春爛漫、終わりの日まで日記を書く

冬野瞠

Tokyo, 20XX

「ハルカ~、何してるの?」


 高校時代からの親友であるマヤが訊いてきた。ほろ酔い気分を反映した、やや間延びしていた声で。


「ん、ちょっと、日記書いてて」

「こんな場所でも書くんだ」


 マヤが可笑おかしそうにからからと笑い声を上げる。

 笑われるのも仕方ない。ここは屋形船の上なのだから。

 麗らかな春爛漫の宵の口、東京の夜景を見上げつつ隅田川を下る船の中は、しかし閑散として静かだ。桜は満開だしライトアップもされているけれど、まあこのご時世、屋形船に乗ってまで花見をしたい人はほとんどいないだろう。


 なにせ、あとひと月で地球に直径百キロメートル近い隕石が衝突するのだから。


 予測が出されたのは三年ほど前だ。その間に人類は、隕石の軌道をどうにか逸らせないか、火星移住計画を前倒しできないか、地下に全人口を避難させるシェルターを作れないか、と模索してきた。しかし絶望的に時間が足りず、どのプランも上手くいかなかった。今ではもう、諦めムードが地球を覆っている。隕石衝突、みんなで滅びれば怖くない、ってことだ。

 地球存亡の危機だというのに、その上こんな場所で、私はそれでも長年書き続けてきた日記に書き込み続けている。

 自分が見たものを。五感で感じたことを。いま、心に浮かんだ気持ちを。

 マヤはこちらの癖を知っているから、突然大きい日記帳(五年ぶん書けるやつだ)を私がいそいそと鞄から取り出しても大体スルーしてくれる。

 今回はあまりに場違いだったから、尋ねずにいられなかったのだろう。


「何て書いてたの?」

「あー、こんな時でも桜は咲くんだなあ、と思って」

「確かに桜、綺麗だよねえ。もう二度と見れないのが信じらんないくらい、今年も当たり前のように咲いたね」


 私はうんうんと頷く。

 避けられないXデーが迫っていても社会は動くし、破滅の気配を感じながらも人々は会社にも学校にも通い続けるし、電車は何でもない日常を延長するように旅客を運び続ける。そして、季節が巡れば花も咲く。

 それ以外に日々を過ごす方法を知らないから。

 もしかしたら直前で奇跡が起きて、衝突が回避されるかもしれないから。

 私とマヤは隕石がやってくる前に、やってみたいこと全部にチャレンジすると決めた。バンジージャンプにも挑戦したし、ダイビングもやったし、好きな作家の足跡そくせき巡りにも行った。全部、心の底から楽しい思い出だ。

 どこにも私が日記帳を持っていくので、以前マヤに訊かれたことがある。


「ハルカはどうしてずっと日記書いてるの? 隕石が衝突したら何もかも無くなっちゃうのに」


 それは決して馬鹿にしてる風ではなく、純粋で素朴な気持ちから生まれた疑問に聞こえた。

 私がどんな時でも日記帳を持ち歩いているのには訳がある。

 日記を書くといいですよ――。

 そう、大学時代の恩師に勧められたからだ。学部時代の指導教官はその時、彼女の思い出も同時に語ってくれた。

 恩師は子供の頃からずっと日記を書き続けていたそうなのだが、今から40年以上前に大きな災害が起きて、被災地に住んでいた恩師は打ちのめされ、日記に何も書けなくなってしまったという。その年の日記帳は3月以降、全て白紙なのだそうだ。

 彼女は語る。


「白紙のページを見るとね、心がぽっかり抜け落ちたみたいに感じて悲しくなるんです。当時はきっと何も手につかなかったに違いないけれど、やっぱり何かしら書いておけば、その時の自分に後から寄り添えたのに、って。現実が辛いからこそ、空想フィクションに逃げてでも何か書いた方が良かったなと思います。いまの、未来の自分のために」


 書くことは祈りです、と彼女は静かな声で私に言った。たとえ読む人が自分しかいなくても、いつか自分さえいなくなるのだとしても、未来を思い、"いま"の自分を書き留めておくことには意味があるのだと。

 簡単には消えない、紙という媒体で。

 ひと月後に隕石が接近するのが確定していても、衝突する場所まではまだ分からない。環境が激変しても生き残る人類がいるかもしれないし、その中に私が含まれる可能性だってある。自分が死んだとしても日記帳は残って、誰かが私の文章を読むかもしれない。恐竜が絶滅した時にだって、生物の1/4は生き残ったのだ。

 希望と呼ぶには淡すぎる光だけど、隕石衝突なんかで絶望するにはまだ早い。

 ビル群を見上げ、ビールのジョッキをくいっと飲み干したマヤが私を見る。


「私も今からでも日記書こうかなあ。あ、遅すぎ?」

「そんなことないよ。三日坊主もあと十回はできるから、時間は充分ある」

「なんで三日坊主前提? ていうか、言葉が軽すぎじゃない?」

「まあまあ、私たちが何をやっても隕石は来るから」

「それはそうだねえ」

「ねえ」


 滅びの予感を肌に感じつつも私たちは笑い合う。

 群青色の夜の底、美しく輝く東京をじっくり眺めた。

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