余話 なお、残された者たちの日々は

 アマノハの中枢機関、法案や勅令ちょくれいなどの起草きそうを一手に管轄する官庁、中書省ちゅうしょしょう

 その長である中書令ちゅうしょれいの執務室では、壮年から老境へとなろうとする男が報告を聞いて、机に肘をつき口元を隠しながら一言らした。


「あの娘、取り逃がしたか……」

 その前に立つ男は、直立したまま答える。

「特に現場では行政に根を張っていたエル家の娘へと陰ながら手を貸す者も多く、残念ながら」


「聖王国も、よくも他人の懐に手を差し込んで、なかなか小細工を弄するわ」

 座る男が、ニチャリと口の端を上げると。

「一部で四大国と持ち上げられることに慢じ、我らアマノハと同格のつもりですから、度し難いもの。

 こちらにも、それに惑わされる者がいるのが情けない限り。

 しかし、この度の件で、いくらか目も覚めたことでしょう」

「ふむ。

 あの程度の悪戯いたずら、逆に手を取り返し、此方こちらの思うままにするのも容易たやすいものよ。

 だが……」


 そのあと訪れた暫くの間に、立ち続ける男はじわりと嫌な汗を浮かべかけるが、

「まあ良い。

 そして、このまま我が娘を皇太子妃にすれば、次にこの国を治めるための『こうたいし』は掌中に入る。

 あとは……」

 座る男が続けた言葉に、今度は別の緊張が部屋のなかに広がって。

「皇帝陛下にもし何かあれば、大変なことですな。

 その時は義父として、最高位の臣下である中書令ちゅうしょれいを務められます閣下が、新皇帝陛下を支えあそばされなければなりますまい」

 中書令ちゅうしょれい室のささやき声は、いつまでも止むことがない。



 *** *** ***



 皇宮の庭園にある四阿あずまやに、一組の男女が座る。

 女はしばらく男の顔に見とれているようだったが、しばらくしてから今度はれたように声をかけた。

「オージ皇太子殿下、いかがされたのですか?」

「いや、トロンの愛らしい顔と雰囲気にやされていた」

 国中の娘が見惚みとれると評判の爽やかな微笑みを浮かべた男の反応に、女は例に漏れず喜びの表情を浮かべて答える。

「まあ、嬉しいですわ!」

「メアリィと一緒だった頃は、いつも気が休まらなかったからな」

「はい。では私が、殿下の心に安息を差し上げます」

 嬉しそうに胸の前で指を組んだ女を見た後、男は視線を逸らせて横を向く。

「……まったく、あんな生真面目なのにひたすら真っ直ぐ見られてはな。

 ただでさえ父陛下の目もうるさいのに、たまったものではない」

 その口の中でつぶやかれた言葉は、男以外の耳には届かない。

「何か、仰いました?」

「いや、君のその優しさがとても良いと嬉しかっただけだよ。

 さて、そろそろ陛下のところにいかねば……」

 再び向き直って女に先ほど見せたような微笑みを送ると、男は立ち上がった。

「また、お呼び出しですか?」

「ああ。

 体調不良を口実に私を度々呼び出して、律儀にやってくるか忠誠心を試しているのさ。

 その実、なにも問題はないのにな」

「大変ですね。

 ……殿下は、いつまでそのようなご苦労をされねばならないのでしょう」

 見送りながら何気なく漏らした女の言葉を、男は強い声で叱責しっせきする。

「言うな!

 まるで陛下がいなくなれば私の苦労も不要となるような言い草、聞く者が聞けば不敬では済まない。とがめられるぞ?

 メアリィの後を追いたくはあるまい」

「……失言でした。

 行ってらっしゃいませ、殿下」

「ああ」

 そして歩きだす男と、座ったままそこに残る女。今日もその距離は、次第に離れていく。



 *** *** ***



 いつものように静穏な皇宮に、突如叫び声が響いた。

「誰かいないか!?

 警備の者は? いや、手空きの者なら誰でもいい、早く来てくれ!」

 それを耳にして駆けつけたのは、この国では一番の憧れの的である美麗な制服を着た、帝都治安の責任者である執金吾しつきんご

「何事ですか、オージ殿下?」

「おお、スイクン。君か!

 気心も知れ頼れる君で運がいい。

 大変だ、父上が。皇帝陛下が、いま息を引き取られた!」

 緊張した面持ちで告げるオージに、スイクンの顔も強張る。

「なんですって!?」

「体調不良と伺い駆けつけたが、私が枕元へと伺って程なくのことだった」

「なんということだ……」

 思わずうつむくスイクンに、オージは叱咤しったを飛ばす。

「動揺している暇はない。

 私は義父である中書令ちゅうしょれい殿を中心に関係各所の掌握しょうあくを図る。

 お前は万が一の混乱が無いよう、治安を徹底してくれ。

 いや、そのためには大至急で軍を押さえなければ駄目だな。

 スイクン、執金吾しつきんごに加えて、軍を束ねる兵部尚書へいぶしょうしょの地位をやるから兼任しろ。

 文武両道のほまれ高い君だ、きっとうまくできるだろう。

 今より一層はげめよ? ……『私のため』に」

 そしてかけられた言葉に、今度スイクンの顔は跳ねるようにオージの方を向いて。

「!?

 オージ殿下、まさか?」

 驚いたようなスイクンに、オージは含むように言葉を続けた。

「メアリィの件で関係者を取り逃がす失態だった君を、誰が助け今の地位につけたかも、覚えているだろう?

 なら……わかっているよな?」

「……」

「よし、行け!」

 そしてこのあと、皇帝崩御ほうぎょと皇太子登極とうきょくの報が国中に伝えられることとなる。



 *** *** ***



 明るい午後の昼下がり。皇宮にある小部屋には、久しぶりに休息を取るオージの姿がある。

 そこにノックの後で入ってきたのは、旧来の親友にして今は片腕と頼む側近中の側近。


「無事国葬も終わりましたね、オージ皇太子殿下」

「おいおい、よせよホウロウ。今はもう皇帝だ。

 それに、俺達だけの時は敬称なんていらない。

 どうだ、かつて話していた『俺たちの時代』が、やっとやってきた。

 君もその若さで、皇帝の最側近たる御史大夫ぎょしたいふだ。

 頼りにしているよ?」


 慣れた様子で爽やかな笑顔を浮かべるオージに、ホウロウは手でメガネの位置を直す。


「ああ、わかっているよオージ。

 ただね……」

「ん? どうしたホウロウ」


 2人の間を、一瞬窓から吹き込んだ風が、静かに吹き抜ける。


「やっぱり、どうしても違和感がね。

 僕がひざまずく先にいるのは、君とメアリィだと思っていたんだよ」

「ああ、彼女はどうしてあんな短慮をしたんだろうね?

 彼女をよく知っている俺も、いまだに信じられないよ。

 だが、起きたことは事実だ。今更こぼれた水は戻らない」


 肩を落としてため息を付いたオージに、ホウロウはわずかに目を細め。


「ああ、そうだね。

 ……でもね、オージ。君がこうして皇帝となったところから見返すと、色々と見えてくるものもあったよ」

「ん? どういうことだ、何が言いたい!」


 含まれた物言いにオージは怒気を発するが、果たしてそれはホウロウに届いたのか。


「何も。ただ」

「ただ、なんだ!?」

「どうしてそんな短慮をしたのか、僕はいまだに信じられないよ。

 ……そう怒らないで、オージ。君の言う通り、今更こぼれた水は戻らない」

「何を知っている、ホウロウ?」


 探るように声をかけたオージだったが、それに答えたホウロウの声はいつもと変わらない様子のまま。


「知られてまずいことでも、あるのかい?

 君の気分が優れないようだ、僕は向こうに行くよ。

 大丈夫、僕は約束を守る。アマノハをより素晴らしい国にするために、これからも全力を尽くすよ」


 しばらくそのまま、オージはただホウロウが退出していった扉を見つめている。

 降り注いでいた陽の光は、いつしか雲におおわれて隠れていた。


 *** *** ***


 夜の皇宮。所々に明かりは灯るけれどなお薄暗いその廊下で、密会する男女の姿があった。


「そうか、教えてくれて嬉しいよ。

 それでホウロウはあんな事を言ったんだね。

 でも、君が私の下に来てくれればもう何も証拠はない。これであいつが何を言っても、陰謀論の妄想だ」


 小さく息をついた後に続いた男の言葉を聞いて、女は口を開く。


「そう。それなら、ご褒美ほうびがほしいわ皇帝陛下?」

「なんだいメレイ、言ってごらん。私達の仲じゃないか」


 オージが見遣みやると、メレイの瞳が闇の中で細く輝く。


「じゃあ。メアリィの首を、頂戴ちょうだい?」

「!?

 ……何を言い出すんだ、メレイ」


 驚いた様子のオージだったが、次に告げられたメレイの言葉でその顔は本物の驚愕きょうがくに崩れる。


「貴方がお父様に使った毒、どうして私が知っていたと思う?

 私がメアリィを取り逃がしたときに使われた毒、それを調べていたからよ。

 あれはアマノハ先朝の王室に秘伝されたもの。

 それが今は国を譲った功績で皇祖伝来の法に庇護ひごされ、不可侵の聖域になっている。

 そこには、睡眠毒はもちろん、麻痺毒もあるし、……もちろん致死毒も」

「それとメアリィと、どんな関係が……」

「あの女が逃げるときに、その毒が使われたと言ったでしょう?

 色々洗ったのだけど、どうやらその秘伝を聖王国に流した不届き者がいるみたい。

 アマノハとしては、アマノハの皇帝としてはそんな事態を放置してはおけないわよね?

 大丈夫、聖王国ならアマノハの法は及ばない。先朝王室の生き残りを処分したって、問題ないわ。

 そして私は、メアリィの存在を放っておけない、おく気はない。彼女も既にアマノハで奴隷となった存在、しかも逃亡者。殺してしまっても問題ないでしょう?」


 ほとばしるように止まらないメレイの言葉に、オージはあらがってもあらがいきれない。


「しかし……」

「メアリィがその手に武器を持って他国に渡ったとなれば、いつか必ず国や貴方の害となって返ってくる。

 それを始末しなければ、貴方の心が本当に休まる日は来ないわ。

 ああ、貴方の見込んだとおり、やはりメアリィは稀代きだいの悪女ね。あのような者がいては、際限なく心がすり減ることでしょう。

 でも、今は私がここにいる。昔から貴方のことをちゃんと見て解ってる、本当の味方が。

 だから……私を信じて」


 そして、ついに。


「……わかった。手を打とう」


 それを聞いたメレイは、目と口を空に浮かぶ三日月の形に歪めて微笑んだ。



 *** *** ***



 あるいはメアリィを失うことで、アマノハには災厄が呼び込まれたのだろうか。

 国のそこかしこに敵味方が入り乱れ、昨日の敵が今日の味方になり、今日の味方が明日の敵になる。

 皇帝オージの御代は『混乱と陰謀と戦禍の時代』として、後代の史書に記録されていくことになるのだった。

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夢破れた蕾は、花咲くことを誓って めぐるわ @meguruwa

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