まぼろしを追い求めて

荒川馳夫

修復しようのないズレを目にして

「誰のおかげでお前たちは生活できていると思ってるんだ!」


男は家の隅々まで響く大声で、家族に怒鳴りつけた。

会社から帰宅したばかりだというのに、疲れを感じさせぬ態度だった。


「オレが金を稼いでいるからこそ、不自由ない暮らしが続けられるんだぞ。何かかける言葉はないのかよ!」


妻と子は何も言わなかった。唾が飛んできそうな距離で、どのような罵声が浴びせられようとも、何の反応も見せなかった。その代わりに、憎悪と恐怖の目で男を責め立てた。


男は怒鳴り続けるのに疲れたのか、黙りこくった後に風呂場へ向った。

疲れを取り除くことを優先したのかもしれない。


「ママ、ボクね。まいにちがとってもこわいよお……」


「大丈夫よ、もうすぐ怖いことはなくなるからね」


母は息子をなだめながら、計画を静かにすすめる覚悟を決めた。



「おい、またお前か。何度言ったら分かるんだ!。新人じゃないんだから、いい加減に仕事をおぼえろよ」


「はい、すいません……」


家庭内では偉い王様のように振る舞う男も、会社内では有能さを微塵も感じられないトラブルメーカーの社員であった。毎日のように、上司からのお叱りの声が男にとどろいていた。周りの社員も見慣れた光景なのか、何も思わなくなっていた。


(まただよ、〇〇さん。いつまでも成長しないねえ)


社員からの嘲りの視線が男に向けられるが、男はもう慣れっこであった。


(おぼえてろよ……。絶対にのし上がってやるからな!)


男はもう何度目か分からない、熱い思いを胸に宿した。

なお、一度たりともその思いが成就したことはない。胸に宿すだけで、具体的な行動など何もしていないからだ。



「ただいま、帰ったぞ」


男は記憶もあいまいに自宅に戻った。叱責を受けすぎて、頭が痛いのだ。


「何度も怒りやがって、あのクソ上司め」


自分にだけ聞こえるように愚痴りながら、ドスドスと足音を立ててリビングへ入った。


そこで異変に気付いた。いつもなら出迎えてくれるはずの、妻と息子がどこにもいない。代わりに書き置きの手紙が目に映った。


「あなたとの生活に疲れました。息子と一緒に出ていきます。どうか、一人で幸せになってください」


男は手紙をクシャクシャに丸めて投げ捨てた。


「ふざけるな!オレを認めようとしない会社と、帰ってきたオレに優しくしてくれないお前たちの方に責任がある。オレは悪くない。悪いのは周りのヤツらだ!」


男は周辺の家具に八つ当たりをした。しばらくすると、化粧台に備え付けられている鏡が目に入った。すぐそばに、また手紙が置かれていた。


「自分の顔をご覧になってください。鏡はウソをつきませんから」


手紙に書かれたとおりに、鏡に映る自分を見た。その後、男は鏡をたたき割ってしまった。


そこに映っていたのは、無駄に年を重ね、威厳も有能さも感じさせない、ただの幼稚で情けない男の姿。


「ウソだ!オレはダメな男なんかじゃない……」


現実の自分と理想の自分。大きなズレを見せつけられても、男はそれを認めようとはしなかった。







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まぼろしを追い求めて 荒川馳夫 @arakawa_haseo111

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