第10話 テリコの策、ヴェントの策
テリコは常々、思っていた。
「将棋はギャンブルに向いていない競技だ」と。
盛り上がる賭けには必須とも呼べる要素が一つある。それは、「大逆転が有り得る」ということだ。オッズ通りに進行しないということ――それが、ギャンブルの人気の秘訣なのだ。
必ず本命馬が一着になるならば、誰が競馬などやるだろうか。
巷で人気のギャンブル、例えば麻雀やポーカーなどは、運の要素があるからこその逆転劇があり、素人から玄人まで愛されている。
対し、将棋やチェスといった競技――ゲーム理論において、『二人零和有限確定完全情報ゲーム』と呼称されるものは、大番狂わせなど、滅多に起こり得るものではない。場の状況も、自分の駒も相手の駒も、全てが開示されている。ブラフもハッタリもほとんど存在しない。
強い者が勝つ。それが将棋の本質だ。
……尤も、メタゲーム――「ゲーム開始前段階における戦略」は存在するため、「強い者が“必ず”勝つ」とまでは言い切れないが。
将棋とは対話だ。相手の手に、どう返すか。自分の手に、相手がどう応じるか。それを繰り返していくゲームだ。そうして戦型が決まり、戦いが進行していく。
だからこそ、相手が苦手とする戦法や研究が進んでいない盤面に引き込んでしまえば、弱者が強者を刺すことも在り得る。
こちらがどれだけ角交換型の将棋を得意としていようとも、相手が応じなければ、その戦法は取れないのである。
「ヴェントさん」
電子端末を操作し、飛車を6筋に移動させ、テリコはチェスクロックを押す。
既に手数は五十手を超えている。互いの持ち時間は僅かとなっていた。
時間を使い切ってしまえば、後は十秒将棋。一秒、時間が超過するごとに窒息の危険性が高まるデスマッチが始まる。
「……なんだ?」
十秒近くの時間を使い、歩を四段に移動させたヴェントが応じる。
これで二人の持ち時間は一分を切った。
「――あなたは、」
チェスクロックが、会場に設置された大時計が、時を刻む。
テリコの手は――5六銀。
「……あなたは、イカサマをしている」
「それはサ、番外戦術ってやつかな? あることないことを告げて揺さぶって、ミスを誘うっていう」
ヴェント、迷わず同歩。
軽快にクロックのボタンが押される。
持ち時間が切り替わる。
「根拠はないから、そう思ってくれていい。でも、あなたは不自然」
「何処が?」
「打ち方。将棋指しとしての在り方が」
「どの辺りが不自然なのかな?」
問いにテリコは答えなかった。
代わりに前に出した飛車を二段に戻す。
持ち時間が――尽きたのだ。
「もう話す時間すら惜しいから、これだけ言っておくね。あなたがイカサマをしてようとも、将棋で私に勝てなければ意味はない。私の太子が何処にいるか分かったとしても、だよ」
男は。
舌打ちをしながら、やや考えて、角を打った。
ここでヴェントの待ち時間も尽きた。
これからが、『いきづまる水槽』の真骨頂。
どちらかが死ぬか、死ぬような負債を背負うまでの戦いだ。
ジャスティン=ベネディクトが考案した『太子将棋』には、ギャンブルとして決定的な欠点があった。それは奇しくもテリコの思想ともリンクしていることだった。
本将棋に『太子』という要素を足したもの。それが『太子将棋』だ。
しかし、「王将が取られてから『太子』は効力を発揮する」というルール上、まずもって、将棋が強い人間でなければ、まともに勝負すらできない。しかも、「王将が取られる前に太子として指定されていた駒が取られていた場合、その効力は失われる」わけだから、例えば互いに太子の駒を取ってしまったならば、後は普通の将棋になってしまう。
故に、ベネディクトは『太子将棋』というゲームを行ったことがなかったし、アバドン側から「こちらにも腕の立つ真剣師がいる」という通達がなければ、実施しなかっただろう。
しかし、この時点で考えなければならない事柄があった。
メタゲーム――ゲームの前に、ゲームに臨む相手の思想を読まなければならなかった。
―――「何故、アバドンは将棋の対局を受けたのか?」。
考えられる可能性は三つ。
一つ、この勝負がアバドン側にとってさして重要ではなかったから。
二つ、自分達側の代打ちの腕を全面的に信用していたから。
そして、三つ――何らかの手段で勝つ算段が整えられていたから。
即ち、イカサマである。
「ナカザイジ」
ベネディクトは隣に腰掛ける青年に声を掛けた。
「俺が思うに、ヴェントはイカサマをしている。何か分かるか?」
「……分かりますよ」
意外にも内調の事務屋は肯定した。
「ほう。良い観察眼だな」
「ヴェントという男の視線を追っていれば、自然と気付きます」
将棋にイカサマはない。
果たして、そうだろうか?
それは「手札を入れ替える」といったペテンがないだけであって、将棋の世界、特にネット将棋では、とあるイカサマが横行している。
「アイツ、判断に困る盤面ではソフトの力を借りている」
―――ソフト打ち。
文字通り、「将棋ソフトに助言を貰う」というものだ。
一般的な将棋指しでは高性能な将棋ソフトにまず勝てない。プロの棋士であってもスーパーコンピューターには後塵を拝することが多い。ソフトの助言があれば、圧倒的に優位な状態で戦える。
「ヴェントがやっているのは、ソフト打ちとサインによる伝達です。彼から見て正面斜め上の位置、スカーフを巻いた女性がいます。彼女が盤面の情報をスマートフォンの将棋ソフトに打ち込んで、フラッシュサインで助言を与えている」
「よく気付いたものだ」
「野球が好きなもので」
『フラッシュサイン』とは、主に野球で使われる暗号のことである。
「監督が帽子を触ればバント」という具合に、ある部分、ある動作に対して、一つの指示を対応させておくのだ。
将棋の駒は八種類。盤面は九×九。
将棋の一手は「3四歩」という形で表せる。
最低限、盤上の地点を示す二つの数字、駒を意味する八つのサインさえ用意すれば、指示を飛ばすことができる。
「ただサインを送るだけじゃ丸わかりなので、キーサインを用意しているようですね。自然な仕草――時計を見る、ワインを飲む、髪をいじる、といったものをサインとして設定し、『唇を触る』をキーサインとして、唇を触った後の行動を本物のサインとして送っている」
恐らく、それだけではないのだろう。
というのも、将棋では「5五金」という指示を出したとしても、それが金を前に進めるのか、それとも、駒台の金を置くのか、それだけでは分からないのだ。
故にかなり複雑なサインを用いていると推測できるが、そのイカサマをやっていることだけは間違いがない。
「お見事だ」
ぱちぱちぱち、と大袈裟に手を叩き、ベネディクトは笑う。
「しかし、そこまで気付いていて、何も言わないとは思わなかった」
「だって意味がないですからね」
「意味がない?」
「あなたが言ったんでしょう。『イカサマは対戦者が指摘しない限り、どれほど明白であっても咎められない』と」
そう、これはテリコとヴェントの勝負なのだ。
部外者である中在地にできることは、ギャンブラーとしての少女を見守ることだけなのだ。
「しかし、気になるのは、『事態は進行している』と告げたのがテリコであることなんですよね。何故、イカサマを仕掛けられている側がそんなことを言ったのか」
「それは単純な話だよ、中在地」
ベネディクトはまた愉し気に笑い、言った。
「テリコも弄しているのだよ――恐ろしい策をな」
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