第36話
*
「土曜日を生き抜くことができて……これで私の人生も終わり……。そう思って母と旅行へいったの。日曜日の朝。たった一日だけでもいいって思って」
缶のホット紅茶で両手を温めながら、由実は口を開いた。「あの人」が「母」に変わっていた。
彼女を真ん中にして座る公園のベンチには、深まった秋の風が、時折、落ち葉を揺らし流れてきた。でも高揚が冷めないぼくの躰は、寒さなど感じなかった。
「最期ぐらい、私として接してもらいたかった……。だから、今まで亜実の代役をしていたこと、そしてもう彼女はこの世にいないし、これから自分も消えるって……一生懸命説明した」
しかし、由実の母はやはり理解せず、その顔に困惑を深めただけで、早々に宿の床に就いてしまった。
「私、やっぱり怖くて……ずっと眠れなかった。だから母の顔を見ながら、ずっと起きてた」
未来は言葉を挟むことなく、由実の話に聞き入っている。
「でもいつの間にか……眠っちゃってた。そして目が覚めたら……」
六時をすぎていた。と、彼女はいった。月曜日の、朝六時。
「もしかして、知らない間にもう死んじゃったのかと思って、急いで洗面所にいって鏡見た。……でもちゃんと、私映ってた」
まるでそのときの情景がフラッシュバックしたかのように、彼女の口調には熱がこもっていた。
「そうしたら母も起きだしてきて、『あら早いわね、由実ちゃん』……て」
「……」
「私、聞き間違いかと思って『おかあさん……私、だれ?』って……訊いた」
すると母は笑いながら、
《なにいってるの~。寝ぼけてるんじゃないの? 石井由実でしょ》
と、彼女の頬を軽くつねったという。
「私……生き続けられた」
足もとの落ち葉に視線を落したまま、温かな缶を彼女はその頬にそっとあてた。
「よかった~……」
未来はオレンジジュースをあおった。そのつぶやきには未だ、潤んだ響きが残っていた。
「そして母、もう少し旅行続けたいわねって……」
由実は視線をあげ、続けた。
「それからも母にとって、私が由実であることは変わらなかった。でも、やっぱり不安だったから……」
亜実も一緒にこられればよかったのにね。そう、恐る恐る彼女は話しかけてみたといった。
《でも、仕方ないわよ。亡くなってしまったものは》
頷いた母は微かに寂しげな眼差しを見せたが、すぐに表情を明るくすると、そうはっきりと答えた。
「結局、一週間。母とこんな長い旅行、はじめてだった」
それは、今までの由実に対する、お母さんの謝罪だったのかもしれないし、亜実ちゃんの死の事実を、受け入れる時間でもあったのかも……。
そういおうとしたぼくの口は、意に反し、
「どうして連絡してくれなかったんだっ!」
ビクッとした未来が視野に入った。
声を荒げるつもりなどなかった。しかし由実が戻ってきた安堵感が、感情の制御を不能にしたようだった。
「……ごめん」
深く、由実は頭を垂れた。
そのまま彼女の横顔を見つめ続けた。
そして、
ぼくの決断は……間違ってはいなかった。―――すぐさま制御機能をとり戻していたぼくは、その喜びを無言で噛み締めた。
「携帯がなかったから、居海くんの電話もメールもわからなくて……」
彼女は顔をあげ、
「今日昼すぎに帰ってきたら、美術展の通知が届いていて……受賞しているのわかったら、嬉しくってそのまま家飛びだしてきちゃったの。また携帯持たずに……」
ほんとにごめんなさいと、私服姿の彼女は、またうつむいた。
「旅行に携帯、忘れていっちゃったんですか?」
同情するように、未来はうつむく彼女を覗き込んだ。
ゆっくり首をふると由実は、
「もう、人生が終わるってときに……必要ないかなって思って」
―――本当に死を覚悟していた人間の心裡だった。
「……そ~ですよね」
未来は由実に同意すると、
「そりゃそ~ですよ! 人生が終わるってときですよ! 会長に肖像画描いてもらったあとなんですよ!」
咎めるような口調をぼくにぶつけた。
「あ……そうだったの……」
それにしても、
「未来ちゃん、ぼくの能力、信じてなかったんじゃないの?」
そう
「でもどうして私……」
由実はぼくに顔を向けた。そのすがるような目は、
「どうして私、死ななかったの? 居海くんの能力、本物だと思ってたのに」―――そう訴えていた。
迷った。話すべきか。
こうして彼女が無事戻ってきたのだから、黙っていてもよかった。でもそれでは、彼女は心の底から安心することができないのではないか……。
「―――ほくろ、なんだ」
すがるような目を見つめ返し、いった。
「えっ……?」
「あの肖像画に、ぼく、ちゃんとほくろを描き入れただろ」
記憶をたどるように、由実は視線を揺らした。
「でもそれって、由実じゃない」
「……」
一卵性双生児の由実と亜実は、まったく同じ顔。でも、一か所……右のこめかみのほくろのあるなしが、違った。とすれば、一点の『黒』を入れることで、キャンバスに描かれた人物は、由実ではなく、亜実となるのではないか―――。
ほくろを描き入れることで、由実には何事もなく、妹の亜実が、亜実の情念こそが、消滅するのではないか―――。
そうなれば同時に、これ以上の犠牲は防げるのでは―――。
それこそが、ぼくの『賭け』だった。そしてその賭けに、ぼくは勝った。
しかも失踪者は―――残念ながら死亡した者は除いてはだが―――みな戻ってくることもできた。
が―――つらさもともなった。
だって、亜実ちゃん……悪気があってやったことじゃないんだろうから。ただ単に、友だちと一緒にいたかっただけ……そうなんだろうから。
しかし、とも思う。
亜実が消え去り、由実が生き残ったのは、
『あなたの前にずっといるのは、姉の由実! 現実に生きている長女!』
命を懸けた必死さで、由実がそう母親に訴えたがゆえの結果―――なのかも。
いくらできの良し悪しがあろうとも、母親というものは心底では、わけ隔てのない同等な愛情を、自分の子供に持っているはずだから……。親ではないぼくは、想像するしかないが。
でも、そうあってほしいし、そう信じたかった。
母親の今までの行動は、亜実の死のショックが大きかったからだけのこと。だからこそ今はもう、由実を由実と認めている。
そんな考えや思いを、ぼくは包み隠さず由実に伝えた。
「……うん」
真一文字に結んだ唇で、彼女はゆっくりと、そしてしっかり頷いた。
一陣の木枯らしが、長い由実の髪を揺らした。その拍子に見えた彼女のこめかみには、もう、ほくろなど塗られてはいなかった。
缶珈琲のプルトップを開け、ぼくは乾いていた喉をやっと潤した。ずいぶんぬるくなっていた。でも、今まで飲んだ中で一番美味しい珈琲だと、舌が囁いた。
「今度は珈琲もお願い」
図々しくも義兄さんに、そうリクエストしようと思った。
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