父の日記

箕田 はる

父の日記


 

 父が余命僅かだと聞き、俺は急いで地元へと戻った。

 入院先である総合病院に行き、心臓が口から飛び出しそうな程の緊張を持って、病室の扉を開く。

 管に繋がれ、目を閉じた青ざめる父の姿を想像していただけに、体を起こして新聞を見ていた父の姿を見た時は正直拍子抜けした。

「なんだ、来てくれたのか」

 父が俺を見て、驚いたような顔をする。口調もはっきりとしているし、病人には見えなかった。

 なんだはこっちだ、と思ったものの、病院という場所を考えて言葉を慎む。

「大丈夫なのか?」

 代わりの言葉を投げかけると、父は「ダメかもしれん」とあっさりと返してきた。

「もって一ヶ月だと言われたんだ」

 父の口からはっきりと突きつけられ、俺はショックはあったものの、父が平然としている事の方に混乱していた。

 昔から楽観的な人だったけど、まさか余命を宣告されても変わらないとは――

「最後にしたい事とかないの?」

 俺は近くにあった椅子に腰を下ろしながら聞く。近くで見た父は、時の流れを感じさせるような老いがあった。顔の皺はもちろん、新聞を持つ手も以前より力強さを失って見える。

 定年したと聞いて、お祝いを送ったのはつい一昨年のことだったはずだ。まだ六十代という若さということが、とても悔やまれる。やりたい事もいっぱいあったはずだ。

「ないな」

 俺の無念とは裏腹に、父はあっけからんと言う。

「お前と母さんを食わしてこれただけ、充分に人生の役目は果たせただろ」

 父がニヤリと笑う。俺は奥歯を噛んだ。そんなことを聞きたいんじゃない。父自身が本当に望むことを最後に、叶えてあげたかったのだから。

「会いたい人とか……いない?」

 俺は探るように父を見た。笑うのをやめた父は、ふと考えるようにして黙り込む。

 俺は知っていた。父に好きな女性がいる事を。もちろん母じゃない。

 そう思ったきっかけは、父の日記を盗み見た時のことだった。

 毎晩のように自室で書き物をしている父の背を見ていて、何を書いているのかずっと気になっていたのだ。

 父が仕事に行っている間に、俺はこっそり引き出しからそれを取り出した。

 ただの大学ノートだったが、何度も捲られたせいで歪んでいる。中には少し汚い父の字で日々の記録が綴られていた。

 そのほとんどが、仕事の愚痴だったが、たまに俺の名前が出たりするとドキッとした。

 当たり障りない感じで書かれていることにホッとする一方で、あまり関心がなかったんじゃないのかと寂しい気持ちにもなる。

 だけど案外、父の職場での苦労や喜び、家族との思い出も書かれていて、結局はおおよそ一ヶ月分の記録は読んだように思う。

 だけどほとんどが平凡な日常で、さすがに毎日読むまでの魅力はなかった。

 それから三年程経ち、俺が高校を卒業する頃。久々に父の日記を思い出して、再び机を漁った。

 さすがにあの時の大学ノートではなく、また別のノートに変わっていた。

 だけど中身はどうせ、平凡な父の記録だろうと、その時の俺は気楽に構えていた。

 案の定というべきか、父の日記の大半は仕事と家族のことだった。自分でいうのもなんだが、別に非行に走るようなタイプでもないし、可もなく不可もなくな俺だからこそ、両親は何も憂いることはなかったはずだ。

 父も俺のことを別に問題視している様子もなく、母に関しても特に愚痴や不満を漏らしてはいない。

 良いふうに言えば平和的。悪く言えば平凡でつまらない人生。

 他人の人生とはいえ、なんだか父を哀れに思って俺は同情していた。

 だけど、数ページ遡っていくうちに、雲行きが怪しくなっていった。

 所々で「彼女」という表記が出ていたのだ。 何処かに行っている様子もなければ、会話の描写があるわけじゃない。ただ、「彼女のことを考えると胸が苦しくなる」だとか、「まだあの場所にいるのだろうか」といった、その女性らしき人物のことを考えている事が暗喩に書かれていたのだ。

 俺は心臓をバクバクさせながら、最初のページに戻す。まさかあの父が、と俺は信じられないよう気持ちで、まるで証拠を見つけようと躍起になる奥さんのように、夢中でノートに目を走らせていた。

 まだ浮気だと決まったわけじゃないけれど、不安が胸を覆い尽くす。それと同時に父親としてみていた人が、やっぱり男だったのだと実感し、何だか複雑な気持ちになる。

 一冊のノートでは、たかが数週間前にしか遡れず、結局はその女性との出会いは書かれておらず、時間もなかったことから諦めざるを得なかった。

 その日は父と顔を合わせるのが気まずく、俺は自室に引きこもっていた。

 過去の日記は隠しているのか、捨ててしまっているのか、結局は見つからず。大学に入る頃には上京したこともあって、父と少しだけ壁が生まれていた。

 そして、真実を聞けないまま、胸に疑念を抱えて今日まで来てしまっている。

 俺の複雑な胸中を知らずに、父は首を傾げて「会いたい人? いないなぁ」と言った。

「こんな姿見ても、みんな困るだけだろ。俺だって、弱っている姿を見られたくないしな」

 父はそう言って苦笑する。俺は仕方なしに「でも、好きな人の一人や二人、いたんじゃないの?」と食らいつく。

「お前は何を言ってるんだ?」

 父が首をかしげる。ここまで言ってもピンとこない父に、俺は覚悟を決める。

 もうここまで来たら、全てを白日の下に晒したかった。

「父さんに好きな人がいること、俺知ってるんだ」

「好きな人?」

「昔、日記に書いてたでしょ? 気になる女の人がいるみたいなこと」

 俺は正直に、盗み見たことを告白する。怒られるかと思っていたけれど、「なんだ、見たのか」とあっさり返された。

「俺が見たのは十年以上前ぐらいだから、今も交流あるか知らないけれど」

「……十年前」

 父は眉間に皺を寄せ、思い出そうとしているようだった。忘れているとしたら、何だかその女性が可哀想にも思える。あれだけ日記には、彼女を想う気持ちが書かれていたのだから。

「彼女を想うと胸が痛むとか、あの場所にまだいるのかとか、相当思い悩んでたみたいじゃん」

 俺は思わず揶揄していた。そこまで言って父はやっと、ハッとした顔で俺を見た。

「ああ、彼女のことか」

 思い出した途端、父の顔が一気に曇る。

「彼女は、お前が思っているような関係じゃない」

 父が否定し、それから「なんせ、彼女は死んでるからな」と目を伏せた。

「死んでる? 亡くなったってこと?」

「正確には、俺と出会った時から死んでいたんだ」

 俺は変な顔をしていたと思う。父の言っている意味が、理解できなかったからだ。

「彼女とは橋で出会ったんだ。ほら、昔よく行ってただろ」

 そう言って父が、観光地の名前を口にする。たしかに、そこには有名な大きな橋が架かっていた。

「俺はそこが好きで、何度も写真を撮りに行っていたんだ。お前達は怖いって言って、川にいただろ?」

 そういえばそんなこともあった気がする。随分と昔のことで、薄らと記憶に残っている程度だったが――

「そこに女性がいたんだ。ずっと橋の下を覗き込んでるもんだから、何か落としたのかと思って声をかけたんだ。そしたら、その女性はそのまま、飛び降りた」

 まさかの展開に俺はゾッとした。だけど、淡々と語る父の顔には恐怖の色はない。

「慌てて下を見たけど、落ちた様子もなくて……そしたら、さっき落ちたはずのその女性が隣にいたんだ」

「ちょっと待って、怖いんだけど」

 まさかの怪談話に、俺は周囲を見渡した。病院という場所で、そんな話は聞きたくはない。それなのに父は続ける。

「で、俺の方を見て、死ねないのって言って泣いてたんだ。俺は可哀想になって、大丈夫、もう死んでるから、そんな事する必要ないって言ってあげたんだ」

「えっ?」

「それでも彼女は、俺の説得も聞き入れてくれなくてな。だけど、お前達が下から俺を呼ぶから、渋々彼女の元を離れたんだ。だから時々、彼女の事を思い出して、日記に綴っていたのかもしれない」

 父は懐かしそうな目をしていた。

 浮気の方がマシだったかもしれない。

 俺はそう思いながら、背筋を震わせたのだった。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

父の日記 箕田 はる @mita_haru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ