蝉の鳴かない日の知らせ
植原翠/授賞&重版
蝉の鳴かない日の知らせ
「蝉が外に出てきて鳴きはじめたら、そいつの命は後、一週間なんだ」
一日目。
突然、蝉が土から外に出たら一週間で死ぬことを思い出した。
俺にそう教えてくれたのは誰だっけか。
高校最初の、ゴールデンウィークが終わった頃だった。
教室のカーテン越しの光が床に模様を作る。季節が変わる、と、俺はぼんやりと思った。夏の気配がする。その前に梅雨か。本格的な夏までは、もう少し先だ。
進学した学校では新しい友達ができ、勉強もそこそこ追いついて、平穏な日々を送っている。入部したテニス部も……今は先輩の雑用ばかりだけれど、小学校から一緒の田山がいるし、まずまず充実している。
夏の大会には、一年生は相当上手い奴しか出られない。多分、俺には無理だ。球拾いくらいがちょうどいい。しかし田山には不満なのだそうだ。
「ずるいよなあ。先輩でも、俺より下手な人もいるのに」
こいつは昔から不平不満が多い。なんらか敵を作ることで、己を活性化するタイプの典型なのだ。
俺も納得できない部分はあったが、こういうことは、喚いても仕方ないものだ。例えば、土から出てきたばかりの蝉が、どう足掻いても七日後には死んでしまうのと同じで。
「……蝉」
夏はもっと先だ。
それなのになぜか俺は急に、あの喧しい虫のことを思い出した。
蝉は土から外に出たら、一週間で死ぬ。
俺にそう教えてくれたのは誰だっけか。と。
二日目。
昨日はなんで、蝉のことなんか思い出したのだろう。教えてくれたのは誰だ? 小学生の頃だったと思うのだけれど。
こういうことは、気になりだしたら止まらないものである。誰だ、俺に蝉の話をした人は。
今時、気になることはキーワードさえあれば簡単に検索できる。歌詞を忘れた歌、作者名を忘れた本、大体のものは、ワンタッチで調べられる。
しかしこういう個人的な事実は、自身の記憶を辿るほかないから困りものだ。
蝉が成虫になったら七日で死ぬのは、今となっては当たり前の知識である。でも、初めて聞いたときはかなりの衝撃だった。
長い年月を真っ暗な土の中で過ごして、成虫になって、ようやく明るい世界へ翅を広げる。それなのに、一週間。たった一週間で、寿命が来る。下積みの長さに対して報われなさすぎではないか。一週間、外に出てすることは、ギャーギャー鳴き叫ぶだけだしな。
蝉は、外に出ている時間より土の中にいる時間の方が長い。蝉の本来の姿は、どちらなのだろう。
三日目。
蝉のことを教えてくれた人が誰だったのか、まだ思い出せない。もやもやは募るばかりだ。思い出そうとすればするほど、遠ざかっていく感じがする。
一瞬、姉ちゃんかなと思った。だけど違う気がした。田山かな、でもあいつが言うかな、そんなこと。
外に出てから死ぬまで、蝉に与えられた時間はたった一週間だ。その一週間で大急ぎでやらなくてはならないことが、子孫を残すための活動である。人間にとって耳障りなあの声で叫び、自身の存在を主張する。次の世代へ自分のDNAを残す。
一週間でできることは、それだけなのだろう。
死ぬ間際に伴侶を探す行動は、子供の頃の俺にはまるで、自身の最期を見届けてくれる相手を探しているように思えた。虫だから、そんなわけないのに。分かっていたけれど、そんな風に思ったし、今でもそんな気がしている。
それにしても、誰だったかな。俺にそんな、不安定な惻隠を抱かせた人は。
四日目。
「そういうこと言うのって、ムシハカセじゃねえの」
部活の最中に田山に言ったら、そう返された。
ムシハカセ?
記憶の片隅に、そのあだ名が引っかかった。確実に覚えがあるのだが、「覚えがある」止まりでその先が掴めない。
田山は小学校からの付き合いだ。だから、俺と同じ同級生を知っている。多分その名前は、そんな同級生の中のひとりだ。
「誰だっけ、ムシハカセって」
田山に尋ねた直後、コーチから声がかかった。田山は大声で返事をし、駆けていった。俺も、球拾いに戻る。そのまま、その日はムシハカセについて問い詰めるのを忘れてしまった。
五日目
ムシハカセ。
思い出した、そういえば、そんなあだ名の奴がいた。小学三年のときだった気がする。でも本名が思い出せない。あと、顔も。
ムシハカセというあだ名がついたきっかけは覚えている。教室に迷い込んできた蝶を見て、すぐに種類を言い当てたのが始まりだ。
黒と黄色の翅に赤と青の模様が入った、結構デカイ蝶だ。ふらふらと読めない動きで飛び回るそいつの出現で、叫びを上げる子もいれば、捕まえたがるお調子者もいた。驚いて椅子から転げ落ちた奴もいて、笑い声、悲鳴、先生の怒号が飛び交い、授業が止まるほどの大騒ぎになる。
そんな中、彼は言った。
「キアゲハだ。きれいだね」
大混乱の教室で、彼だけは、やけに落ち着いていた。
「キアゲハっていうの?」
後ろの席だった俺が問うと、彼はちょっと、嬉しそうに頷いた。
「うん。ナミアゲハに似てるけど、翅の模様が違うんだよ」
「すっげえ、詳しいな」
「なになに?」
当時隣の席だった田山が身を乗り出して、話に参加してきた。俺は田山に、自分のことみたいに自慢げに言った。
「あのね、――くんが、虫に詳しいんだ」
俺自身が、彼の名前を口にした。
それは覚えているのに、名前の部分だけは、塗りつぶされたみたいに思い出せなかった。
あの日以来、校庭で虫を見つけては、ムシハカセのところへ持っていくのが流行した。彼はその種類と、薀蓄を話してくれる。同じ小学生とは思えない、膨大な知識量だった。
いつしか彼はムシハカセと呼ばれるようになった。知識が豊富で面白い奴。そんな尊敬の念を込めて、そう呼ばれたのだ。
ああ、ここまで詳細に思い出したのに。それなのになぜ、名前が思い出せない?
気になって気になって仕方ない。思い出したところでなににもならないが、喉の奥につっかえた魚の小骨みたいに気になってしまうのだ。
ふとした時間に彼のことばかり考えていた。
六日目。
あまりにも気になるので、卒業アルバムを開いた。ムシハカセを探そうと思う。名前と顔を見たら、彼がそれだと結びつくと思ったのだ。
押し入れから小学校の卒業アルバムを引きずり出して、クラスごとの写真をひとつひとつ眺める。幼い頃のあどけない俺の写真と、無邪気な笑顔の田山、初恋の女の子、喧嘩ばかりした友達、よく叱られた先生……と、懐かしい顔が並んでいる。
しかし今はそれより、ムシハカセのことが気になって、懐かしんでいる余裕なんてない。それくらい、気持ちが急かされている。思い出したってすっきりするだけなのに、無性に焦燥していた。調べないと、胸がざわざわして落ち着かないのだ。
そして全クラスを見終えて、見つからなくて、頭からもう一度見直そうとしたとき、俺はアルバムを閉じた。
違う、いないのだ。
あの彼は、四年生に上がる直前に転校してしまったのだ。だから、このアルバムには載っていない。
思い出が蘇る。ムシハカセの転校は、家の事情などではない。彼自身が理由だった。
風向きが変わったのは、夏休みに入る直前だった。
「今日、蝉捕りに行こうよ」
外では蝉が大合唱し、夏本番の気温が街中を包んでいた日だ。クラスの誰かがそう持ちかけた。この投げかけに、クラスメイトたちは大盛り上がりになった。
「行く行く! 蝉って、家で飼えるのかな」
「なに食べるの?」
「夏だし、スイカじゃね?」
「バカ、樹液だろ!」
楽しいイベントを前に、バカな小学生たちは舞い上がって喜んだ。ただし、彼だけは除いて。
「だめだよ、蝉を捕っちゃ」
ムシハカセだけは、この流れに水を差した。
「かわいそうだろ」
彼の言葉で、盛り上がっていたクラスメイトが静まり返る。俺はこの嫌な空気に、眉を寄せた。田山だっただろうか、誰かがムシハカセに向けて低い声を出した。
「つまんねえな。ノリ悪い。前から思ってたけど、お前、場の空気読めないよな」
そうして徐々に、ムシハカセはクラスで浮いた存在になっていった。
「虫が好きなんて気持ち悪い」
「ゲームで集めてるモンスターも、虫属性ばっかりなんだって」
「虫しか友達いないんじゃないの」
ひとりの敵を作ることで、他が団結し、活性化する。俺は人間の習性を目の当たりにした気がした。
周囲から距離を取られるようになった彼は、それでも、変わらず虫を愛していた。
思えばこの頃から、俺は彼のことが気になっていたのかもしれない。孤立していく彼が心配で、でも直接守ったら自分まで友達を失いそうで、そうまでして守りたい存在でもなくて。だから、気にかける、程度のことしかできなかった。
「ねえ、ムシハ……いや、――くん」
校庭の木陰で幹を見上げる彼に、俺は慎重に声をかける。
「皆と仲直りした方がいいんじゃないの。やっぱり一緒に蝉捕りしようって、言ってみたら」
校庭の欅が揺れている。緑色の葉っぱの中から、蝉の声がシャワーみたいに降り注いでいた。
ムシハカセは、木の葉の隙間から洩れる光を、眩しそうに見上げていた。
「蝉が外に出てきて鳴きはじめたら、そいつの命は後、一週間なんだ」
「そうなの!?」
ムシハカセから出てきた知識が当時の俺には目新しく、びっくりして大声が出た。ムシハカセは僕の方なんか目もくれず、蝉の成る木を見つめている。
「明るい世界にいられるのは、一週間だけ。すぐに死んじゃうんだ。だから、自由を奪ったら、かわいそう」
彼が蝉捕りを拒んだ理由が、それだった。
それから夏休みに入り、夏休みが明けて、秋になって、いつの間にか蝉は鳴かなくなっていた。
彼が学校に来なくなったのも、大体そのくらいの時期だ。
クラスメイトと上手くいかなくなってただ浮いていただけだったのが、次第に嫌がらせの対象へと変わっていく。彼は虫にしか興味がないように見えた。だが、周囲の人間からの悪意を意に介さないわけではない。ちゃんと、傷ついていた。
彼が追い詰められれば追い詰められるほど、俺は彼のことが気がかりになっていき、そしてそれと比例して、声をかけづらくなっていった。
最後にコミュニケーションを取ったのは、九月の中頃。俺が消しゴムを落としたら、前の席だった彼が拾ってくれた。
あれが、最後だ。
それ以降は、彼はもう学校に来なくなって、冬には消え去るように転校してしまった。
七日目。
現代文の課題を解いていて、「虫の知らせ」という言葉を知った。辞書を引いてみたら、「良くないことが起こる予感がすること」だそうだ。
それを見た拍子に、「三井健治」という名前が頭に浮かんだ。
ああ、それだ。
「ムシハカセ」は三井くんだ。
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