ミセス・ダイアモンドの日記は誰にも読まれない

鳥辺野九

ミセス・ダイアモンドの日記


 小さな山をつくるようにベッドが膨らんでいる。


「隠れたって無駄ですよ」


 部屋の外からハスキーな声。コツコツと床板を叩く堅い靴底。廊下の窓ガラスをかすかに揺らす。


 毛布を頭からかぶり、ちらり、隙間を作って音の主を探る。毛布に隠れる少女はこの音が待ち遠しかった。


「アレキサンドライト。探索に出る時間です」


 白樺の扉を軋ませて濃紺のナースコートが部屋に入ってくる。毛布の隙間からはその顔は窺えない。ミセス・ダイアモンドはどんな表情をしている?


「アレキサンドライト。夢日記の準備は出来ています」


 ナースコートがさらりと衣擦れの音を残してベッドサイドに立つ。サイドテーブルに一冊の日記帳を置き、さて、どうしたものかと静かに佇む。


 少しの沈黙を置き、ベッドの膨らみから返事がないのを確認してからミセス・ダイアモンドはベッドの毛布をそうっとめくった。


 そこに隠れていたのは大きなクマのぬいぐるみ。うつ伏せに寝かせられ、さらに枕で山を高くしてあった。


「あらあら、アレキサンドライトがクマさんになっちゃった」


 ミセス・ダイアモンドがおどけて見せる。細いスクエアフレームの眼鏡から横目に、不自然に開いたクローゼットの中の毛布の塊を観察しながら。


「これでは今日の散策は中止ですね」


 ベッドにぐったりと横たわるクマのぬいぐるみを抱き上げ、よしよしと毛羽だった背中をさすりながら窓辺に立つ。


 窓の外。荒涼とした住宅地にやはり人影はなく、無音の風が枯れ葉を舞い散らかせている。やれやれ、今日の歩道の掃除は厄介そうだ。


 ミセス・ダイアモンドはわざとクローゼットに背中を見せて隙を作ってやった。クマのぬいぐるみをベッドに寝かせ、少しもたついて、ゆっくりと毛布を頭までかぶせてあげる。


 もしも自分に子どもがいたら。そう思わずにはいられない。これくらいの大きさの子どもってこんなに素直に眠ってくれるだろうか。こちらの思い通りに動いてくれるだろうか。さあ、クローゼットから早く出てきなさいな。


「ワッ!」


 ミセス・ダイアモンドの思惑通り、クローゼットの毛布を跳ね除けて小さくて白い影が飛び出した。甲高くて張りのある幼い声を弾ませて、ミセス・ダイアモンドのナースコートの脚に抱きつく。


 長い金髪をくしゃくしゃにウェーブさせた白パジャマ姿のアレキサンドライト。ミセス・ダイアモンドがリアクションを示すよりも早く、濃紺のナースコートに溶け込むようにすり抜けてベッドに潜り込んだ。


「驚いた? 驚いたでしょ?」


「ええ。びっくりしました。それはもう」


 こんな嬉しそうな無邪気さを見せ付けられては叱るに叱れない。ミセス・ダイアモンドの嘘に躊躇ためらいはなかった。


 少しだけ目を見開いて見せる。アレキサンドライトの天使のような笑顔がますます眩しくなった。飽きることなく繰り返されるいつものやり取り。アレキサンドライトの時間はすでに流れを止めている。


「無事アレキサンドライトも見つかったことですし、探索に行きましょうか」


「はーい」


 アレキサンドライトの遊びに付き合ってやれば、この子は従順に仕事をこなしてくれる。時の流れの判断が壊れたままだが、もう修理しようがない。このまま仕事してもらうしかない。


「ねえ、ミセス・ダイアモンド」


「何ですか、アレキサンドライト」


 風が吹く。窓ガラスが揺れる。ミセス・ダイアモンドは窓を見て、アレキサンドライトはミセス・ダイアモンドを見つめたまま。


「アンドロイドも夢を見れるのかな」


 アレキサンドライトは枕に頭を沈め、クマのぬいぐるみに添い寝させるように毛布の中へ引き摺り込んだ。そしてアレキサンドライトの視線はサイドテーブルの日記帳へ。


 ミセス・ダイアモンドはベッドサイドの椅子に座り、日記帳を手に取って柔らかい膝の上に置いた。


「ええ。見れますとも。楽しい夢と、寂しい夢を」


 ミセス・ダイアモンドは再び嘘をいた。


「うん。じゃあ、夢を見てくる。ちゃんと記録しといてね」


「はい。準備万端です」


 膝の上の日記帳とペンを見せる。いつでも夢日記を記す準備はできている。アンドロイドが夢を見ることができるのなら。


 アレキサンドライトはクマのぬいぐるみと腕を組むようにして瞼を閉ざした。


 窓の外。モーターの電磁的な駆動音が響く。アレキサンドライトの人工知能が探査駆動車にアップロードされ、無人の荒地へと向かって走り出した音だ。


 少女の形をしたアレキサンドライトはあたかも眠っているかのように目を閉じている。八輪駆動探査機械のアレキサンドライトはモーター音も高らかに人工衛星とのオンライン通信を始める。行方不明の人類を探す夢に出た。


 ミセス・ダイアモンドはアレキサンドライトが走り去るのを窓越しに見送り、日記の表紙をめくった。


 先の戦争で行方不明になった人間を探す夢。それがアレキサンドライトに与えられたミッションだった。


 衛星とリンクして人間が文明的活動をする際に発する機械電磁波を広域に探査する。もしもまだ人間が生き残っていたならば、電磁波をキャッチすることができたならば、少女の形をした受信機がその座標を言葉にする。


 ミセス・ダイアモンドはそれを日記帳に記録して、人類救済センターへ連絡する。それだけのことだ。人類を救うにはそれしか方法が残されていなかった。


 人類救済センターにも人間はもういない。アンドロイドとロボットしか残されていない。人間はもう夢にも出て来なかった。


 アレキサンドライトは今日も夢を見る。どこかに人間が生き残っていないか。


「アンドロイドは夢を見ないものなのです」


 ミセス・ダイアモンドが眠るアレキサンドライトに優しく告げた。


 アレキサンドライトの時間認識回路は論理エラーを起こして機能しなくなっていた。そしてそれを修理できる人間もすでにいない。72時間の探査任務を終えて少女の形に戻る頃には、ミセス・ダイアモンドと遊ぶ少女の記憶の痕跡しか残っていない。


 幾度、この意味の刻まれないやり取りを繰り返してきたことか。


 ミセス・ダイアモンドはアレキサンドライトが戻るまでスリープモードに移行しようとした。


 その前に、ふと思う。


 もし、自分がこの子の母になれば。あるいは違う夢を見ることができる。そう。違う時間が流れるのかもしれない。


 人間の真似事ばかりしたがるアンドロイドと、人間に似せて作られたロボットと、今までにないサイクルの時間を過ごせるだろう。


 そして自分も違う夢の中に落ちる。


 人間がいなくなった世界で、人間を探す夢を見ないように。


 ミセス・ダイアモンドは日記のページを送る。そこには一文字も記されていない白紙のページが続いていた。


 そしてスリープモードへ。


 ミセス・ダイアモンドはアレキサンドライトの母になる夢を見ていた。

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