第37話

     【18・卒業】


 同好会にすぐ復帰し、由実は新たな作品を描き始めた。キャンバスに向かえなかった今までの時間をとり戻すような、勢いのある筆の動きだった。

 由実のイーゼルに載っていたキャンバスは―――F型。彼女の一番好きな形。そしてそれは―――ぼくを信じている証拠。

 自然にぼくの手にも力が込められた。

 が―――、

「クリスマスパーティーで、プレゼント交換しましょうよ~!」

「それって、忘年会と一緒?」

「もちろん違います」

「だったら忘年会はうちでやらない? 母がぜひみなさん呼んできなさいって。いつもふたりっきりじゃ寂しいからって」

「いきます! 絶対いきます! ね、カイチョ~!」

「え……ああ、うん」

「でもって、初詣はど~します?」

「猫野神社でいいんじゃない?」

「そ~ですね。じゃあ、そのあと、アトリエでお屠蘇をいただいて」

「オトソ……?」

「お正月だから、べつにいいですよね~」

「構わないわよ~」

「そんでその日は、当然オールナイトで!」

「うん!」

「……」

「あっ、初詣、着物着ていきましょ~よ~!」

「それいいわね!」

「会長はど~します?」

「え……ぼくは着物持ってないから……」

「新年会はど~しましょ~ね~。また由実さんのお家じゃ迷惑だろうから……」

「そんなことないわよ~!」

「いえいえ。じゃあ、アトリエで! いいですよね、カイチョ~!」

「え……あ、はい」

 ―――と、はしゃぐ女子たちのプランが、すべてきっちり遂行されたのに加え、三年生と違って、大量に出された一年生の宿題を手伝ってやることに時間をとられ、作品の完成は予定の期日を大幅にすぎた。それでもぼくと由実の作品は、卒業を前に仕上がった。

 絵の右下に、もはや彼女は日付を入れることはなく、かわりにイニシャルが記された。

 失踪者が出ることは、もうなかった。

 そして桜の花も咲き始めたころ、ぼくと由実は高校生活に別れを告げた。


     *


 推薦で合格をもらっていたぼくたちは、そのまま上の大学へ進学した。しかも由実とは学部も同じだった。

「はじめ、別学部を志望していたんだけど、夏休み前、芸術学部に変更したの」

 のちになって由実から聞いた。それは彼女が同好会へやってきたころでもあった。

 成績優秀な彼女であれば、どの学部でも希望通り進学できただろう。

 一方ぼくは、

「居海くんの成績で芸術学部は、ギリギリだったわよ~」

 と、笑顔の戻った宇津先生に、やはりあとになって教えられた。

 あぶなかった……。


 亜実の肖像画は由実に渡してあった。

 そこに描かれている姿が仮に由実だったとしたら、ぼくは自分の手もとに置いておいただろうと思う。だが、はっきりとほくろが描き入れられた顔は、間違いなく妹の亜実。だから、姉の由実が持っているべきだと思ったし、

『もうこれから、事件が起こることはない』

 彼女を安心させるための、ぼくからの無言のメッセージでもあったから。


     *


 流れ込んできた暖かく穏やかな風に誘われ、窓に目を向けた。

 猫野神社の常緑樹が、柔らかな陽光を反射している。

 咲き誇っていた桜の花もすっかり散り、新たな春が半ばに差しかかっても、アトリエでの同好会は変わらず続いていた。

 が―――、

「未来せんぱ~い、このヘラ、どうやって使えばいいんですか~?」

「それはヘラじゃなくて、パレットナイフっていうの」

「へ~」

「で、こうやって、パレットの上で絵の具混ぜ合わせたり、残った絵の具とり除いたりするの」

「へ~」

「あ~、色汚くなっちゃった。石井さ~ん、紫色出すの、どうやればいいんですか?」

「え? ああ、ブルーとレッドでいいんだけど。……ああ、混ぜすぎちゃったのね。種類多く使っちゃうと絶対綺麗にならないから、せめて二、三色ぐらいにしておいたほうがいいと思う」

「そっか~……」

「まずは難しいことトライしないで、できあがってる絵の具使ったほうがいいわよ。はい、私のバイオレット貸してあげる」

「はい、ありがとうございます!」

 ―――なぜか新たに、高校一年生の女子がふたり増えている……という変化だけはあった。

「油絵やってみたいです~!」

 そんな思いを持つ新入生を、未来が勧誘してきたらしい。

「大丈夫です。ちゃんとやる気のある子しかあたし、絶対入会させませんから!」

 といった一方で、

「今後、どんどんメンバー増やしていく所存です! それで、東京一レベルの高い絵画同好会にしてみせますっ!」

 二年生になった彼女は息巻いた。

 去年の美術展で賞をとった自信が、そんな意気込みをかき立てたのか……。

「やりたいと思う子が入ってくるのは一向に構わないけど、増やすのはアトリエの許容量を考えて―――」

 とアドバイスを送ろうと思ったが、未来同様、楽しげに後輩と接している由実を見て、やめておいた。

 視線を窓から戻し、キャンバスへ新たな色を乗せようとしたとき、襖の外から、

「みなさん、お茶が入りましたよ~。開けてくれるかな~」

 大きくなったトレーのため、両手がふさがっているであろう義兄さんの声がした。

「は~い!」

 嬉しそうな女子たちの声がそろった。

 すっかりにぎやかさが増した休憩時間―――それも変わったことの一つだった。

 ただ、妹亜実ちゃんの肖像画を描きあげたあの日の夜、由実に対して続けられなかった、

「愛人なんかじゃなくて……彼女になって」

 その告白を未だできずにいるぼくの意気地のなさだけは、残念ながら変わっていなかった。


                                〈了〉

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一点の賭け tonop @tonop

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