この絵を、ノベライズさせてください

及川盛男

本編


 西寺吾郎は、目の前で頭を下げる青年に困惑しきりだった。


「お願いします! 先生の作品を、ノベライズしたいのです!」

 郊外にあるアトリエの玄関から出て直ぐの所で出待ちされ、自分の話を聞いてくれと必死な様子で訴えるものだから立ち止まってみたら、これだ。


「ノベライズというのは、つまり」

「小説化です。美術館で先生の作品に出会い、甚く心を動かされたのです。そしてこの作品の美しさを、この手で以て文芸の世界でも表現したい、そのような止めどない思いが溢れて仕方がないのです」


 図録か何かから剥ぎ取ったのだろう、西寺の代表作の写しを握りしめ熱弁する青年。西寺はそれから目を逸らしつつ、その熱意に免じて「事務所を通せ」という機械的な返しを飲み込み、思った所を率直に伝えた。


「……君。そのように言ってくれるのはありがたいがね。しかし――絵画だよ、それは」


 西寺吾郎は画家だった。静物画の名手として名高く、デビュー作にして代表作「ペン」は、机の上に置かれた一本の市販のペンを何かに憑かれたかのような鬼気迫る筆致で描き上げ芸術へと昇華させたものとして高く評価されている。「徒(ただ)のペンがこんなに精緻に描かれるはずがない、と見る者が思わず疑念に駆られてしまうほどの執念」という評で有名だ。


「はい!」

「いや、はい、ではなくてね。……例えば、漫画や映画を小説化しようという向きなら分かる。だが、絵画を小説などというものにするとは一体どういうことかね。寡聞にして知らぬ試みだよ」

「先生ともあろうお方が、ですか」


 この小僧、と危うく言いかける西寺。咳払いをし、


「……それとも何か、あくまでそれを題材にした小説を書きたい、ということかね。例えばその、絵に魅入られた男の生涯であるとか、それを切掛に起こる様々な事件であるとか」


 それでも翻案には当たるだろうから、無謀な青年がこうして頭を下げに来る理由には十分なり得るだろうと思ったのだが、


「いえ、違います。私は作品そのものを小説化したいのです」


 折角出した助け舟が轟沈する。いっそ清々しい。


「そんなに言うのなら、見せてもらおうかね。私の絵画の、その小説版を」

「まだ書いておりません」

「なんだそれは!」

「許可を貰わずに勝手に書くほどの失礼はないと心得ております」

「突然アポもなしに押しかけることのほうがよっぽど失礼だと思うが」

「よろしいですか?」


 あくまで西寺の愚痴は聞こえないらしい。まともに取り合ってしまったことへの後悔は募るばかりだったが、一方で意地の悪い気持ちも湧いてきた。


「……なぜ、詩や歌ではないのかね」

「え?」


「漫画や映画の小説化が一般に行われているのは、つまりそれら原作で主題となる物語や登場人物といった要素を伝える面で、散文が適しているからだろう。それら要素は端的な情報ではなく構造として提示されるが、散文は行を連続させることによって構造を作る機能に長けている。他方その構造は明示的である必要があるから、想像の余地は構造と構造の隙間、行間にのみ与えられると言えよう。しかし絵画はそうした明示性よりは、寧ろそこにある題材を一つの切掛として、思い思いの情景を立ち上がらせる点にこそ魅力があるのではないかね。であれば同じ文芸でも、複数の行で構造を積極的に規定する散文、つまり小説などではなく、断続的な文を置き、その前後を広大な余地を以て想像させる詩歌に性質は近いのではないかと思うのだが、どうかね」


 生意気な性根をへし折ってやろうと一気呵成に喋ってみたが、どのように反論するのだろうか。


「なるほど、その二分法はとても頷けるものです。全くその通りかと思います」


 青年は感心しきりと言ったように首を縦に振る。意外にも素直に引き下がるか、と思いきや、


「であれば、なおさら先生の作品は小説化に馴染みます」

「いや、何故そうなる」

「一般論で言えばそのような対応が成立するかもしれませんが、しかし先生の作品には物語があるではありませんか」

「……なんだと?」


 そう言ってから西寺は息を呑む。今の自分の声は、果たして震えていなかっただろうか。


「私には読み取れました。それを言語化する作業を、正にこれからの執筆作業で行いたいのです」


 「ペン」をぎゅっと胸に抱く青年。その目は真っすぐと西寺を見つめている。

 分かったようなことを。その言葉を飲み込んだ。恐らくこれを口にすれば、今度こそ動揺を読み取られてしまうだろう。気持ちを切り替えるために西寺は別の反論を拵えた。


「……まだ差異があるぞ。絵画の体験は同時展開的だが、小説は順序展開的だ。絵画は一度に、見える範囲に情報を提示する。それをどのように消化していくかは見る者次第だ。描かれた要素をどのような順番で理解するか、そしてどのように解釈するかを鑑賞者に委ねる、懐の広さを持っている」

「絵画には解説などが添えられていることもあるかと思いますが」

「よい解説というものを注意深く読めば分かると思うが、そこに記されるのはあくまで情報の補足であり、解釈の補足ではない。君が解説を書きたいというのならそれもまた理解できよう。しかし小説は固定された順序で、上から下へと読んでいくほかなく、解釈もその通りにしかなるまい。はたして絵のこの体験を小説にどのように落とし込むつもりなのかね」

「なるほど、情報ではなく体験の一覧性、とも換言出来そうですね。それもご指摘の通りでしょう。……ですが先生、一つ妙案があります。小説にはショートショートというジャンルがあります。掌編とも呼ばれるもので、これはたかだか数千字程度の非常に短い文章量の小説です。これであれば、一度に視覚に訴える力を持たせられるでしょう」

「しかし順序展開的であることには変わりあるまい」

「いえいえ、技法を凝らせば、最初に読んだ時と次に読んだ時で、見方や解釈が変わるようにも出来ます。まさに先生の作品のように」


 自信満々に答える青年に、いよいよ西寺は黙り込んでしまった。




「では、出来上がりましたらすぐお送りしますので!」


 満面の笑みで去っていく青年を、西寺は呆然と見送る。半ば勢いに押し負けるような形で、「一旦書くだけ書いて読んでもらい、その結果次第では翻案を認める」、というような口約束をいつのまにか結んでいた。


 一体なんだったのだ、あの青年は。


 すっかりアトリエから外に出た理由も忘れてしまって、おずおずと中に戻る西寺。玄関に入って直ぐの真正面の壁には来客を出迎えるように、西寺の代表作にしてデビュー作のレプリカが飾られている。妻や娘がここに飾れと煩いものだから一番目立つこの場所に壁掛けているのだが、西寺にとってそれは誇るべきものでもなにもない、忌々しさの象徴でもあった。


 西寺は若き頃、小説家を目指していた。芸大を出て直ぐの頃である。絵を描くのは幼少の頃から得意で、周囲からもその才をすでに認められていたが、西寺にとってはたまたま身長が高かったり脚が速かったりした程度の有り難みでしかなく、本当の彼の夢は文筆で世に認められることだった。


 ところが彼に文才は無かった。自分の中に物語はある。しかしそれを文に起こす力は全く宿っていなかった。無謀な数年間にも渡る執筆活動の末に自らの才能に絶望した西寺は、ついにペンを置くことを決意した。


 それまで書いていた原稿を全て破り捨てゴミ箱に詰め込み、ボールペンを放り投げた。ころころと机の上を転がって、やがて止まる。動かなくなったペンを見て、西寺は湧き上がる気持ちを抑えきれなくなった。その勢いのまま筆を手に取り、キャンパスに向き直る。才能への絶望、他者の才への羨望と怨嗟、書けなかった物語への無念、そして訣別。それをひたすらに籠めて描いたのが「ペン」だった。出来上がった作品を見て若き西寺は暗く笑った。絵であれば、こんなにも自在に自分の思いを表現できる。なぜ自分はわざわざ、あんなにも小説などというものにこだわっていたのだろうか、と。


 西寺にとって小説家の夢は恥ずべき過去だった。であるから誰にも口外しなかった。しかしだからこそ、所与の物語が無かったからこそあの絵画は思い思いの解釈を人々に許し、そしてここまで評価されたのだろう。


 だが、あの青年は「ペン」に物語を感じたという。西寺がかつて諦め、見切ったはずのものを。


 西寺は意を決し、何十年ぶりになるだろうか、「ペン」に真正面から向き直り、真っ直ぐに見据えた。そして驚いた。その昔は一目見ただけで、自分の手から離れていくペンの感覚を生々しく思い出したものだった。だが今、机に置かれたペンはとてもそのようには見えず、反対にこれから誰かが手に取ろうとしているような、あるいは自分が手を伸ばしたくなるような、不思議な光を放っていた。

 

 一週間後、青年から一通の封筒が送られてきた。妻からそれを手渡された西寺は筆を置き、封を開いて中から出てきた原稿のタイトルを一目見て、腹を抱えて笑った。そして一気に読み終えると今度は涙を流して笑った。すぐに西寺はペンを持ち、原稿への返答をさらさらと書き始めた。


 原稿のタイトルは次のようなものだった。


『この絵を、ノベライズさせてください』

                                      (了)

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