隠れた。

 そして、百十手―――。

 テリコの口元まで、水が迫っていた。

 しかし、ヴェントはまだ肩口が濡れた程度だ。

「スタイルが良いってのも考えもんだなあ。お前、脚は長いが、その分、胴が短いのサ。だからこういう勝負では、」

 と。

 瞬間だった。

「―――いいの?」

 一秒も考えることなく成金を桂馬で取り、少女が言った。

「え?」

「話している暇、あるの? 私は、あなたを詰ますよ」

「……何を、」

 歩打ち。狙われた銀を斜め前に進めて回避させ、続ける。

「あなたが降参しない限り、あなたは死ぬことになる」

「強がりの脅し言葉か? 勘弁しろよ、好きになっちまうぜ」

「あなたは、何も分かっていない」

 少女はもう一度、繰り返す。

 あなたは何も分かっていない。

 この勝負がどういうギャンブルなのか。



 その時、中在地は不思議な感想を抱いた。

 「綺麗だ」と――そう思ったのだ。

 少女が一手を打つごとに、煌めくように見えた。否、違うだろうか。そのような穏やかな美しさではない。そう、それは喩えるならば、超高温の炎。揺らぎもせず、ただ真っ直ぐに燃える火。鉄さえ焼き切る白い火だ。

 頬は緩んでいない。唇は固く結ばれている。気だるげな雰囲気さえ、いつもと変わらない。何一つとして変わらない。口元まで水が迫り、やがて窒息すると分かっていても、全く揺らぐことのない意志。それが白い炎として幻視できた気がした。

 死ぬことが怖くないのか、と彼は訊ねた。

 「怖いよ」。そう彼女は応じた。

「……そうか。そうなんだな」

 中在地にも、ようやく分かった。

 彼女はこんな場においても、揺らがない。

 それがテリコのギャンブラーとしての在り方なのだ。


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