朝まで異世界生テレビ!! ~田原総一朗が異世界転生したらそりゃやっぱりこうなるだろう~
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第1話(最終章)朝まで異世界生テレビ!! ~田原総一朗が異世界転生したらそりゃやっぱりこうなるだろう~
PC画面越しに、K社の編集者は拝むようにして言った。
「田原さん、お願いしますよ。『田原総一朗が異世界で司会者をやったら姫君、女ウルフ、召使いからモテモテになっちゃってマジでハーレム生テレビなんだが!?』出版権、いかがですかねえ」
田原は苦虫を噛み潰すような表情で若い編集者を睥睨する。自身でも、眉間にシワが寄っているのを感じる。もともと地顔がこれなのかもしれない。いやそんなことはない、と、田原はかぶりを振った。
若いころ――都合7年間通った、早稲田大学の学生だったころ――は、顔のつくりは変わらないにしても、もっと明るく、よく笑っていたような気がする。世界情勢、国際政治、国内行政、それらを研究して、その関係者に質問をぶつけるのを生業としてきた。鋭い才能を持つ触れれば来れるような人間と対峙し続けた半世紀、気の抜ける瞬間は一度たりともなかったように思う。
その歴史が、田原の顔面に深いシワとして刻みつけられていた。60年以上にわたる“真剣勝負”の積み重ねが、刀傷こそ作らぬものの、田原の頬に、額に、口もとに、深いひだを波打たせていた。
「ねえ、田原さん。いま売れ線なんですよ、異世界モノ。最近では、島耕作だって異世界転生しているんですから。田原さんだって異世界に転生して何がおかしいっていうんですか」
シマコーはマンガじゃないかよ。こちらは島耕作が課長だったリアルタイムを知っているんだ。若い編集者に侮られたような気持ちになる。
「軽薄だよ」
「は?」
編集者が鳩のような目になった。この男、歳のころは30前後といったところか。いや、目尻のシワを見ると、意外と行っているのかもしれない。K社の文芸担当から部署違いの編集者として紹介されたが、ライトノベル編集者というのは、同じ編集者でもずいぶん雰囲気が異なるものだ。そんなことを考えながら、田原は苛立ちを隠さずに言葉を続ける。
「軽薄だと言ってんだ。若い人にウケるのか知らんが、私が主人公の異世界小説? 青春ラブコメ? 88歳になろうかという爺さんが主人公の? どこの誰が読むんだね、そんなもん。そんなものを嬉々として読んだり書いたりするのが日本の若者なら、日本は終わりだよ。えーっ」
ついWebカメラに指差しながら話す。視線は相手の目から外さずに、じっと見る。何も敵意をもってにらみつけているわけではなく、自分の率直な意見を伝えつつ相手の反応を伺うための技術だ。ただ、これは長年テレビ番組で司会業を務めたゆえに体に染み付いてしまった癖のようなもので、あまりいい振る舞いと言えないことは自分でも重々承知しているのだが。
「やだなぁ、そんな怖い顔しないでくださいよ。流行ですから、ね、乗っていきましょうよ」
「なにが流行だ。不易流行と言うだろう」
「はぁ、なんですかそれ」
PC画面に間の抜けた編集者の顔が映り続けていることが我慢ならなくなり、田原は立ち上がった。
「もっと勉強しろよ、この話はこれで終わり!」
田原はノートPCのフタを乱暴に閉じた。
× × ×
次は、門前仲町、門前仲町……。
都営大江戸線の自動アナウンスが響く。柔らかい地下鉄のシートに腰掛けた田原は瞑目していた。移動時間、考えをまとめることも田原の習性であった。誰に何を聞くか、誰に、何を言わせるか。誰を煽り、なだめ、すかし、いかにして視聴者の目を釘付けにするか。
昔は何時間でもそうして考えることができた。しかしいまでは、ややもしないうちに眠気が襲ってくる。今日も、猛烈に眠気が襲ってきた。目的地の六本木まではまだいくばくか時間がある。眠ってしまおう。収録は、長丁場だ……。
× × ×
「――様!」
それにしても、昼間の編集者だ。何が異世界転生だ。思い出すにつれ、田原は苛立ちと、すこしのおかしみを感じ始めていた。
「――タハラ様!」
ある日突然、人間が現実とは異なる世界、おもに中世のような国に転移し、生前の能力を武器に快刀乱麻の大活躍をする――そんな筋書きが多いと聞いた。いやいや、それはないだろう。文明と文化に守られた現代人が、電気もガスもない、クルマもない、ましてやインターネットなどのない世界では、生きるだけで精一杯だ。非現実的だ。
まあ、半村良氏の『戦国自衛隊』は映画も観たし、たしかに現代の装備を持った自衛隊が戦国武者を相手に活躍する様は痛快だった。つまりああいったことか……と納得することができた。
「――タハラ・ソーイチロー様!」
どこかで呼ばれている気がした。女の声だ。背筋に寒気が走る。電車の空調が効いていないのだろうか。田原は、あたりの空気が急に冷え込んだ気がして瞼を開けた。
妙齢の美女がかがみ込むようにして田原の目を覗き込んでいる。それも東欧系の顔立ち、亜麻色の美しい髪を持った女性だ。
「うわっ」
田原は異様さに気づく。ついさきほど、眠りに沈んだ大江戸線の風景は消え去っていた。アルミの車体は石造りの壁に、LEDの明かりは暗いかがり火に、腰掛けていたビロードのベンチシートシートは、本革に鋲打ちの古めかしくも豪勢なものへと変わり果てている。
「こりゃあ、まるで……」
驚きが思わず口をついて出た。
「こりゃあ、まるで“異世界転生”したみたいじゃないかよ」
常人であれば混乱し、パニックに陥るところだろう。しかしテレビの世界で長く生きた田原はさすが鋭敏であった。ささっとあたりを見回す。かがり火は松明が掲げられた僅かな周辺せいぜい数十センチを照らすだけで、部屋には明かりの届かない暗闇が斑のように残っている。
(ははぁ、カメラはあのあたりか)
要するにドッキリだ。どうやって気づかずに体を運んだかわからないが、それほど自身が深く眠りに落ちてしまっていたということだろう。まあ、それをいま言うのも野暮だ。それにしてもリアルなセットだなあ。目の前の美女の衣装も凝っている。中世ヨーロッパの儀式風の服装だが、生地といい豪奢なアクセサリーといい、とてもレンタル衣装には見えない。最近ではどの局も予算はカツカツのはずだが。馴染みのA局かなあ、それとも、やはり勢いのあるN局か、かつて所属したT局という線もあるか。
「いえ、タハラ様、ドッキリではございません」
目の前の美女が至極落ち着き払った様子で言った。
「じゃあ――」
「ドッキリでもビックリでも水曜日でも人間観察バラエティでも迷惑系Youtuberの企画でもございません」
田原は驚いた。まるで心を見透かされているようだ。
「見透かしているのです、見えるのです。この瞳が教えるのです。あなたの心を」
妙齢の女性はどこまでも深いエメラルド色の瞳で見据えてくる。その表情は張り詰めており、異様な迫力があった。
「我国はいま、存亡の機にあります」
田原は直感した。これは嘘やふざけではない。
本当の、本気の人間が発する言葉だと、頭よりも心が理解した。魂と言ってもいいかもしれない。報道人としての魂。本気の人間が本当に心の底から放つ言葉。それが嘘か真かわからないならそれはジャーナリストではない。人間の芯から絞り出る言葉が信じられないなら、それは生きている意味がない。そう考えている。
田原総一朗は異世界に転生した。
それを納得させたのは眼前の瞳の輝き、追い詰められた弱者特有の病熱のようなエネルギーと、自身が歩んだ半生、その経験であった。
「わかっていただけたようですね」
田原は頷くしかない。
すこしの混乱と同時に、そんな能力があれば、いくらでもスクープが取れただろうな、という思いがよぎる。指導者の本音を見透かし、当てる。いや、ともすれば、20世紀、散発的に発生した、世界の紛争のいくつかは止められたかもしれない。指導者言ってやるのだ。「あなたの考えはこの私にもお見通しですよ」。だから戦争などおやめなさい。そう言ってやることができたなら。
いや、それが生得の能力なら、もし子供の時分からそんな“千里眼”を持っていたなら、先の大戦、あの、忌むべき戦争だって――。
田原総一朗は1934年生まれである。軍国少年として太平洋戦争を迎えた。真珠湾攻撃に万歳を叫び、ラジオから連日伝わる勝利のニュースに胸を踊らせた。この年代の人間にとって、“戦争”と言えば、イラク戦争でも中東戦争でもなく、太平洋戦争、いや、当時の言葉で、大東亜戦争のことを指した。
そんな能力があれば、あの戦争だって。
「勝てたかもしれない、と、お思いですか」
田原の考えを呼んだ美女が、内心の考えを勝手に続けて問うた。
「いいや――」
田原はかぶりを振った。
ひょっとすると、彼女の意に沿わない返答かもしれない。
危機に陥っていると言った、この美女はおそらく、戦争に勝つことを求めているのだろう。しかしそれは自分の仕事ではない、と田原は思う。自分ができること、ジャーナリストとしてやるべきことは、
「ただ、あの戦争を、止められたかもしれない。真実を伝えられるなら」
戦争と敗戦、世の中は一夜にして転変した。
以後、田原は軍を信じることをやめた。国を信じることをやめた。権威を信じることをやめた。暴力で他人を跪かせることに価値を見いださなくなった。腕力、経済力、国力。いかに強大であれ、強大であればあるほど、力で屈服させようとする人や国を軽蔑した。ただ、人間を信じることはやめなかった。人間の言葉を信じることはやめなかった。だからジャーナリストになった。
権力と軍事力に対する絶対的不信、それと同等に強い人間への信奉。それこそが、戦後の田原総一朗を形作った。
「だから、私は戦争に勝つということは、考えられないんだ」
ああ、と、美女は天を仰ぎ、膝から崩れ落ちる。あんた大丈夫か、と声を掛ける前に暗がりから小さな影が走り寄り、彼女を支えた。
「そんなにショックだったかい、悪いねえ」
「いいえ、いいえ」
気を失っている彼女に代わり、小さな影が答えた。小間使いだろうか。
「王女は安心されたのです。秘法が成功したことで。占いではこう言われていましたから。“異なるとき、異なる世、異なるくにより、異なるかんがえを持った、白髪の、シワクチャな男が我国を救う”、と」
……シワクチャ。
そんなに皺が目立つだろうか。小間使いと思しき少女の言葉に、田原は思わず頬をさすった。
「タハラ様」
小さな影は田原を見つめて言った。
「御身に叶えていただきたき儀がございます」
少女の瞳には、倒れた王女と同じく、おびえのような、それでいて力強い、窮鼠の輝きが宿っていた。
× × ×
貴賓室で受けたブリーフィングによると、要点はこうだった。
・我国(がこく)の西に隣接する火国(ひこく)が、一方的に我国西域の領有を宣言した。
・国境付近はかつて荒野だったが、我国民が何世紀もかけて耕し土地を改良したのだ。
・農作物が栽培可能な沃野となると、火国は「西域は我が国土である」と主張を始めた。
・火国は現在、国境線付近に軍隊を集結させ、いまにも攻め入らんとするほどである。
我国と火国というのは、日本語に魔訳されたものであって、当然正式名称とは異なるとのことだ(一応本来の発音でも聞いてみたが、カタカナでは表記不可能な、声とも音ともつかないものであった)。
「なんだか異世界だっていうのに、どこにでもあるような話だなあ。ねえアンタ」
小間使いの少女に向けてぶっきらぼうに言い放った。田原の言葉に部屋の空気がピリッとする。しかし本音である。田原は本音を隠すことはしない。空気も読まない。むしろ他の者が口をつぐみそうな場面であればあるほど、本音を放り出すようにしている。
「異世界より降臨されたタハラ様はさまざまな国を広く見られているのでそうおっしゃいますが、我国にとっては一世一代の危機。火国は大国で、兵も装備も我が方より上回っております。このままでは……」
「ふうん、もし攻め込まれたとしたら? どうなるの」
「一週間とかからず、この王宮まで火国の手に落ちるでしょう」
説明を聞く限り、どうにも分が悪そうだ。
「なんで火国はすぐに攻めてこないの」
「何度か国境線を定める会議の場を持っています。こちらも最大限の譲歩を行っているのですが、互いの主張は平行線で……。ついに火国は通牒を突きつけてきました。3日後に行われる最後の交渉がまとまらなければ、そのときは」
ごくり。と少女が小さな喉を鳴らした。
まとまらなければ、開戦か。
子どもながらに国全体に高まる緊張感を感じ取っているのだろう。いや、むしろ子どものほうがそういった空気には敏感であるかもしれない。はるか彼方となった自身の経験を手繰り寄せて思い出す。
「上げちゃえばいいんじゃないの? 国が全部滅ぶよりいいんじゃない」
貴賓室に集まっている貴族連中が色をなす。なかでも中央に陣取ったカイゼル髭の壮年男性がいきり立った。いかめしい鎧にビロードのマントを翻している。
「なんということを! 西方領域は我らの先祖が血のにじむ思いで切り拓いた土地、いわば先祖の血が染み付いた土地である。切手一枚、火国にわたすなどまかりならん!」
カイゼル髭は巨大な卓をドンと叩く。
田原の隣に座っていた少女がビクッとして3センチほど浮かび上がった。田原は動じない。「陸軍のガウス大将です。公爵家でもあるんです」、少女が田原に耳打ちをする。
「いやだってさ、聞く限り、あなたたちの国には兵力も、資源も、先進科学もさほどないわけでしょ。あなた軍の人らしいけど、どうなの。戦って勝てるの」
だみ声で田原は訊いた。さらに周囲の空気が悪くなったような気もするが、田原は「気にしない」と決めたなら気にしないでいられる能力を持っている。
「火国など弱兵の集まり! 我軍の裂帛の意思を持ってすれば、何千何万とおろうが、なに、物の数ではない!」
あ、こりゃだめだ。まったく、異世界に来たはずなのに、なんだかいつか来た道を見ている気がする。田原は嘆息した。戦争は意思ではない。数字だ。生産力が趨勢を決する。その事実を田原や田原たちの年代の者は身に染みて、いや血に染みて知っている。
しかし、それをいくら説いたところで、経験していない彼には伝わるまい。少女が頭を抱えるのが田原の目の端に見えた。なるほど、陸軍大将で公爵家でこの押し出しの強さか。このヒゲが交渉の場にいてカッカしていては、まとまるものもまとまるまい。
そして、ガウスの徹底抗戦論に同調するものも少なくはないようだ。確かに、もし今回、領土を割譲したとて、その後、火国からの要求がエスカレートしない理由はない。
(3日後の交渉が破綻して開戦、その1週間後に王都陥落、か……)
貴賓室は王城の高層にある。移動の際に垣間見た城中は質素ながら品があり、眼下に望んだ城下町は古めかしくも清潔で、活気に満ちていた。文明レベルは中世からよくて近世、電化や産業革命の空気はない。しかし、その分、空気のうまさがあった。どこまでも見通せるような視界のよさがあった。発動機の走らない街路ののどかさと、人間が生み出す街。その生命力というものを目の当たりにした気がした。
「で、私に何をしてほしいの」
「はい、ですから次回の火国との交渉の場にご臨席いただき、我国の領土を失うことなく、交渉をまとめていただけないかと」
「……それを私にやれって?」
それは無理じゃないかなあ。
どちらかというと火に油を注ぐほうが得意な性分だ。なにより、仮面をかぶった大人の意見でまとめるよりも、人間の本心をぶつけ合って見えてくる真実にこそ価値があると信じてやってきたのだ。
「何を言う! 古来、我国に訪れた“召喚びと”はみな神算鬼謀の使い手か、人知を超えた怪力の持ち主、戦場でこそそのちからを発揮してきたではないか。この度、ぬしが顕現されたのも、戦で決せよとの神の思し召しに違いあるまいよ」
「そうなの?」
田原はこそこそと少女に尋ねる。
「過去はそのような話だったそうです。しかし、数が少ないのと、歴史書にのみ残ることで、信憑性は」
ううむ、と田原は唸った。
もちろんこの老骨に戦働きなどできはしない。権謀術数も得意な方ではない。できることは、ただただ、真実を追い求めてきた。狡猾であるより愚直たらんと心に戒めてきた。
「タハラ様、なにか手立てはありますか。ここにいたっては、最早あなた様のみが頼りなのです」
少女がすがるような瞳で見つめてくる。
「いやあ、わからないな!」
エメラルドの瞳が絶望に曇り、池の藻の色になった。田原はどこまでも空気を読まない男であった。
「いや、キミ。勘違いないでほしい。私は手立てがないと言ったのではない、わからないと言ったんです」
指を差しながら言った。
「まだ情報が足りない。とにかくこの国のこと、火国のこと、世界のこと、あらゆることを教えてほしい。何、私の質問に答えてくれればいいんだ。インタビューには少しだけ自信があるから」
不眠不休のレクチュアが始まった。
× × ×
3日後、田原総一朗は大理石の長卓の中央に陣取っていた。その奥には、快復した女王が一段高い椅子に備えている。つまり、田原が女王から全権委任されていることを意味している。大きな水晶玉の飾られた長机には我国の閣僚が着席し、火国の交渉団の到着を待っていた。
「火国の皆様、ご到着です」
扉の前の小間使いが言った。扉が開く。鎧姿に武装した火国の一団が現れた。
「な、交渉の席にそのような姿、無礼ではないか!」
交渉開始前からガウスがいきり立つ。どうやら火国には交渉をまとめるという意思はなく、ほとんど宣戦布告を行うために来たつもりなのだろう。田原は目でガウスを制した。続いて、田原は扉の左右に陣取っていた、演奏団に目配せをする。
瞬間。軽快で勇壮さを思わせるメロディーが議場を包んだ。
てってっ てってれってー。
てってっ てってれってー。ででん。
ピッコロのような吹奏楽器の甲高いメロディーにドラムに似た打楽器が疾走感を与える。そう“あの曲”である。あのオープニングテーマだ。田原はメロディーを鼻歌で我国の王宮楽団に伝え、演奏させた。
面食らっているのは火国の交渉団だ。臨戦態勢の鎧兜で威圧するつもりだったのだろうが、突如始まった演奏に驚いている。
「さあ火国の方、お座りくださいよ。なに、この音楽はほんのハッタリ、いや、景気づけ、いえ、皆様を歓迎するための演奏です。さあ」
田原が着席を促す。火国交渉団は毒気をぬかれたように、素直にそれに従った。しかし、座るやいなや書状を広げ、居丈高に宣言した。
「火国は、火国極東地域に対し、改めて不法に占拠している我国民の立ち退きを要求する。これが受け入れられぬ場合、明朝8時をもって武力による執行を開始するものである」
要求はシンプルであった。火国極東と称する場所(我国西端地域である)からの我国民の撤退。事前に聞いていた要求から何ら変わりはない。火国も我国と同様に、切手一枚譲る気はないようだ。
「しかしねえアンタ、武力で執行するったって、そんなことされたらこちらだってだまっちゃあいないよ。もちろん抵抗する。なぁガウスさん」
「もちろんだ!」
カイゼル髭のガウスは顔を真赤にして机を叩く。巨大な大理石の一枚板がびりびりと震える。ガウスは、鎧姿の一団を見てすでに開戦の気分なのだろう。
「そうすれば、あんたらにだって少なくない被害が出る。何よりせっかく穀倉地帯になった地域だって火がつくかもしれない。歴史を紐解けばそういう作戦だって記録にあるのは知ってるでしょう」
奪われるくらいならいっそ台無しにして、奪う意味をなくす。もちろんそこに住む住民の生活も土地と同様に灰燼と帰す。“作戦”とすら呼びたくない蛮行だと、田原は思っているが。
「はは、焦土作戦か。少しは考えたようだな。だが、そのような作戦をお優しい王女さまが行えるものやら」
我国は王女による穏やかな君主制である。善政を敷くことで人心をまとめ統治している。その軍が、民の地を焼いたとすれば。人心は君主から離れ、クーデターだっておきかねない。足もとを見られているというわけか。
「妙な服を着た老人まで引っ張り出して、何か知らんがすでに趨勢は決しておる。火国軍はすでにその戦力の大半を、いつでも出動できるように準備させている。明日8時のつもりだったが、今から国元へ早馬を飛ばせば、2刻後には作戦はすべて完了しようぞ」
ハッハッハ、と、鎧姿の火国人は高笑いを上げた。田原はそれに切り込んでいく。
「へえ。そうとう大勢の兵隊を用意しているんだねえ」
「臆したか、そもそも火国とそなたたちの国では軍事力に大きな差があることは知っていよう。その戦力のほとんどに出撃体勢を整えさせ東部に集結させておる。貴様らには過ぎた兵力だが、獅子はウサギをなんとやら、だ」
ガッハッハ、と、再び笑った。
「ほうほう、でもさ、だとすると、その状態で他国から攻撃されたりしたら困るよね」
ハ。高笑いが止まる。
田原は学んでいた。火国は、その北域にあるサン国とは長年緊張状態にあるのだという。
「ふ、ふん。抜かりはない。ぬしらがさっさと降伏すれば、兵は素早く帰還させる。その作戦は明朝から数日で済むであろう。国軍が東征を行った、そのニュースがサン国中枢部に届くころ、兵はすでに戻っている」
つまり、火国の作戦は短期間で我国西域を占領できるかにかかっている。
「ははあ、なるほど。ではこうしてあんたらが臨戦態勢の鎧姿で、ここにいる、交渉を決裂させる前提でいるなんてことがサン国に知れたらまずいってことだ。サン国はすぐに兵をまとめて南進を始めるだろうから」
田原が羽ペンを突きつけるようにしつつ、聞き返す。
「たわけたことを。いまこの場の情報を、サン国にどうやって伝えるというのだ!」
「いや、それがさあ……」
田原は、どう説明したものかと頭をかく。
「以前、我国の王女はサン国に贈り物をしていたそうなんですよ。我国特産の水晶なんだけど」
3日間のレクチャーで田原がもっとも驚いたのは、我国の持つ科学力ではなく、魔法技術力であった。王女の読心魔法を始め、この国の人々が持つ魔力は、田原の想像を超えたものがあった。その中に、真円に近い水晶玉を利用し、遠く離れた場所を音声と映像でつなぐ、というものがあった。水晶に魔力を込め、波長を合わせると、遠隔地の別の水晶に投影することができる。
「それならば火国にも何10年も前に贈られたと聞いた。フン、この国の風景などいくら見せられても隣国の風景など珍しくもない。宝物庫で埃でも被っているだろうよ」
「そうだよなあ。では、いまこの議場の風景を、サン国で見られたとしたらどうなるね」
「そんなことできやしない……」
はっ、と、兜が持ち上げられた。火国交渉団の目の前には、大理石の長卓の上に、巨大な水晶玉が輝いている。
「まさか――」
田原のとなりに座る少女は、卓の下で手を組み、一心に祈っていた。
「本当ならば説明しようと思ったんだが、あんたがあまりにも早く書状を読み上げるもんだから」
「お前、まさか」
「ああ、最初から、この映像をサン国に、いやそれ以外の国々、そして国民が持つすべての水晶玉に映し出していたんだよ」
田原はこの異世界にテレビジョンを作りあげたのった。当然、この交渉も、朝までやるつもりだったのだが。
火国交渉団が一斉にざわめく。その話が本当ならば、抜け目のないサン国はたしかにいますぐにでも軍をまとめ攻め入ってきたとしてもおかしくはない。さらに、交渉相手の我国を屈服させるためにわざと取っていた居丈高な態度を、国民が目にしていたという。目前の不遜な敵を眼前にした国民、士気の向上、団結力といった数字に表せられない戦力増大要素――。
馬鹿な、ひっくり返った。すべての策が。火国交渉団団長は、その場に膝を屈した。
「情報ってものを伝える。できるだけ広く大勢に伝える。わたしができることと言ったらそのくらいのものでね」
田原は誰に伝えるでもなく――いや、水晶玉に、水晶玉を通じて全国民、そしてサン国に向けてつぶやいた。
× × ×
その後の展開は早かった。火国兵は可及的速度でもとの配備へと戻され、まさに火国国境に迫りつつあったサン国兵との衝突もすんでのところで避けられた。当然、火国による我国西域進出は棚上げにされ、我国の平和は一旦守られた。我国の窮地を救った、田原総一朗はその後、現地にしばらくとどまったのち、日本に戻ったとされている。
田原はその後、この経験をもとに異世界転生小説を一本書き上げたが、なんだかしゃくなので、あの若い編集者にはまだ見せずにいる。
了
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