ファミリーコラプス

@andynori

ファミリーコラプス

 夏の終わりの週半ば、本日は水曜日。

 朝からイマイチだった体調は、四時間目の体育を境にいよいよ悪化し、ぼくは午後からの授業を休んで早退することになった。

 診断してくれた保健室の先生によれば、軽い夏バテだろうとのこと。

 担任の佐藤先生はぼくの両親に体調不良の息子を学校まで迎えにくるよう連絡を取ろとしたらしいが、結局、どちらにも連絡はつかなかったらしい。

 それをぼくに告げる佐藤先生は、表情にいかにも不承不承といった雰囲気を醸し出していた。

 年齢的に佐藤先生はうちの両親と同世代にあたり、彼女自身子供を持つ母親でもある。はっきりと言葉にこそしなかったが、同じ子育て中の親として、うちの両親に対し憤りのような感情を覚えたのだろう。たぶん。

 別にぼく自身は迎えにこられない両親に対し何ら含むところはないのだけれど、ふと垣間見えた佐藤先生の子供想いな一面は思わず「へえ」といった感じで好感が持てたので、余計なことは言わず曖昧な苦笑いで応えておいた。

 先生は「わたしが家まで送ろうか」と言ったり、タクシーを呼ぼうとしたり、まめまめしく世話を焼こうとしてくれたが、こちらとしては気恥ずかしさに加えて少しばかりの煩わしさもあって、それらはすべて丁重にお断りをさせてもらった。

 親の迎えというのも割とそうだが、女の先生に手ずから家まで送ってもらうなんて、中一男子にとってはなかなかにキツい羞恥プレイだ。

 そんな事態を甘んじて受け入れてしまえば、ぼくのいなくなったあとクラスでいったいどんな噂が立つものか……。少なくともひやかされるのは確定で、下手すれば明日からぼくはおかしなあだ名で呼ばれることになるだろう。考えるだけでも恐ろしい。

 思春期の少年少女の生態は大人が思う以上に残酷で、かつ非常にセンシティブなものなのだ。

 そんなわけで、昼休みいっぱいを保健室のベッドで休ませてもらい、その後ぼくは普段どおり徒歩にて帰途についた。

 最後まで心配してくれた佐藤先生には、家に着きしだいすぐ電話を入れる、ということでどうにか納得してもらった。

 なので寄り道はなしだ。

 実のところ体調はすでにだいぶよくなっていて、こうなってくると冒険心というか悪戯心というか……平日の、それも放課後前の午後を満喫してみたい、という邪な考えが頭をもたげてもくるのだけれど……。

 いや、大人しく帰ろう。

 そもそも別に外でしたいこともない。

 もとから不良というわけでもないぼくには、学校をた場合の具体的なプランなど何もなかった。たとえばの話、このあとゲームセンターなどに行ってみたとして、そこで本物の不良に絡まれでもしたら、それこそ目も当てられない。

 うん。

 ゲームなら家ですればいい。

 一瞬だけ繁華街方面へと傾いた気持ちをあっさりと翻し、ぼくはいつもの通学路を自宅方向へと歩きだした。

 すでに九月に入っているというのに日射しは厳しく、たちまち汗が吹き出てくる。シャツが背中に張りついて気持ちが悪い。アブラゼミとツクツクボウシの大合唱が喧しい……滅びてしまえ。

 むかつくくらい元気なセミたちを呪いつつ三十分ほど。ぼくは自宅にたどりつく。


「あれ?」


 玄関の鍵を開け、扉をくぐると、土間にはすでに二足の靴が並んでいた。一足はぼくのスニーカーよりも大きな革靴で、もう一足は逆にぼくのスニーカーよりも小さなローファーだ。


「父さんと……アイリ?」


 どうしたんだろう……ふたりも早退してきたんだろうか。

 母さんはわからないけど、だから、父さんは連絡がつかなかったのか……?

 ぼくは首を傾げた。

 いちおう紹介しておくと、アイリ……鈴木愛莉はぼく……鈴木修司の同い年の妹だ。同い年、といっても別にぼくたちは双子ではないし、両親がものすごく頑張った結果生まれた十月十日差の兄妹、というわけでもない。単に、うちの両親が子連れ再婚同士というだけの話だ。ちなみに、ぼくが父方で、アイリが母方である。ありふれているような、ありふれていないような、そんな話。

 まあ、連れ子同士が異性の同い年、というのはちょっとだけ特殊な例かもしれない。まるでラブコメだ。だからといって、ぼくたちは別にそういった関係ではないのだが。

 けれど。

 果たして周りからはどう見えるか、見られるかはわからない。特にぼくたちはいま思春期という多感なお年頃だ。同い年かつ血の繋がらない兄妹とひとつ屋根の下、なんてセンセーショナルな情報が知れ渡っては、周りからどういう扱いを受けるか……正直、予測がつかない。

 いや、ある程度はつく。絶対にろくなことにならない。

 ということでぼくとアイリの意見は一致し、今年の春休み、一緒に暮らすことになってから割とすぐ、ぼくたちは話し合いを持ち、互いの存在をそれぞれの知人友人に対し隠しとおす、という協定を結んだ。

 都合のいいことに、ぼくたちはそれぞれ別の中学に通うことになっていた。両親が再婚を決めた時点で、ぼくら子供たちはすでに進学先を決めてしまっていたからだ。

 そして新学期が始まると、ぼくたちは協定に則り周囲に対して自分たちの家庭の事情に関する一切を隠した。

 幸か不幸か、ぼくもアイリも友人を自宅に招くほど社交的ではなく、夏休みを越えて二学期に入ったいまでも情報漏れはない。

 ……って、それはいいか。

 後ろ手に扉を閉めたぼくは靴を脱ぎ、廊下を進む。


「ただいまー」


 リビングには誰もいなかった。

 ふと、微かに天井裏が軋んだ。


「二人とも二階かな」


 そう当たりをつけて、階段を上る。

 我が家の二階には部屋が四つあり、階段を上って右側最初の扉は両親の寝室。少し進んで左側ひとつめの扉がぼくの部屋。さらに進んで右側ふたつめの扉は現在空き部屋で、左側の一番奥……ぼくの部屋の隣がアイリの部屋だ。

 二階に上がると、そのアイリの部屋は扉が少し開いていて、中からはくぐもった音……苦しげな呻き声のようなものが漏れていた。

 アイリス……よっぽど具合が悪いのかな。

 妹とはいえ、いまだに距離感が掴めず、少しばかり壁を感じる関係だが、それでも彼女は大切な家族だ。家族が苦しんでいるなら放ってはおけない。

 自分自身、体調不良で早退してきたことなどすっかり棚に上げ、ぼくはアイリのことが心配になった。少しくらい兄貴面をしてみたい、そんな気持ちも少しはあった。


「おーいアイリ、だいじょう──」


 ぼくは開きかけだった扉の取手を引き、


「──ぶ? ………………??」


 そこにあった光景に言葉を失った。


「は………………ぁ? ………………えぁ?」


 ベッドの上で、全裸の男が半裸の女の子を組み敷いて、腰を振っていた。

 全裸の男が、女の子の白くて細い脚を押し広げ、鼻息も荒く腰を振っていた。

 女の子は片方の腕で目元を覆って苦しそうに呻き声を漏らしながら、もう片方の腕でちからなく男を押し退けようとしている。

 女の子の口には何か白い布のようなものが詰め込まれていた。彼女は明らかに泣いているが、あれのせいで叫び声すら上げられずにいるのだ。


「………………」


 ぼくは息を飲む。

 男はぼくの存在に気づかない。腰を振るのに夢中なのだろう。

 女の子もぼくの存在に気づかない。それどころではないのだろう。


「………………」


 ぼくは息を飲む。

 息を飲んで、必死に考えた。

 足りない頭を、普段よりも余計に回らない頭を、必死に回す。

 理解を、試みる。

 これは……なんだ、なにが起きている。

 わからない……わかりたくない。

 いや、わかる。わかれよ。わかるだろ。知識としては知っているじゃないか。まったくもって趣味ではなかったが「そういう」本に描かれた、あくまでも創作されたものであれば見たこともある。

 これは強姦……婦女暴行だ。

 いわゆる……レイプだ。

 なぜ?

 なぜいま、ぼくの目の前で、そんなおぞましき犯罪が行われている?

 ここはどこだ……? ぼくの家だ。

 違う。

 そうじゃない。

 そういうことじゃないだろ。

 ここは……この部屋は、いったい誰の部屋だ?

 あの女の子は誰だ?


「………………アイリ」


 アイリ。

 新しくできた、ぼくの妹。

 まだぎこちないけれど、最近は少しずつ家族っぽくなってきた。

 恥ずかしいから絶対に本人には言えないけれど、笑うとけっこうかわいくて……時々、見とれてしまう。

 そのアイリが、ぼくの大切な妹が……犯されている。

 いま……ぼくの……目の前で……犯されている。

 そんな悪夢としかいいようない光景を前に、どういうわけかぼくはひどく冷静だった。

 心が凍りついてしまったのかもしれない。

 冷静に……ただ冷静に……己のすべきことを考える。


「………………」


 ぼくはゆっくりと後退った。

 息を殺し、音を殺し、細心の注意を払って自室へと急ぐ。


「………………」


 欲したモノはすぐに見つかった。

 クローゼットの隅で埃を被っていた金属バット。そいつを握りしめ、ぼくはシオンの部屋に踏み込んだ。


「……っ」


 余計な声など立てず、音もなく近寄り、アイリに覆い被さってへこへこと腰を振っていた強姦魔の後頭部へと渾身の一撃を食らわせる。

 不意打ちは完璧に決まった。

 ゴッ、と硬い音がして、手のひらに嫌な感触が伝わった。

 ひと声も発さず、強姦魔は倒れた。

 でも、まだだ──


「よくもアイリを……っ」


 よくもってくれたな……っ!


「……ぉっ、ぉぉぉおおおあああぁぁぁあああ!!」


 殴った。

 無我夢中で。

 何度も何度も。

 とにかく殴った。

 獣のように咆哮し、殺すつもりで殴った。

 幾度か骨が砕けたような感触があった。

 ──知ったことか。

 死ね! 死ね! 死ね!

 ぼくは殴り続けた。

 悲しくて、悔しくて、恐ろしくて……泣きながら、ぼくは殴り続けた。


「…………………………」

「……はあっ、はあっ、はあっ」


 どれだけ殴っただろう。

 強姦魔は前のめりのままぴくりともしない。

 単に失神しているだけなのか……それとももう死んでいるのか。

 別にどちらでも……いや、違う。

 そんなことはいい。

 レイプ野郎の生死になど興味はない。

 あえて言うなら死んでくれてたほうがいいし、自分のやったことに対して後悔もない。


「どけっ」


 ぼくはアイリの上でぐったりとしたまま動かない強姦魔を引きずるようにしてベッドの上から床におろす。


「……っ」


 それからふと顔を上げ、ぼくは思わず喉を鳴らした。

 以前、成年誌のグラビアで見た大人のそれとは違う、アイリのいまだ未成熟な裸体がそこにあった。いまのぼくにとってもっとも身近な異性であり、血の繋がらない妹でもある、同い年の女の子の裸だ……。


「………………。!?」


 くそっ!

 ぼくはいま、なにを考えた?


「~~~っ」


 唇をぶちりと噛み切り、自分への罰とした。

 制服のシャツを脱いでそれをアイリの体にかけてやり、さらに口の中の詰め物をとる。


「……っ」


 広げてみるとそれはアイリ自身のパンツだった。ぼくは彼女の唾液で重くなったそれを投げ捨てる。

 くそったれ、ふざけやがって!

 それからぼくは、不用意に怖がらせないようおそるおそる彼女に声をかけた。


「アイリ……」

「………………」


 呼びかけるもアイリからの反応はなかった。

 それでもぼくは、できるだけゆっくりと……自分なりに可能な限り優しいと思える声で、彼女の名前を呼ぶ。


「アイリ……アイリ、ぼくだ……修司だ」

「っ……」


 今度はぼく自身も名乗る……反応があった。

 アイリがびくりと体を震わせた。

 明らかに怯えている。

 当然だ……彼女はさっき強姦されたばかりなのだ。


「遅くなってごめん……」


 謝ってどうするんだ。

 そう思ったけど、他に適切な言葉なんて浮かばなかった。

 こんなとき、どんな言葉をかければいいのかなんてぼくにはわからない。それでも、ぼくは少しでもアイリを安心させてやりたくて、言葉をつむぐ。


「……アイリ。間に合わなくてごめん……けど、もうだいじょうぶ……だいじょうぶだから。きみにひどいことをしたクソ野郎は、ぼくがやっつけた。ぜんぜん動かないし、たぶん……もう死んでる」

「っ……」


 また、びくりと震えるような反応があった。驚いたのか、さっきよりもずっと大きな反応だった。

 しまったな……怖がらせたかな……。

 男がすでに死んでいる……ぼくが殺したと言ったのはちょっと余計だったかもしれない。

 迂闊な発言を少しだけ後悔した。


「ごめん」


 ぼくはそれ以上はなにも言わず、じっと待ち続けた。

 十分くらい経っただろうか。いや、もしかしたら一分しか経ってないのかもしれないし、逆に一時間以上経ったのかもしれない。

 尋常ならざる状況がぼくの時間の感覚を狂わせていた。

 さらに時間が経った。

 アイリはいまだ動かない。

 そろそろ警察とかも呼ばないとだなあ……。

 あー、怪我人(たぶん死人だけど)がいる場合は救急車が先だっけ?

 いや、片方を呼べば両方くるっても聞いたような……。

 ぼくは天井を見上げ、そんな益体もないことを考えていた。

 それはある種現実逃避だった。

 たまたま早退してきたら妹が男に強姦されていて……ぼくがそいつをバットで殴り殺した……くそっ、なんだよこれ。

 思い返してみても現実味の欠片もない。


「………………う、じ……」

「……!」


 アイリに呼ばれたような気がして、ぼくは不意に我に返った。


「アイリ……?」


 おそるおそる目線を下げると、アイリの虚ろな瞳がこちらを見上げていた。


「……っ、アイリ……そのっ、えっと……だいじょうぶ……?」


 言ってから、ぼくはすぐに後悔した。


「ん……」


 アイリが唇の端を微かに持ち上げたからだ。

 ぎこちないそれは、確かに「笑み」のかたちをしていた。

 笑ってくれたんだ。

 ぼくのために。

 ぼくが無理に笑わせてしまったんだ。

 だいじょうぶじゃない相手に「だいじょうぶ?」って聞くなよ……。

 無神経すぎるだろ。

 ちくしょう最低だ……いっそ死にたい。


「て……」


 そう言って、アイリがのろのろと右手を伸ばしてきた。


「手?」

「ん……」


 一瞬、どうするべきか迷ったものの、ぼくは伸ばされたその手を同じく右手でそっと握った。アイリの手はぼくの手よりもぜんぜん小さくて、指が細い。それに、とても冷たかった。


「……ありがと」


 それっきりアイリは目蓋を閉じてしまったので、手持ち無沙汰になったぼくはどうしたものかとそわそわし、最終的に右手同士を繋いだまま彼女に背を向けるかたちでベッドのへりに腰を落ち着けた。

 なんとなく、床に転がしたままの強姦魔の後頭部を眺める。

 乱れた髪の毛が乾き始めた血で固まって無造作ヘアみたいになっている。

 そういえば、こいつはいったいどこの誰なんだろう。

 結局、ぼくはこいつの顔を一度も見ていない。

 徐々に冷静になるにつれ、ぼくは強姦魔の正体が気になりはじめた。

 それをたしかめるには現状完全な俯せになっているこいつを裏返してやる必要がある。

 けど──


「ま、いっか」


 たしかに気になるのことではあるが、それはいま、わざわざアイリの手を放してまですることでもないだろう。そんなことは警察に任せればいい。

 って、あーそうだった……。

 そういえば、警察呼ぶの、すっかり忘れてたな。

 どうしようか。


「……ねえ、アイリ」


 ぼくは努めて静かに語りかけ、アイリの右手を握る自分の右手にほんの少しだけちからを込めた。

 するとアイリも軽く握り返してきたので、それが彼女からの返事だと思って話を切りだした。


「ええと……そろそろ警察を呼ぼうと思うんだけ──」

「ダメっ!」

「──ど!?」


 アイリがぼくの言葉を遮り、突然大声を上げた。

 ぼくは思わず驚いて、腰をひねって彼女の顔を覗き込んだ。

 さっき見たときはなんの感情も映さない虚ろだった瞳が、いまははっきりと光を宿し、不安や焦燥……恐れ……さまざまな色で揺れている。

 なかでもとりわけ強く感じるのは……これは懇願?

 つまり、アイリは警察を呼ばれたくない?

 ……いや、そうか。

 そうだよな……。

 警察を呼べば警官がくる。たぶん、いや、きっと大勢でやってくる。彼らの大半は男だ。なかには婦警さんもいるだろうけどそれは間違いなく少数だ。

 あらかじめ事情を伝えれば婦警さん……というか、そういう部分をケアする専門家、みたいな人員を手配してくれるのかもしれないけど……。


「………………」


 事情を話す?

 誰が?

 ぼくが?

 ぼくが「妹が強姦されました」って伝えるのか?

 無理だ。

 そんなこと、ぼくは口にしたくない。

 なら被害に遭った本人が?

 アイリ自身が話すのか?

 あり得ない。

 そんなの……もっと無理だろ。

 嘘か本当か知らないが、警察という組織は事情聴取の際、事実を明らかにするためなら聴取を受ける被害者の心理になどろくすっぽ配慮してくれない、という話も聞いたことがある。

 そんな連中と傷ついたアイリを関わらせるなんて嫌だ。


「……ごめん、ぼくが浅はかだった。アイリが嫌なら警察は呼ばない」


 でも、そうすると……どうしよう。

 誰かに見つかる前に強姦魔の死体をどうにかして処理しないとならない。

 一旦、庭にでも埋めるか?

 それって、父さんや母さんにバレないか?

 ん……?

 あれ?

 そういえば──


「玄関に靴があったけど……父さんはいないのか?」


 ぼくがそう口にした途端、


「っ……」


 アイリが突然体を起こし、思いきりぼくに抱きついてきた。


「な……っ」

 

 予想だにしなかった事態に、ぼくは咄嗟にバンザイをしたまま固まって、口をぱくぱくとするしかなかった。文字通り、お手上げだ。

 ぼくがかけてあげたシャツなんて当然、はだけてしまっているし、アイリの体があちこち柔らかくて困る。

 心臓がヤバい。

 心臓がマッハだ。

 ぼくはなけなしの理性を総動員し、肌色をなるべく視界に入れないよう、目線を不自然なくらい上にやりながら尋ねた。


「あ、アイリ……急にどうしたの?」


 声が思いきり上擦ってしまったけれど……それは仕方がないと思う。


「……っ」


 アイリはなにも答えず、代わりにふるふると首を横に振った。


「……えーと、父さんたちにも知られたくないってこと……だよね?」


 だったら安心してほしい。

 この場に警察を呼ばず、アイリの身に起きたことをすべて「なかったこと」にするならば、ぼくも自分が犯した殺人という罪を完ぺきに隠蔽する必要がある。アイリ以外の誰にも知られるわけにはいかない。それは当然、ぼくたちの両親にもだ。


「ちがっ……」


 アイリは再び首を横に振った。


「え?」


 ここへきて、さすがにぼくのなかにも怪訝な思いが涌く。


「じゃあ……母さんにだけ、こっそり話す……とか?」


 母さんは……協力、してくれるかなあ……。


「………………ちがう……違うのっ、そうじゃない……そうじゃないの、修司……っ」

「シオン?」

「……ねえ、どうしよう……わたし、許せないって思った。絶対に……絶対に許せないって。でも……でもね、わたし……家族を守らなきゃって、だから我慢しなきゃって……でも、修司が……。~~~っ、わかんない……もう、どうしたらいいのかわかんないよ……っ。なにが正解だったの? そもそも正解なんてあったの……? ねえ修司……わたし、どうすればいいんだろう……? 教えてよ……っ、助けてよ修司!」

「アイリ……なにを……」


 アイリがなにを言っているのか、わからない。

 泣きじゃくり、ますます強く抱きついてくる彼女を、ぼくはただ呆然と抱きとめた。


「………………」


 なんだ?

 ぼくたちの間には、なにか決定的な行き違い……認識の齟齬がある。


「………………まさか」


 脳裏を不意に閃きが掠めた。

 それは悪夢のような想像だ。


「うそ、だろ……そういう、こと……なのか?」


 ……そんなことはあってはならない。

 でも。

 ぼくはアイリにひとこと「ごめん」と謝り、すがりつく彼女をそっと引き剥がした。

 ベッドから立ち上がり、床に突っ伏す強姦魔の傍らに立って、動かないその背中をじっと見下ろす。


「…………………………」


 ああ。

 ちくしょう。

 なんてこった。

 よく見ればどことなく見覚えのある背中じゃないか。

 いったい、どうしていままで気づかなかった。

 どうしてその可能性に至らなかった。

 ああ……そっか。

 ぼくは気づきたくなかったのか。

 きっと、無意識に考えないようにしていたんだ。

 そりゃそうだよな。

 だって、こんなのどうしろってんだ。

 気づいてたらぼくはどうしてたってんだよ。


「………………」


 ぼくが強姦魔の傍らに片ひざをついてしゃがみこむと、アイリがベッドから飛び降りてぼくの背中にしがみついてきた。


「だめ! だめだよ修司! あなたは見ちゃ、だめっ!」


 アイリのその言葉が、すべてを裏付けていた。


「………………ごめん……ごめんよ、アイリ……ごべんな゛ざい゛」


 涙で視界が滲む。堪えようとしても嗚咽が漏れる。ぼくには泣く資格なんてないのに。


「修司……っ、やめて! お願い……っ、いいの……っ、わたしはもういいから! だいじょうぶだから! このまま警察を呼ぼう? ねっ? だから見ないで」

「………………」


 ぼくは黙って首を横に振った。

 ああ……これ、さっきまでと逆だな。

 なんて思ったら、こんな状況なのに少しだけおかしかった。


「だめ……だめだよ……だめえーっ!」


 アイリの悲痛な制止を振り切り、ぼくは強姦魔の体をごろりと裏返した。


「父さん」


 想像したとおりの顔がそこにあった。

 よく見れば胸が微かに上下している。


「……っ、生きてる……どうして死んでないんだよ」


 どうして……どいしてだよ。


「………………殺さなきゃ」


 とどめを……この下衆野郎にとどめを刺さないと。


「修司!? なにするのっ、だめだよ!」


 金属バットに手を伸ばそうとすると、なぜかアイリが必死にしがみついてきて、ぼくを止めようとする。

 ……なんで?

 どうしてきみが止めるのさ。


「なにする、って……そんなの決まってるだろ? こいつを殺さないと。きみにあんなことをしといて、まだ生きてるなんて許せないよ。こういう人間のクズは、生かしといたらまたなにをするかわかったもんじゃないし。だから殺す。ここできっちり、ぼくが殺す」

「……っ、そのひとは修司のお父さんでしょ!?」

「そうだよ、だから息子のぼくが殺らないと。父親のくせに娘に手を出す恥知らずな畜生以下のクソ野郎は……最低最悪のレイプ野郎はぼくが殺さないといけないんだ。そうしなきゃ、ぼくはきみに……母さんだって顔向けできない」

「いいよ! わたしのことなんて……っ、そんなのもういいから! わたし、修司が人殺しになっちゃうほうがずっと嫌だよ! 自分の親を殺すなんて絶対だめだよ!」

「どうして? こいつはきみを傷つけたんだよ? 二度と消えない傷をつけたんだ……死んで詫びるべきだろ? まずは死んでから詫びるべきだろ? 死んだくらいじゃ許されないけど最低限死ななきゃいけないだろ? こいつが死ななきゃ……こいつを殺さなきゃ……ぼくだってきみに謝れないじゃないか。謝る資格すらないじゃないかっ!」

「修司……」

「アイリ……放してよ。頼むよ……頼むから、ぼくに責任を取らせてくれよ」

「いやだ! 絶対に放さない! 修司はなにも悪くない! だから責任とか、そんな理由で人殺しになんてならないで……っ、そんな悲しいこと言わないでよ……っ、わたし嫌だよ……お願い……っ、お願いだよぅ……う゛っ、ぅぅぅ……」

「アイリ……」


 ぼくにしがみついたままさめざめと泣きだしたアイリを見ているうちにぼくは全身からちからが抜けてしまい、その場で床に両膝をついた。

 ぼくは……ぼくたちは……これから先どうなってしまうんだろう。

 希望なんて見いだせっこない。

 ただただ漠然と絶望が押し寄せてくる。

 と、その時──


「ひっ」


 と、部屋の入口のほうから小さく息を飲むような悲鳴が聞こえた。

 ああ……どうしていまなんだ……。

 ぼくは億劫な気持ちで、のろのろと顔を上げた。


「母さん」


 開け放たれたままだった扉の向こうに、真っ青な顔をした母さんが立っていた。


「お母……さん」


 アイリも茫然と呟く。


「………………これは……なに。あなたたち……いったい、なにがあったの……?」


 母さんは低く押し殺したような声でぼくたちにそう尋ねた。

 爆発寸前の感情を、理性でもって無理矢理押さえ込んでいる。そんな声だった。

 母さんはこの場を見てもそんなことができるくらい理性的なひとだ。一緒に暮らすようになって半年ほどが経つが、ぼくは彼女が理不尽に怒るところや誰かに対し声を荒らげるところをまだ一度も見たことがない。

 そんな母さんの目に、いまこの状況は果たしてどう映ったのだろう。

 床に倒れている血塗れの全裸男、その傍に転がる血の付いた金属バット、床に跪いて自分を見上げる息子、その息子に裸でしがみついている娘……。


「え……そんな……うそでしょ……とおるさん、なの……?」


 室内をさまよっていた母さんの視線が床の一点で止まり、彼女は震える声でそういった。


「………………」


 ぼくはなにも言えなかった。


「………………」


 アイリもなにも言わなかった。

 ていうか……そっか。母さん、いま気づいたのか。

 まあ……父さんの顔はいま血塗れだもんな……全裸だし。


「ああ……なんてこと……」


 母さんはその場でよろよろとへたり込むと、床を這って血塗れの夫へとにじり寄った。


「修司くん……」


 母さんは変わり果てた夫の顔を悲しげに見つめながらぼくを呼んだ。


「あなたが……これをやったの?」

「………………うん」


 少しだけ躊躇いを覚えたが、ぼくは正直に答えた。自分のやったことに後悔はない。ぼくがやらなきゃいけなかった。


「……そう」


 母さんは「どうして?」とは言わなかった。

 きっと聡明な彼女のことだから、今日ここでなにが起こったのかをすでに粗方察しているのだろう。

 ただ、無意識にか……彼女の手は血塗れの夫の顔を所在なさげに撫でていた。


「お母さん……違うの、修司は──」

「いいの、だいじょうぶよ……愛莉。わたし、たぶん……ぜんぶわかってるわ」


 ぼくを庇おうとしたアイリの言葉を遮り、母さんは儚げに笑った。ぞっとするような笑みだった。


「母さん……?」

「ふたりとも……少しだけ待っててね」


 そういって、母さんは部屋を出ていく。

 見ていて不安になるふらふらと頼りない足取り……まるで幽鬼のような、異様な雰囲気だった。


「……お母さん?」


 アイリも母親の豹変に不安を覚えたのか、ぼくのTシャツの肩の辺りをきつく握ってきた。

 最初に階段を下る音がしてしばし……今度は階段を上る音がして、母さんは戻ってきた。


「お待たせ」


 その右手に──


「母さん……っ」

「お母さん……っ」


 ──包丁を握って。


「ふふ……」


 母さんが笑う。


「ごめんねえ……」


 ケタケタと嗤う。


「亨さあん……わたしが満足させてあげられなかったから、だからきっと、魔が差しちゃったのよねえ」


 ケタケタ、ケタケタ。

 嗤いながら彼女は横たわる父さんに近づき──


「でも……だからといって娘は……シオンに手を出すのはだめよねえ」


 ──その体に右手を振り下ろした。

 父さんの腹部に包丁が突き立ち、ぐしゅっ、と嫌な音がした。


「オイタをしたらお仕置きが必要でしょう……ふふっ、そんなの……子供だってわかるわよねえ」


 ケタケタ、ケタケタ。

 嗤いながら母さんは、父さんの体に包丁を振り下ろす。

 何度も、何度も、振り下ろす。


「ゴプッ」


 意識のない父さんが、排水口のサイホン現象のような音を鳴らして、口から血の固まりをこぼした。


「ふふふ……うふふ……」


 それでも母さんは包丁を振り下ろす。

 念入りに、絶対に、確実に殺す。

 そんな、凄まじい執念を感じさせる。


「………………」

「………………」


 ぼくもアイリも、なにも言えず、なにもできず、ただそれを眺めていた。

 恐ろしい。

 震えが止まらない。

 ぼくにはもうあのひとが……母さんが同じ人間だとは思えない。

 ついさっき、ぼくも同じようなことをしようとしていたはずなのに……なのに理解が追いつかない。

 これは狂気か……。

 きっと母さんは狂気に飲まれてしまったんだ。

 さっき、アイリが止めてくれなかったら……ぼくもこうなっていたのだろうか。


「修司……」


 震える体をアイリが抱きしめてくれた。彼女の体も震えていた。


「……止めないと」


 ぼくは胴体に巻きついたアイリの腕を握り、そう言った。

 めった刺しだ。父さんはもうとっくに死んでいるだろう。これ以上は無意味だ。これ以上は母さんが壊れてしまう。本当に壊れてしまう。

 なにより……この悪夢のような光景をもうこれ以上アイリに見せたくない。


「母さん」


 ぼくはなるべく普通に聞こえるように、声が震えてしまわないように、努めて何気なく呼びかけた。


「……あら、なあに? 修司くん」


 母さんが顔を上げた。

 うっすらと笑みを浮かべ……だけどその手は父さんに突き刺した包丁をぐりぐりと捏ねている。


「ねえ、母さん。父さんなら……もう死んでるよ」


 だからもうやめよう、目を見てそう訴えた。


「うーん、そうねえ……」


 正直、死ぬほど怖い。

 母さんは瞳孔が開ききってる。

 どう見ても正気じゃない。

 すでにひとり殺しているのだ。

 ぼくだって、次の瞬間刺されてもおかしくない。

 でも──


「母さん……」


 お願いだ……もうやめてくれ。

 ぼくはひたすら願った。

 そんななか──


「お母さん……っ」


 楔となったのはアイリの声だった。


「っ……」


 全身をびくりと震わせ、母さんが動きを止める。


「ふぅ……、ごめんなさい……。やり過ぎ……よね……」


 彼女はいくぶんか理性の戻った顔でそう言った。

 それから、ちからなく笑う。


「そう……ね。もう、充分よね……」

「お母さん……」


 そんな母親を見て、アイリがほっと息を吐く。

 ぼくも少しだけほっとして、体からちからを抜いた。

 ──やっと終わった。

 そんな風に思って、今後のこと……まずはこの場の後始末についてなど、諸々のことにぼんやりとした頭で思考を馳せた。

 結果として、その判断は間違っていた。

 ぼくはまだ、気を抜くべきじゃなかった。

 まだ、なにも終わってなどいなかったのだから。


「かひゅっ……」

「え」


 ぼうっとしていたぼくは、そんな耳慣れない音に釣られて横を見た。


「アイリ?」


 アイリが倒れていた。

 首から血を噴き出して……倒れていた。


「アイリ!? アイリ! わああああああっ!!」


 ぼくは慌ててアイリの頭部を抱きかかえ、手のひらで首の傷口を押さえた。


「……くそっ、止まらない……! なんで止まらないんだよ!? 止まれ! 止まれったら! ちくしょおっ、止まれよお!!」

「あぁ……かわいそうに……ぜんぶぜんぶわたしのせいね……ごめんなさいごめんなさいなさい……愛莉」


 虚ろな表情でぼくたちを見ながら、母さんがぶつぶつと呟いた。


「かあさんっ……なん、で……っ、どうしてアイリを!!」

「……だって。この子はもう汚されてしまったのでしょう? だったらこの先もう生きていたって辛いだけだわ……だからいっそ終わりにしたほうがいいの。死んでしまったほうが楽なのよ……こうすることがこの子のためなの。わかるでしょう?」

「あんた……っ、なに言ってんだよ! わかるかよ!! そんなわけ……そんなわけないだろ!?」

「いいえ……そういうものなのよ。ああ……あなたは男の子だからわからないのね」


 そういって母さんは本当に悲しそうな顔をする。

 なんだよそれ!


「ふざけるな! アイリが死にたいなんて言ったかよ!?」

「愛莉のために怒ってくれるのね……ありがとう。……もしかして、この子のこと好きだった?」

「……っ」

「あら……うふふ。それなら修司くんも一緒に逝きましょう? 愛莉が向こうで待ってるわ。怖がらなくてもだいじょうぶよ……わたしもすぐに逝くから。みんなで……そうね、亨さんも一緒に、みんなで向こうに逝ってやり直し──」


 ほとんど前触れもなく、


「──ましょうっ」


 ぼくに向かって母さんが包丁を振るう。


「!!」


 首もとを狙ったそれを、ぼくは反射的に身を引くことで咄嗟に躱していた。


「あらあ? どうして避けるの?」


 避けたんじゃない、たまたま……当たらなかっただけだ。


「母さん、やめてよ!」

「どうして?」


 母さんが心底不思議そうに首を傾げる。


「いまならまだ間に合うよ! 父さんは……この男は死んで当たり前だけど……アイリは……アイリはそうじゃないだろ!? 早く病院に連れてかないと……! とにかく、救急車を呼ぼう!」

「……呼んだって仕方がないわ」

「どうして!」

「だって……この子はもう死んでしまっているもの」

「なっ……、死んでない! アイリはまだ助かる!」

「いいえ、死んでいるわ。修司くんも知っているでしょう? わたし、仕事柄死体は見慣れてるもの。そのわたしから見て、愛莉はもう間違いなく死んでいるわ」

「嘘だ!!」

「そう……信じられないなら、たしかめてみるといいわ。ほら、教えてあげる。……脈はここよ」


 そういって母さんはぼくの手をとり、自分の首の付け根を触らせた。

 指先にとくとくと母さんの脈を感じる。


「わかった? なら……次はこの子の脈をとってみなさい」

「…………。………………っ」


 なにも感じない。それに……もう冷たくなり始めている。


「そんな顔をしないで。だいじょうぶ、向こうでまた会えるわ」


 母さんが慰めるように言った。


「そろそろいいかしら? 愛莉、きっと寂しがってるわ。はやく逝きましょう?」

「………………ぇ……せ」

「え?」

「かえせ! アイリを返せ! ちくしょうっ、返せよ!!」


 ぼくは母さんの襟元を掴み激しく揺さぶった。


「きゃっ、ちょ……っ、修司くん!? どうしたの、落ち着いてっ」

「うるさい、黙れ! なんで! どうしてアイリを殺した! あんたの娘だろ!? なんなんだよ! ふざけんなよ!!」

「あぎゃっ!?」


 ぼくは母さんを殴った、顔の中心を、思いきり、強かに殴りつけた。

 本気でひとを殴ったのはこれが生まれてはじめてだ。

 母さんが踏まれた猫みたいな声を上げて吹き飛ぶ。

 彼女の持っていた包丁が、ごとり、と床に転がった。


「……」


 ぼくはそれを一瞥し、傍らにあった金属バットを掴んだ。


「ぁ……が……しゅう、じ……くん」


 母さんが半身を起こし、鼻血を垂らしながらぼくを見た。


「………………」

「………………」


 ぼくは黙ったまま、母さんの前に立つ。

 見下ろし、ありったけの憎悪を込めて睨みつける。

 そんなぼくを彼女はただじっと静かに見上げていた。

 

「…………そう。愛莉のこと、そんなに大事に思ってくれていたのね」

「………………」


 ぼくはバットを上段に振りかぶる。


「……ごめんなさい、愛莉のこと……わたしが間違っていたわ」

「っ………………ぅぅぅ、わあああぁぁぁあああぁあああ!!」

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