僕の夏休み

ninjin

第1話

「ああ、おわったぁっ」

 思わず声まで出して伸びをする真琴は、そのまま椅子の背にもたれ掛かって、ブリッジの体勢になりながら、後ろの壁掛け時計を確認した。

 もう時刻は四時半を回っている。

 夕方ではない。午前の話だ。

 全く眠気は感じない。

 満足感、達成感、興奮(?)、それから解放感と、明日からのワクワクする日々の始まりを感じて、真琴はニヤニヤが止まらない。


 夏休みが始まって一週間。

 今日は明けて七月二十七日。

 そして今、午前四時三十分。

 この一週間、児童公園でのラジオ体操以外、まるで家の外に出ていない。

 友達とのプールへの誘いも断ったし、近所の中学生の兄ちゃんが連れて行ってくれると言ったクワガタ捕りだって我慢した。

 それでも真琴は、今、生まれて初めて(恐らく)、達成感ってものを感じていたし、『初めて』といえば、前夜から早朝四時過ぎまで起きていられた自分にも驚いていた。

 ワクワクとニヤニヤを抑え切れない真琴は、『夏休みの友』と、自由研究『S市の歴史』、ストローで作った籐かご風の物入れを、学習机の上に並べ、それから最後に、今描き終えた絵日記帳をパタンと閉じて、そっと、そして丁寧に置いた。


 ――もう僕を縛るものは、何もない。


 滝川真琴、十歳、小学四年生、男子。夏休み開始から一週間、全ての宿題をやり終えた瞬間だった。

 感慨深く、物思いに耽る小学四年生。

 いつの間にか、時刻は五時を過ぎていた。


 一時間後、真琴はラジオ体操の公園で、同級生の直哉相手に自慢話を繰り広げていた。

「おれ、夏休みの宿題、全部おわらせたぜ」

「うっそー、まこっちゃん、凄いじゃん」

「もう今日から、、おれ」(大人が聞いたら、なんか、意味違くね?ってなる)

「すっげー、いいなぁ、まこっちゃん」

「でも、そのせいで昨夜から全然寝てなくってさ、・・・」(おいおい、意味分かって言ってんのか?)

 そう言ったあと、さすがに真琴は欠伸が出そうになり、それをかみ殺す。

 何となく、直哉の前で欠伸をすることが、格好悪く思えたからだ。


 ラジオ体操のスタンプを押してもらったあと、フラフラしながら家に辿り着いた真琴は、そのまま自分の部屋のベッドに突っ伏して、次に気が付いたのはお昼過ぎだった。

 階段を下りて茶の間を覗くと、昼食の後片付けをしている母親と目が合った。

「あら、真琴、随分ぐっすり寝てたから、起こさなかったけど、お素麺、食べる?」

「あ、うん。食べる」

 問題無い。

 素麺で良いのだ。

 夏休みの昼食は、六割が素麺、二割がそば、冷やし中華が一割で、残りは買ってきた総菜パンか何かだ。

 冷やし中華の日はテンションが上がる。

 多分、夏休みの間に、三、四回くらい、その日は訪れる筈で、真琴はそのことを確り日記帳に

 勿論、毎日の昼食のメニューを日記に書いている訳ではないので、冷やし中華の日だけを『今日のお昼は、冷やし中華で、僕はうれしかったです』、そう書いておいた。

 専業主婦である真琴の母親は、前日に『明日、○○が食べたい』と真琴が言えば、大概の場合はそれを作ってくれたし、母親の方から『明日、何が食べたい?』、そう訊いてくることも儘あった。

 母親にしてみれば、何を食べたいか家族に訊いた方が、自分でメニューを考えるよりずっと楽だったからに違いない。

 考えないと、毎日、素麺なのだ。夏休みのように。

 だから真琴は、日記に書き記した『冷やし中華の日』前日に、母親に注文することに決めていた。

 そして今日は素麺で問題無い日だ。


 夏休みの宿題をやり終えてから最初の五日間、七月三十一日までは、特に何事も無く順調だった。

 ただ一つ問題があるとすれば、ラジオ体操のあと、真琴はそのまま直ぐにでも遊ぶ気満々なのに、友達は皆、『うん、遊びたいけど、帰って十時までは勉強しなくちゃ、って、うちのお母さんが・・・』、そう言うものだから、結局真琴も家に帰るしかなかったのだ。

 それでも真琴は、中学の吹奏楽部の部活で午前中は留守にする姉の部屋から、こっそり拝借してきた漫画本を満喫しながら、午前中をやり過した。

 帰宅した姉から『あんた、宿題は?』、そう訊かれると、『もう、おわったもん』、そう答える。

 姉は訝し気に真琴を見詰め、

「あんた、去年みたいに、夏休みの最後になって泣きついて来ても、今年は絶対、手伝ってやんないんだからね」

 語気も強めにそう言われると、そこは売り言葉に買い言葉、真琴も『べぇ』と舌を出して、

「姉ちゃんになんか、頼まないよ」

 そう言い返す。

「可愛くないなぁ。ほんっと、知らないからね。それよか、漫画本、返しなさいよ」



 問題が発生したのは、八月の初日だった。

 その日は、何だか、雲行きが怪しい。

 いや、家庭の雰囲気とか、真琴を取り巻く環境とか、そういうことではない。

 実際の気象の問題だ。

 テレビニュースのアナウンサーが告げる。

 ――昨夜、夜半過ぎに沖縄本島に上陸した台風六号は勢力を拡大しながら、その進路を北東に変え、徐々に速度を上げ九州南部から本州に・・・


 真琴は不安になる。

 いや、台風の大きさや、被害予想などではない。

 真琴の日記は、毎日、『晴れ』になっていたから。

 ただの雨なら、天気の部分だけ書き換えればいいと思っていた。しかし、台風となると、話が違ってくる。

 然も、だ。

 八月二日は、花火大会に、赤、青、黄色、緑、紫と、夜空に広がる大花火の絵を、既に日記帳いっぱいに描き切っていたのだ。

『八月二日 晴れ

 今日は、花火大会がありました。

 お父さん、お母さん、お姉ちゃんといっしょに、海のぼうはていで、花火を見ました。

 帰りに、お父さんが、かき氷を買ってくれました。

 冷たくて、おいしかったです』


 さすがにこれは不味い。

 それくらいのことは、小学四年生にだって分かる。


 外の風も強まって来た午後三時、仕事を早めに切り上げて帰宅した父親に、慌てて訊く真琴は気が気ではない。

「お父さん、明日、花火大会は?ねぇ、中止?行ける?ねぇ、ねぇ、行こうよぉ」

「おいおい、真琴、行こうって言っても、中止だったら行けないじゃないか。それに、この調子だと、多分中止だと思うぞ。まぁ、今日の夜のニュースで中止の発表があると思うけど。まぁ、そんなことより、お父さんはこれから、家の外の片付けとかやらなくちゃいけないから、真琴とお姉ちゃんは、お母さんの言うこと聞いて、家の中の手伝いをしてくれ。お父さんも、お前たちに何か手伝って欲しいっことがあったら、その時は呼ぶから」

 父親はそう言い残して庭に出て、風で飛ばされる恐れのあるものをせっせと軒下に片付けたり、紐で縛ったりとやり始めた。

 真琴は台所に戻り、おにぎりを握る母親にも訊いてみる。

「明日、花火大会、行くんでしょ?それ、明日のお弁当?」

「違うわよ。これはね、明日、もし電気も水道も止まっちゃったときの為に作ってるの。だって、台風来るのよ。でも、明日がダメでも、花火大会は来週に順延だから、そうしたら行きましょうね。あ、真琴、お風呂の浴槽に、お水をいっぱい溜めてちょうだい。それで、今日はみんな、お風呂はシャワーだけにしてちょうだいね」

 真琴は目の前が真っ暗になった。

 真琴は絶望に打ちひしがれながら、とぼとぼと階段に向かう。

「ねぇ、真琴、今、母さんの話聞いてた?浴槽に水溜めなさいって、言われたでしょ?ねぇ、真琴、聞いてる?」

 姉のキーキー声も真琴の胸には届かないし、響かない。

 真琴は俯いたまま階段を昇り、そのまま自分の部屋で放心した。


 おわった・・・


 暫くして、姉が部屋にやって来て、さすがに真琴のおかしな様子に気付いたようだ。

 今度は声を荒げることはなく、『真琴、一体どうしたの?』と訊いてくる。

 その言い種が、必要以上に優しいものだから、真琴の瞳からは、思わず涙が零れ落ちてしまったのだった。

「どうしたのよ、あんた。泣いてたって分からないわよ。ね、お姉ちゃんに言ってごらん。ね、もう泣かないで」

 真琴はそれでも言葉にならずヒックヒックとしゃくり上げながら、学習机の上の絵日記帳を指さした。

「いいの?見ても?」

 姉の言葉に頷く真琴。

 そして姉は、絵日記帳を開き、一瞬絶句し、それから、ケラケラと笑い出した。

「あんたって子は・・・」

 姉は笑いが止まらない。

 そんな姉を見て、真琴は初め、酷く腹立たしく思ったが、姉の笑いが余りにも長いこと止まらないものだから、いつの間にだか真琴自身も何だか可笑しくなってきて、一緒に声を立てて笑ってしまっていた。

「あはははははは・・・」

「ククク、ククククっ」

 ひと通り笑い疲れて、真琴は姉に尋ねる。

「お姉ちゃん、どうすればいい?」

「どうするもこうするも、お父さんとお母さんに正直に話して、新しい絵日記帳、買ってもらいなさいよ。あたしからも言ってあげるから」


 それから真琴は姉と一緒に階下に降り、庭から戻った父親と、タッパーにおにぎりを詰め終わった母親を前に、正直に日記の話をした。

 真琴は父親に叱られると思って、ドキドキしたが、父親はゲラゲラ笑い出したので、ホッとすること半分、笑い過ぎだよ、そう腹を立てること四分の一、残り四分の一は恥ずかしさで、何だか変な気分になった。

「真琴ぉ、お前は面白い奴だな。誰に似たんだ?それともあれか、去年のお母さんとお姉ちゃんに詰められたのが、よっぽどトラウマになってたのか?あははははっ。にしても、日記を先に書いちゃうとはなっ」

 母親も笑っている。姉も、再び笑い出した。



 一年前の八月三十一日。

 小学三年生だった真琴は、母親から借りた携帯電話に首っ引きで、七月、八月の毎日の天気を、日記帳に書き写していた。

 母親と姉は、牛乳パックを切り刻み、セロテープと糊でそれをペタペタと貼り合わせて工作をしながら、ずっと二人で怒っている。真琴に対して。

「どうして、ほんっと、あんたはこんなにバカなのよっ」

 そう姉が言えば、

 母親が、

「もう、ほんっと、いい加減にしてちょうだい。だから毎日、『宿題やってる?』って、訊いたでしょ。なのにあんたは『やってる』って、嘘ついて。もう、ほんっとにっ」

 そう言って真琴をなじった。

 それから、仕事から帰った父親に姉が言い付け、真琴は父親にボールペンで頭をぺチぺチ小突かれながら(痛くはないのだが、子どもながらに申し訳なさと、情けなさに苛まれつつ)、『夏休みの友』の国語、算数、理科、社会、涙を流して完了させのだった。


 母親曰く

「来年は、宿題やってなかったら、お盆におじいちゃんの田舎に行くのも、真琴はひとりでお留守番させますからね。いい?分かった?」

 鬼の形相だった。

 姉も追随して追い打ちをかける。

「あんたみたいなバカな弟を持つと、ほんっと、こっちが疲れるわ。来年は知らないからね。いい加減にしてよね」

 母親と娘、言葉遣いもよく似ているせいで、破壊力は二倍である。

 小学三年生である真琴の小さな自尊心は打ち砕かれ、絶対に見返してやる・・・。


 

 そして迎えた小学四年生の夏休みだった、のだが・・・。

    ◇



「あの時だったなぁ、俺が気象予報士、目指したの」

「ホントに?」

 真琴の大真面目ぶりとは反対に、由美は如何にも可笑しそうにクスクス笑う。

 由美は、真琴が勤める気象予報サービス会社「ニュース オブ ウェザー」の後輩社員で、真琴と付き合い始めてやがて半年になる。

「ホントも本当さ。でも、天気予報は出来るようになったけど、それ以外の未来のことは分からない。当たり前だけどさ・・・」

「それは、そうよね」


 由美は何か、感じたかな?

 由美の瞳が、少しうるっと輝いたような気がする。


「それでさ、相談なんだけど・・・」

「なぁに?」

「うん、その見えない『未来』ってヤツをさ、何ていうか・・・俺と一緒に・・・」


 少し陽の傾き始めた、海の見える丘公園、真琴は胸の内ポケットに手を入れて、それから、由美の前にひざまずく。

 そして、ポケットから取り出した小さな箱と、折り畳まれた画用紙。

 画用紙には、決して上手とは言えないが、公園と夕陽、それにどうやら若い男女のシルエット。

『五月十六日 (多分)晴れ(僕の、予報です)

 今日は、由美さんと、海の見える丘公園に行きました。

 僕は、そこで、プロポーズをしました。

 そして、由美さんは・・・』




     おしまい


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