顔も知らない好きな人

穂村ミシイ

顔も知らない好きな人


――なに、これ……?


日記お前ぐらい俺を覚えていろ。』


 そんな日記帳が落ちていたら誰だって脚を止めてしまうだろう。

 私だってそうだ。普通なら神社の境内に落ちている物なんて見向きもしない。でも、どうしてもその日記帳が気になって、周りに誰も居ないのを確認してこっそり拾い上げてしまった。


 真新しい日記帳。

 走り書きでミミズみたいに汚い文字。

 〝俺〟と表記しているから男の人の物だろうか?


 こんなに唆る物はない。

 ダメは分かっているけど好奇心が勝ってしまう。どんな内容だろう……?


 他人の裸を覗き見する感覚。

 心臓が速く脈打ち血液が顔を熱くする。


「お、落とした方が悪いのよ!」


 誰にも怒られてはいないのに、反射的に出た言葉が空気と混じって散発して消えた。一呼吸置いて、日記帳の表紙をめくって見た。


『何を書けば良いんだよ!!』


 雑な言葉たった一つ。一ページ目に書かれただけだった。『日記ぐらいは俺を覚えていろ』と豪語しておいて内容は全くない。それがなんだか面白くっておかしくって。


『貴方の一日を書けば良いんじゃない?』


 気がついた時にはスクールバッグから取り出したシャープペンで書き足していた。


――しまった……。つい、書いちゃった……。


 出来心だった。でも昨日見たテレビで、ついやってしまった出来心で人生は狂ってしまうって言ってた。


――バレたらダメだっ……。


 気分は犯罪者。この犯行がバレたら刑務所行きだ。そう思ったら急に怖くなって、慌てて閉じた日記帳を小さなお社の前に置いて逃げ帰ってしまった。


――そんな訳ないじゃないっ!!


 そう考えに至ったのは、家に着いてお茶を一気飲みした後の事。日記帳に文字を書き足したぐらいで警察に捕まるはずがないじゃない。あんなに焦っていた自分が馬鹿みたいでちょっと笑えてきた。それよりもあれを交番に届けてあげるべきよ。


 そんな訳で次の日、私はまた同じ時間、同じ神社の境内に来ていた。


「良かった。まだ、あった…………。ん?」


 小さなお社の前に変わらずあった日記帳。でも、その隣に身に覚えのないシャープペンが置いてあった。


――これは私のじゃないな。まさか!?


『朝、メシくった。昼、メシ食い損ねた。夜、メシ食いたい。これでいいのか?』


 日記帳を開いて二ページ目。ミミズみたいに汚い文字が足されていた。これは日記帳の持ち主の字だ。すぐに分かるぐらい文字が汚なかった。それにしても……。


「これは、日記とは言えないでしょっ。」


 この人の一日はご飯の感想しかないじゃない。それも二食分を食べ損ねてるし。おかしな人ね。


『ご飯の内容は? どこで食べたの?』


 返事が書かれている事にもびっくりしたけど、なによりこの日記の持ち主が『これでいいのか?』と次の返事を待っている。その事実がとても嬉しくて。置かれていたシャープペンを握った。

 

『パン食った。場所はココ。』


 次の日も、彼からの返事が書かれていた。学校にあまり馴染めていない私からすると、ちょっと変わった友達が出来た感覚。これは多分、嬉しいんだ。


『ねぇ。日記を書くお手伝いをしてもいい?』


 貴方さえ良ければ、私と友達になって。本当はそう書きたかったけど、恥ずかしくて言えない。だからお手伝いなんて遠回りな表現をしてみたけど、彼からの返事はあるだろうか?


『頼む。俺一人じゃムリだ。』


 次の日、彼からの返事に顔がニヤけて胸が鳴った。それから正式に、私と顔も知らない日記帳の主人との不思議な関係が始まった。


『今日一日で印象に残った事は?』

『メシがマズかった』


『嬉しかったと事は?』

『パン祭りの皿、貰えそう』


『全部ご飯関係ね?』

『しゃーねーだろが、そんくらいしかないんだよ!』


 日記帳の彼は壊滅的に文章を書くのが苦手らしい。いつも一言二言しか返事が返ってこない。それもご飯の話ばかり。本当に、おかしな人。


『今日起きた残念な出来事は? ご飯以外でね?』

『水溜りに足突っ込んだ。靴下が濡れやがった。』


 数日経つと、学校へ行くより日記帳を見に行く方が楽しみになっていた。それと同時に、名前も知らない彼の事が気になって仕方がなくなっていた。


 貴方はどんな人?

 なんで日記を始めたの?

 どこに住んでるの?


 でも、これらの情報はなんだか聞いちゃいけない気がするの。聞いたら最後、もう返事を書いてくれなくなってしまいそう。だから聞けない。でも、知りたい。


『ねぇ、貴方をなんて呼べばいい?』


――せめて、このぐらいは許して。お願いよ。


『別に、なんでもいいが。シンだ。お前は?』

『名前があった方が書きやすいの。私はレイよ。』


――シン。そっか、シンって言うんだ……。


 境内に誰も居なくてよかった。

 私の顔、今とても赤いだろうから。


 その後も、私たちの不思議な関係は続いている。

 花の踊る春が過ぎ、新緑芽吹く夏が駆けて、実りを味わう秋が終わり、白銀世界の冬が来た。


『明日はまた雪が降るみたいよ?』

『みたいだな。ここに来るのも雪道で大変になって来た。レイ、毎日辛くないか?』


 私たちは毎日、色んな話をしたの。本当に色んな話を。彼は文章を書くのが上手になって、私の名前を簡単に文字にする。


『大丈夫。心配してくれてありがとう。この前、教えて貰った曲聴いたの。めちゃくちゃ良かった!』


 私は中々、彼の名前を文字に出来ないのに。

 だって私は、彼に恋をしている……。


『だろ! あれは名曲なんだ。今日は焼きそばパン食ったんだが、そろそろカップ麺に切り替えないと寒過ぎて死ぬ。』


 彼はもうずっと前から私のお手伝いがなくても日記を書けるだろう。でも、この関係を壊したくなくて。言えなかった……。


『もっと身体に良いもの食べなよー。』


 彼は気付いているだろうか?

 この日記帳はもう文通になっているのを。いいや、気づいてないわ。だって彼は壊滅的に文章が下手で、がさつで、鈍感なんだもの。


 そんなところも彼の魅力だと思ってしまう私は、どうかしてる。


 私たちは互いに名前しか知らなくて、この日記帳が無くなればなんの縁もなくなってしまう危うい関係。それでも漠然と、なんの根拠もないけど、ずっと続いて行くものだと思っていた。


――父親の転勤が決まるまでは……。


『父親の仕事の転勤が決まってね、愛知に引っ越す事になったの。今年の春にはもう、ここへは来れなくなる。』


 嫌だ、離れたくない。

 お願いだから〝行かないで〟って、言って?


『そうか。残念だ。』


 それだけ? 

 たったの、それだけ、なの……?


『最後にお願いがあるの。』

『なんだ?』

『一度でいいから、シンに会いたい……。』


 貴方がどんな人でも構わないから。おじさんだって、小学生だったとしても。どうしても会いたいの。


――好きだと、伝えたいの。


 湧き出す想いそのまま、吐露してしまった。

 時間はあっという間に進んで行くもので、もうすぐ冬が明けてしまうというのに。あれ以来、彼からの返事は無くなってしまった。


「本当に、酷い人。」


 あんたなんて、大嫌いだ。

 この一年がこんなにも脆く崩れてしまうなんて。


「一度ぐらい、会ってくれてもいいじゃない。」


 ねぇシン。

 どうして、何も言ってくれなくなったの?

 私、明日にはここを立つのよ?


「どうして、この気持ちを伝えられないの……?」


 境内の小さなお社の前、泣きじゃくる私を雪が隠す。今日は最後の希望を込めてここに来たの。日記帳を見るのが怖い。でも、これで最後なんだから。彼からの返事がなくたって、見ないで後悔するよりよっぽどいい。震える手で無理矢理に日記帳を開いた。


『ごめん。俺はレイには、会えない。』


――そっか……。


 頬を伝う涙が日記帳に落ちて滲んだ。

 これで本当にさよなら、だね。


『大好きよ、シン。』


 私は、顔も知らない彼の髪を撫でるように優しく日記帳を閉じて、こっそりとキスをした。


「私も、貴方と同じ。シンを忘れないわ。」


 お社の雪を払い、日記帳が濡れないようにハンカチで包んでから私は、その場を後にした。


―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――


 あれからもう数年が経つのね。

 社会人になった私は日記帳を毎日書いています。

 未練がましくね。私の日記帳のタイトルは『日記あなたを覚えている』にしたわ。


 最近話題の小説家を知っている?


 白内障で若くして失明してしまった作家なんだけど、とても綺麗な文章を書くの。次の直木賞の最有力候補者よ。

 次回作が明後日発売らしいのだけど、タイトルすら発表されてなくて。でもタツキ先生の作品だもの、絶対に面白いに決まってるわ。

 

―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ―― ――


 日記帳を閉じた私は、今も変わらず愛知で働いている。彼との思い出は綺麗に閉まって、仕事一筋だ。それでもふとした瞬間に彼を、シンを思い出す。


「ダメね。こんな事で私は結婚出来るのかしら?」


 深いため息一つ。

 でも私にはタツキ先生の次回作がある。それを励みに明日も仕事を頑張ろ。


 

 それから更に季節は流れ、また冬が来た。

 マンションの一室から漏れるテレビの音。

 部屋の住人は女性。

 胸に一冊の本を抱えて涙している。


『今年の直木賞は、タツキ シン著作――。

「日記ぐらい俺を覚えていろ」に決定しました!』


 彼女の手にはあの日、日記帳を包んだハンカチが握られていた。

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顔も知らない好きな人 穂村ミシイ @homuramishii

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