唐突に彼の名前を思い出して、すっきりした。と言いたいところだが、なぜだろう。まだもやもやする。なにか、大事なことを見落としている気がする。
俺はため息とともに、現代文のワークブックを閉じた。また気になりはじめてしまった。こうなったらもう、勉強なんか頭に入らない。風呂でも入って、頭をさっぱりさせようか。
自室を出てリビングに通りかかったら、夕刊を読んでいた母さんがいきなり声を上げた。
「やだ、隣の県の子だわ。あんたと同い歳」
母さんが俺に新聞を手渡す。
「三井健治(15)」が、川で溺れて死んだらしい。斜め読みしていたら見落としてしまうほどの、とても小さな記事だった。
「かわいそうに。なんだか、論文を発表した賢い子だって。残念ねえ、これからってときに……」
母さんの同情めいた喋りは、頭に届いてこなかった。
新聞の細かい文字に目を走らせる。三井健治は通信制の学校に通う高校生とあった。
独学で虫の研究に努め、高校に進学後、独自にまとめた論文を発表していたそうだ。この研究は某大学から注目され、天才の出現と囁かれていたのだという。事故の日も、山間部の虫の調査に出かけていて、誤って川に落ちたのだ。
衝撃的だった、はずだ。気にかけてきた同級生の死の知らせだ。ショックを受けるべきだ。
それなのに、たいして驚いていない俺がいる。
多分俺は、一週間前から三井くんが死ぬことを知っていたのだ。
お友達は虫だけですか、ムシハカセ。
そういって苛められていた三井くんに消しゴムを拾ってもらって、ありがとうと言った俺のことを、三井くんは覚えていたのかもしれない。
瞼の裏に、校庭の欅を見上げる少年の姿が浮かぶ。
「僕の友達は、虫だけかもしれない」
蝉の声が降り注ぐ、黄金色の木洩れ日と揺れる葉の影。
「でも、虫以外と……達になれ……なら、……君……も、し……ない」
彼の細い声は、蝉の命懸けの声に掻き消されて、殆ど聞こえなかった。
自身の最期を見届ける人を、彼も探していたのだろうか。彼の生の証明が、俺のこの、一週間の胸のざわつきだったのなら。
これが虫の知らせという奴か。
ムシハカセらしいや、三井くん。
蝉の鳴かない日の知らせ 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます