交換日記の続け方

水城しほ

交換日記の続け方

 関東の大学へ進学することになり、引越しの為の荷造りをしていたら、押入れの奥から一冊のノートが出てきた。

 子供の頃に買っていた漫画雑誌の付録で、交換日記用のものだ。表紙のキャラクターは私が好きだった漫画のヒロインで、アニメ化もされて当時は大人気だった。

 懐かしいな、とめくってみる。最初のページにはカラフルなペンで大きく「アカリとマコトの交換日記①」と書かれていた。私がマコトに持ちかけて始めた交換日記だ。

 中に綴られた字は歪んで汚くて、ひらがなが多くて、鉛筆書きだからところどころ真っ黒だ。その拙い字で必死になって、マコトの好きな人の情報を書き散らかしていた。今思えばプライバシーの侵害もいいところだけど、チエちゃんの情報を書いてあげると、マコトはとても喜んでくれたのだ。

 その為に私は、チエちゃんとクラスで一番仲良くなった。

 チエちゃんは可愛くて、いつもお洒落な服を着ていた。まるで男子みたいな格好の私じゃ、チエちゃんには絶対に勝てないな――ハッキリとそう思ったことを、今も鮮明に覚えている。


 マコトと私は家が隣で、子供部屋も隣り合わせで、いつだって窓を開ければ手が届く場所にいた。その代わり、というわけではないけれど、学校では距離を置いていた。マコトはおとなしいタイプだったし、チエちゃんのことが好きだったので、私との仲を誤解されることを避けたがった。もちろん交換日記もおおっぴらには渡せないから、学校から帰った後で窓越しに渡していた。結局はこの一冊だけだったけれど。

 中学生になっても、窓越しにたくさんの話をした。マコトの好きな人の話ばかりだったけど、私はそれでも構わなかった。マコトが誰を好きであろうと、昼夜を問わず会って話せる自分は「特別」だったから――ずっとそんな関係が続くと、私は信じて疑わなかった。

 だけど、別々の高校に入学した途端、マコトに見知らぬ彼女ができた。

 私はマコトと距離を置いた。窓は時折、主に夜中にノックされたけれど、それに応えることはできなかった。


 マコトと繋がっていたはずの窓は、この三年間、カーテンを閉めっぱなしにしている。彼女とセックスしているところを、偶然見てしまったからだ。

 高校に入って最初の大型連休、初日の昼頃に起きてカーテンを開けたら、窓の向こうでマコトがもぞもぞと動いていた。何やってんだと思ってよく見れば、爪先にショーツを引っ掛けた女の子の脚の間で、必死に腰を振っていた。

 マコトに彼女ができたことを知ったのは、その時だ。

 もちろんショックは受けたけど、マコトのセックスに興味もあって、ずっと窓の向こう側を眺めていた。汗だくで真剣な顔をしているマコトが、ものすごく色っぽく見えて――自分が犯されているような錯覚さえ覚えて、荒くなる呼吸を抑えられないまま、最後まで目が離せなかった。

 ああ、そういえば最後に言葉を交わしたのは、確かその時じゃなかったか。彼女が帰った後に窓がノックされて、開けた途端に「見てんなよ」って笑われたんだ。

 あのとき私は、どんな言葉を返したっけ。

 見せんなよ、って笑ったような気がする。

 だから、マコトは平気だと思ったんだろう。カーテンはいつも開いていたし、時には窓を開けたままなこともあった。私はカーテンの隙間から、何度もマコトのセックスを眺めて、その相手が自分であるという妄想に没頭した。


 交換日記の中のマコトは、そんなただれた雰囲気もなく、小学生らしいピュアな恋愛をしていた。相手は私じゃなくてチエちゃんだけど。

 九割方マコトの恋愛相談で埋まっていた日記は、最終ページだけが白紙だった。どうやら私が一方的に日記を止めたらしい。止めた理由を思い出せず、ひとつ前のページをめくると、マコトの字で「チエにフラれた」と書かれていた。

 そうだ、ずっとチエちゃんの話ばかりを書いていた私は、いざチエちゃんの話題がタブーになると、何を書けばいいのかわからなかったのだ。自分の気持ちを書けば良かったのに――本当に、馬鹿な子だったなぁ、私。

 私は荷造りに使っていた油性ペンを掴み、最終ページに大きく殴り書きをした。せっかく最終ページまで続いたんだから、きちんと終わらせてしまおう。


『見せつけるのは、もうやめてね!』


 この言葉をぶつけてやりたいと、ずっと前から思っていた。ちょっとカーテンを閉めればいいだけなのに、わざわざカーテン全開とか、見せつけてるとしか思えない。あれか、マウントか。お前はモテないだろうが俺はモテるぞ、みたいな話だったのか。確かに私は彼氏なんかいたことがないし、もちろんセックスの経験もないけれど――言い寄られた事が、全くないというわけじゃない。私はずっとマコトを好きだったから、丁重にお断りしただけなんだ。

 そんな私の事情なんて、マコトは考えたこともないんだろう。そう思うと腹が立ってきて、きっちりと物申してやりたい気分になった。

 三年ぶりにカーテンを全開にして、スパンと勢いよく窓も開け、乱れ打ちのように向こうの窓をノックしてやった。


「わ、ちょ、待てって!」


 マコトの慌てる声が聞こえて、しばらくするとカーテンも窓も全開になった。

 久々に間近で見たマコトは、髪が洒落た茶髪になっている。高校を卒業してイキりたいんだろう。似合ってねーよ、という言葉は飲み込んでやった。


「よう、三年ぶりじゃん」


 マコトは余裕ぶってる割に、顔も耳も真っ赤だった。これは何かよからぬことをしていたに違いない。部屋の中まで覗いてみたけど、彼女が来ている気配はなかった。


「今日は連れ込んでないんですね」

「そんなに毎日連れ込まないよ、アカリは俺を何だと思ってんの」

「健全な青少年」

「それ、微塵も思ってないよな。彼女は関西の大学に決まったから、引越しだなんだで忙しいんだよ」

「あ、つまり振られた?」

「まだ振られてないって!」


 昔と変わらない口調で、ぎゃはは、と下品に笑いあう。マコトは私に「女らしさ」なんか求めてない。交換日記のノートだって、最初はさんざんからかわれたんだ――だから、このノートは今日で御役御免だ。

 ほれ、と勢い良く、マコトへ交換日記を投げつけた。


「おっ懐かしいな、やってたなぁこんなの」

「最後こっちで止めてたから、書いといた」

「マジで」

「最終ページだから、これで終わりね。それじゃ」


 何かを言いかけたマコトを無視して、窓もカーテンもきっちり閉めた。

 繰り返し窓がノックされたけど、私はそれを無視し続けた。


 数日後、運送屋のトラックが来ている時に、家にマコトが押しかけてきた。しかも彼女が一緒だった。自分の荷物を預けている真っ只中、逃げ場がなくてうろたえる私に、マコトは交換日記を突き返してきた。


「まだ書く場所あったから、書いといた」


 それだけを言い残し、マコトは彼女と一緒に帰っていった。彼女が甘ったるい声で「今のノート何よ~?」と絡んでいるのが聞こえて、中身を見せていないらしいことに安堵する。

 交換日記は秘密の塊なのだ、第三者には読まれたくない。

 今の私たちにとって、無意味なものであったとしても。

 

 運送屋に荷物を預け終え、疲れ果てて茶の間に転がっていると、母親がお茶を淹れてくれた。私は明朝発つことになっているので、今日が実家で過ごす最後の夜だ。

 母親はテーブルの上の交換日記を見て、あんたこれ好きだったわね、と表紙のキャラクターに触れた。


「そう言えば、さっきマコトくん来てたわね。これ、マコトくんが置いていったの?」

「あー、うん。餞別貰っただけ……」

「お餞別ってあんたたち、春から同じ大学なのに?」

「……は?」

「え、あんた知らなかったの?」


 母親が驚いた顔をしているけれど、驚いてるのはこっちの方だ、あいつそんなこと一言も――ああ、いや、ずっと喋ってなかったんだけど。ノックされる窓を無視し続けたのも、私の方だったんだけど。

 もしかしたら、交換日記の返信は、そのことが書いてあったのかもしれない。

 私は交換日記を掴み、階段を上がり、自室だった部屋の扉を開けた。落ち着いてノートを開きたい、ただそれだけのつもりだった。

 だけど、カーテンをはずした窓の向こうに見えたのは、三年前と同じ光景だった。

 ひとつだけあの時と違うのは、マコトがこちらを見ていることだ。

 彼女は気付く気配もなくて、そしてマコトは私をじっと見つめている。「来ると思った」と、濡れた唇が動いたように見えた。

 私から目を離さないまま、楽しそうに笑ったまま、マコトの動きが激しくなっていく。やっぱりわざとだ、あの日も私に見せようとしていたんだ――全身から力が抜けていって、交換日記を取り落としてしまう。たまたま開いたのは最終ページで、私の馬鹿みたいな殴り書きが見える。

 裏表紙の内側に、マコトも返事を殴り書きしていた。


『見てるだけじゃ物足りないよね? 二冊目につづく』


 その文字を見た瞬間、お腹の奥が甘く痺れて、私は立つことさえできなくなった。

 二冊目の日記に、私は何を書けばいいんだろう。素直に「物足りない」って書いたら、いったいどうなってしまうんだろう――呼吸が乱れて、落ち着かなくて、自然と床にうずくまった。

 四つんばいになった私の身体は、勝手に腰が震えていた。


 いつのまにか、マコトの部屋は無人だった。

 軽く呼吸を整えて、私は家を飛び出した。小学校の前の文房具屋なら、子供向けの交換日記帳がありそうだ。可愛いノートに書き込む中身は、どうしようもない欲求ばかりになるんだろうけど……自分の気持ちを素直に書けたら、マコトは応えてくれるような気がした。

 今までただの一度だって、素直な想いを伝えたことがなかった。私は本当に馬鹿な子だった。きっとマコトの事だから、最初からそれをわかっていて、ずっと私を煽り続けていたのに違いなかった。

 今の彼女には悪いけど、もう一歩だって引くつもりはない。

 窓越しに話す最後の夜に、素直な気持ちを書き込んだ、二冊目の日記を渡したかった。


(了)

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