儚きかな、その花びらを手に

上羽理瀬

第1話

 三月下旬。時たま吹く風がまだ肌寒い中、病院の庭に植えられている七分咲きの桜が花びらを揺らしている。

 月に一度ここを訪れている老婆は、薬を貰ったあとで庭のベンチに腰掛けて景色を眺めるのが日課だった。

 今日は、いつものベンチの横に先約が車椅子に腰掛けていた。髪の長い、四十代くらいの女性。服装からして入院患者だろうか。彼女もまた、この広い庭の景色を楽しんでいるようだった。


「隣、よろしいかしら?」


 老婆が声を掛けると、その女性は口角を高く上げて微笑んだ。

 女性の身体はとても痩せ細っている。もしかしたら、よくない病気なのかもしれない。そう考えながら、ふと老婆は女性に話し掛けた。


「あの桜、そろそろ満開になりそうね」


 老婆たちの真正面に堂々と鎮座している桜の木。それはそれは大きく、この病院のシンボルとなっていた。

 女性もその桜の木を見つめ、右手を上げて指差した。


「桜の花が一番好き」


「あら、そうなの。ピンク色で可愛らしいものね」


 女性の声は想像よりも高く、とても若い印象を受けた。


「部屋から見えないからつまらないな。ずっと見ていたいのにな」


「それは残念ね。せっかく一番好きなお花なのにね。朝起きて一番に見られれば元気が出るのにね」


 おそらく、長い期間入院しているのだろう。それなのに、一年の間にわずかしか咲かない一番好きな花を部屋から見られないというのは、彼女からしたらとても哀しいことだ。


「ここのお庭は本当に綺麗よね。たくさんのお花が咲いているし、きちんと整備もされていて。あなたも毎日ここへ来ているのかしら?今まで気が付かなかったわ。きっと何度もすれ違っていたのでしょうね」


 老婆は女性の方を向いて話を続けたが、女性はじっと桜に見入っていた。


「本当に桜が好きなのね」


「ここは落ち着く。お花の香りがして、本当に気持ちがいい」


 女性は、目を閉じて車椅子の背もたれにゆっくりと大きく寄り掛かった。薬物療法だけでは治せない、心からの安らぎがこの場所から得られるのだろう。


「あらあら、危ないわね」


 小さな子どもが、桜の木に登ろうとしていた。すぐに親に止められたが、危うく細い枝が折れてしまいそうだった。


「桜は折れると腐ってしまうのよね。大事にしないとね」


 桜が大好きな女性もさぞ驚いたことだろうと顔を向けると、驚いたどころか先ほどからずっと同じ微笑んだ表情を浮かべていた。


「そうね、子どものしたことだものね。仕方ないわよね。あなたは心が広いわ」


「わあ、満開だ。すごいすごい、とっても綺麗」


 すると、女性は突然理解不能な事を発した。桜は確かにもう十分に綺麗なほど咲き乱れてはいるが、まだ満開ではない。


「ああ、花びらが散っちゃう。綺麗だけど寂しい」


「え、風なんて吹いていないわよ」


 その時、老婆は気が付いた。


「……あなた、目が見えていないのね」


 その問いにも応えず、女性は両手を伸ばして散りゆく桜を惜しんでいる。その姿は、待って行かないで、私を置いて行かないでと訴えているように見えた。


「大丈夫よ、落ち着いて。まだあの桜は散らないわ。これからどんどん咲いて満開になるのよ」


 しかし、そんな老婆の慰めも虚しく、女性は更に遠くに腕を伸ばす。


「どうして先に行ってしまうの。私を置いていなくなってしまうの?」


 女性のそんな姿を、老婆はもう見ていられなかった。


「あなた、耳も聞こえていないのね。ああ、なんて可哀想に」


 すると、ひとりの看護師がこちらへ近付いて来た。この女性の担当看護師だろうか。


「そろそろ戻りますよ。風が冷たくなって来たし、もう少ししたら検査の時間です」


「あの、この方は……」


 思わず老婆は看護師に問い掛けた。まだ女性と出会って数分しか経っていないが、気になって仕方がなかった。


「こんにちは。この方は末期癌で、もう長いこと入院されているんです。ほぼ安定していたんですが、半年ほど前に聴力を失ってしまって」


 癌。その言葉に、老婆はひどく傷付いた。自分の夫も癌で亡くしている。それなのに、まだ若いこの女性が末期癌だなんて。


「この方、もしかして目も」


「はい。先々週辺りに、ついに視力を失ってしまって。部屋からもあの桜は見えるんですけどね。でも、見えなくなってしまったから、それからは毎日のようにこの場所に」


「ご家族は」


「ご両親は他界していて一人きりです」


 老婆はぎゅっと目を瞑った。可哀想だと思ってしまうのは失礼にあたるだろうか。だけど、あまりにも不憫だろう。失うものが多すぎるだろう。


「視力も聴力も、ゆっくりゆっくりと失っていっていたようで、本人は見えなくなったことも聞こえなくなったことも気がついていないようなんです」


 看護師が車椅子を押して歩き出すと、老婆は立ち上がり女性のもとへ近寄った。


「少しいいかしら」


 老婆は車椅子の前で腰を下ろし、女性の両手を握った。すると、女性は少し驚いた顔を見せ老婆の方を向いた。今、初めて目と目が合った。


「あなたはひとりじゃないわ。先生や看護師さんたちがいるわ。あの桜もたくさんのお花も、みんなあなたを見てる。大丈夫、もう誰もあなたを置いて行かない。私は来月も来るから、またお話ししましょう」


 女性の手に、少しだけ力が入った。


 ***


 一ヶ月後。老婆は同じ時刻に再びベンチに腰掛けていた。正面の桜は花びらを完全に落として

 、青々と壮大に茂っている。


「……桜の時期は終わってしまったから、もう来ないのかしらね」


 帰ろうと立ち上がると、あの看護師が声を掛けてきた。


「こんにちは。お身体どうですか」


「ああ、こんにちは。あの方は最近お散歩はしていらっしゃらないのかしら」


 すると、看護師は少し俯いて表情が曇った。


「実はね、おととい亡くなったんです。静かに眠るようにゆっくりと」


 思わずベンチに倒れ込んだ。そんな、でもそうか。末期癌だった。でも、やはり悲しい。


「大丈夫ですか。落ち着いてくださいね。……あの、これ、おそらくあなたに」


 看護師が手渡して来たのは一枚の栞。通常のものより一回り大きく、桜の花が挟まれた栞だった。


「去年、あの木の下で拾ったんです。子どもが登ろうとして、この細い枝が折れてしまって。それを可哀想だからと栞を作っておられて」


 まだ細々とした枝だが、その先には数輪の花が咲いており、栞というよりは一枚のパネルのようだ。


「容体が急変する前に急にこれを出して、渡して欲しいと頼まれたんです。おそらく、あなたに渡したかったんだと思います」


 老婆はもう、彼女の事を可哀想な女性だなどと思うことはしなかった。強くて優しい心の女性だ。その栞はお薬手帳に挟み、自身のお守りとして持ち歩くことにした。

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