神なる日記 【KAC2022】

水乃流

始まりのページ

「どこにでもいる」


 紹介文の先頭に、そんな言葉が必ずついてしまうような、平凡を絵に描いたような人生。桐谷真子が自叙伝を書くなら、見開き一ページで語り尽くしてしまうだろうと、自分でも思っていた。なんとなく高校へ進学し、なんとなく短大を卒業し、進められるがまま銀行員になった。文学部だったけれど、数学は嫌いじゃなかったから、この職業もあながち悪くはない。でも、この先一生、銀行員のままなのかと考えると、少し憂鬱になるのもたしか。

 そんな彼女の唯一と言っていい趣味は、古書店巡りだった。最初は、短大の授業で使う資料を探しに足を踏み入れた古書店だったが、本を探していると不思議に落ち着いた。普通の書店では、こんな風に感じないのだからおかしなものだ。


 ある日、真子は仕事帰り、行きつけの古書店に立ち寄った。いつものように棚に並べられた本の背表紙を眺めていると、ふと一冊の本が気になった。なぜ気になったかと言えば、その本のタイトルが読めなかったからだ。ここには洋書も置いてあるが……彼女は思わずその本を取り出し、中を覗いてみた。やはり、読めない。


(ヘブライ? 中東っぽい文字だけれど)


 そう思いながら、彼女が文字を指でなぞった時、それは起こった。本の中の文字が光を放った次の瞬間、彼女の中に入ってきたのだ! そして、彼女の脳内にひとつのイメージが浮かび上がった。 ひとりの若い美丈夫が、剣と盾を手に広い草原に立っている姿だ。とある国の王子であった彼は、王位争いに辟易し国を捨てるか、それとも民を護るために立つか悩んでいた。彼は神に祈った、この地に平和を、と。神はその願いを聞き、彼に話しかけた。『私が与える12の試練にことごとく打ち勝つことができれば、お前の願いを叶えてやろう』

 王子は、神の試練に立ち向かうことを決意した――。


 それは、物語のプロローグのようでもあり、決意表明のようでもあった。しかし。


(これは、王子の“日記”だ……)


 真子は、これが日記の1ページであるということが確信していた。流れ込んで来たのは、嘘偽りのない彼の“想い”だ。

 手に持っていたはずの本は、いつのまにか消えてなくなっていた。


 次の日から、不思議なことが立て続けに起きた。支店長に横領の罪をかぶせられそうになったり、銀行強盗に襲われたり、会計監査が入ってなぜか真子ひとりだけがターゲットにされたり。それは、まるで王子が立ち向かった、神の与えし12の試練がごとく。


 立て続けに起きた試練を、真子はクリアしていった。あの本を手にした日から、彼女には、ある才能が覚醒していたのだ。その才能とは――高速計算。あの王子の日記が真子に与えた権能だった。

 高速計算という権能を得た真子は、決算書を一瞬目にしただけで、その中の計算ミスを指摘しただけでなく、会話の中の日付や時間の齟齬を見つけ出して支店長をやり込めたり、あげくには強盗犯の筋肉の動きから弾の軌道を算出し、銃弾を避けて見せたりした。自他共に認める平凡な銀行員は、周囲にもその力を認められるようになっていった。


 突然目覚めたこの能力にも慣れてきた頃、帰り道で男に待ち伏せされた。物理現象を計算することができるようにまで権能を磨き挙げていた真子にとっても、男の出現は驚きだった。なにしろ彼は、文字通り出てきたのだから。

 言葉を交わさずとも、彼が真子と同様に日記に触れて権能を得たのだと知れた。


「ルールに従って宣言するぜ。『ページの保有者よ。そのページを差し出せ、さもなくば死を』」


 こんな時がやってくることは、真子も覚悟をしていた。人知を越えた神がごとき権能を与える“日記”――その存在を知った人間が、1ページだけで我慢できるはずがない。すべてのページを集めることができれば、神となることができるかもしれない。しかし、身体の中に取り込まれてしまった日記のページは、その人間が生きている限り身体の中に留まる。つまり、相手は最初から真子を殺して日記を奪い取るつもりなのだ。


「いずれが死するか、それを決めるのはあなたじゃない」

「そうだな」


 相手の男は、ゆっくりと真子に近づいてくる。影を使って攻撃してくるのか? そうやって?

 男は、歩きながら真子に向けて拳を突き出した。自然な動作だった。


「!」


 咄嗟に身を躱した彼女の後ろで、ガキンと金属同士がぶつかるような音がした。目をやると、そこには一部がひしゃげたガードレールの姿があった。男は拳から目に見えない何かを彼女に向けて放ったのだ。危ないところだった。もしも木の葉が変な動きをしなければ、真子は攻撃を避けることができず、大きなダメージを受けていただろう。


「避けるかね。どんな権能なんだい?」

「教えるわけないでしょ」

「そりゃそう、だっ!」


 男が、再び拳を振るう。今度も、なんとか避けることができた。攻撃が直線的であると仮定して、その軌道を計算したからだ。だが、カーブを描くような攻撃ができないとは限らないし、男が持つもうひとつの権能、どうやら影の中に出入りできる権能と組み合わせた攻撃を仕掛けられたら。

 真子の権能は、攻撃手段ではない。計算するだけだ。どうやって生き延びることができるというのか。真子は、いきなり男に背を向けて走り出した。


「逃がすかよ!」


 男は真子の背中に向かって攻撃するよりも、追い掛ける方を選んだ。この時点で、男の攻撃が空気の塊であることに、真子は気が付いていた。彼の攻撃は。打ち出すところを見ることができれば、銃弾を避けた経験のある真子にとって、その攻撃を避けることはたやすい。だが、こうして背中を向けていては男が撃つタイミングも軌道もわからない。恐ろしく、リスキーな行動だった。


「大通りに出て助けを呼ぶつもりか? そうはさせねぇよ」


 パリン! と大きな音を立てて、真子の前方にあった街灯が消えて、灯りの残骸が道路に降ってきた。真子は止まるしかなかった。慌てて振り返り、男に正対する真子。その顔は真っ青だった。息も荒い。


「安心しろ、頭をぶっ潰せば痛みも感じねぇよ」 


 そう言いながら、男はゆっくりと後ろに引いた拳を、思い切り前へ突きだした。不可視の拳が真子の顔目がけて放たれた!

 真子は必死で計算していた。そして、ギリギリのタイミングで避けた。男の攻撃は、真子の背後にあった支柱にぶつかり大きく曲がった。真子は知っていた。毎晩、帰宅途中に通るこの支柱が、閉店した店の看板を支えるものだということを。手入れをする人間がいなくなったために、内部から錆びてボロボロであったということを。

 男は知らなかった。自分の攻撃によって折れたその支柱が、大きな看板を支えていたものであったことを。そして、避けようとした先にビニール袋が落ちていたことを。


 鈍い音を立てて、看板が道路にめり込んだ。ビニール袋に足を滑らせた男の頭は、看板と道路に挟まれ、原型を留めていない。看板が倒れた大きな音と衝撃に、何事かと集まった人々は、凄惨な事故現場を目にすることになった。真子は、どさくさに紛れて、自分のアパートへと戻った。


(ギリギリだった……)


 すべて計算ずくのことではあったが、上手く行くとは限らなかった。真子にとっても大きな賭であった。しかし、安心してはいられない。あの男同様、日記のページを集めている人間は他にもいるはずだ。いつ、襲ってくるかわからない。もしも、狡猾な人間だったら。

 あの男を倒して手にしたふたつの権能――影と空気の塊を打ち出す能力についてもっと知らないと。みっつの権能を使いこなして、生き抜こう。真子は決意した。それが神へと至る道であることに気づきもせずに。


 こうして、平凡だった桐谷真子の、平凡ではない毎日の幕が開いたのだった。


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