櫻葉千春が殺されて

植原翠/『おまわりさんと招き猫4』発売

櫻葉千春が殺されて

 高校一年の春、この桜の下で、千春さんに出会った。

 高校二年の春、この桜の下で、千春さんに告白された。


 高校三年の春、この桜の下で、千春さんは死んだ。





 高校三年の春。

 僕はこの桜の下で、首を吊ることに決めた。


 深夜零時。学校の門を飛び越えて、僕は校庭の桜の下に立っていた。

 家から持ってきた脚立は、元からネジが緩んでいた。ぐらつくそれを木の下に立てて、上る。手が届く限りでなるべく高いところにある、太い枝を選んで、僕はそこにロープを括りつけた。

 今夜は星がきれいだ。それに、作り物みたいな満月も浮かんでいる。

 桜の花びらがはらはらと、風に舞っている。暗闇の中では白い花が光って見えて、嘘みたいに幻想的だ。

 千春さんが死んだ日は、たしか三日月の夜だった。あの日もよく晴れていたから、彼女もきっとこんな夜空を見ていたことだろう。

 櫻葉千春は、地下アイドルだった。

 そして僕と同じ学年の学友でもある。

 高校二年の夏頃にオーディションに受かり、それから彼女はアイドルとして愛される存在になった。グループの中でも飛び抜けて美人だった彼女は、大物になるぞと注目され、ある大手企業の目に留まり、ついにCMデビューを果たした。

 あの美少女はなんだ、と、世間でも話題になるほどだった。

 それなのに、彼女はこの木の下で殺された。殺したのは近所に住む大学生の男だ。

 ニュースによると、犯人の男は千春さんのファンだったのだという。捕まってから彼は、取り調べに対しまともな返事をせず「すぐに会いに行くよ」と繰り返しているそうだ。奇妙な挙動から責任能力の有無が問われ、これから精神鑑定が行われると、マスコミが報じていた。

 その大学生は僕も知っている人だった。去年卒業した、陸上部の先輩だ。千春さんのことが好きだったなんて噂は、なかった人だった。

 千春さんは「これから」の人だった。これから日本を代表する存在になるかもしれなかった。

 そんな彼女がこの桜の下で死んだ事実に、誰もが胸を傷めた。

 彼女は桜のようだった。ぱっと咲いて、ぱっと散った。

 華々しく活躍したと思ったら、多くの人にきれいねと愛されたと思ったら、呆気なく散って、消えてしまった。

 散った桜は見向きもされない。葬儀が終わって数日もすれば、彼女の話題は徐々に立ち消えていった。


 しっかり予習してきたもやい結びは、暗い中だと難しい。手間取っていたら、後ろから声をかけられた。

「こーちゃん!」

 振り向くと、脚立の下に弥生がいた。

「なにしてるの?」

「なんでもないよ」

「なんでもないわけないじゃない。どうして、ロープなんて」

 そのとき、僕の足を乗せた脚立がガタッと嫌な音を立てた。安定感の悪い脚立はひとたびぐらつきはじめると、上手く体勢を整えられない。倒れた脚立に放り出され、僕は真下にいた弥生に覆い被さるようにして倒れた。

 下敷きになった弥生が、僕を見上げる。

「こーちゃん、まさか死のうと思ってたの?」

 僕は黙って体を起こした。馬乗りになってしまった弥生から降りようとしたが、弥生が僕の肩を掴んだ。

「どうして? 千春ちゃんが死んだから?」

 弥生の声が、だんだん大きくなる。

「大好きな彼女が死んだから、あとを追おうとしたの?」

 弥生は、お隣に住む僕の幼馴染みだ。快活な性格で、陸上部で活躍する元気な少女である。

 千春さんの死で茫然自失になった僕を、支えてくれたのは彼女だ。僕は幼い頃から陰気で、友達作りが下手だった。だけれど弥生だけは、いつも傍にいてくれたのだ。

 千春さんを喪って魂が抜けていた僕を、弥生はつきっきりで元気づけようとしてくれた。

「脚立持って出ていくの、家から見えたの。まさかと思ってあとをつけたら……。なに考えてるのよ」

「ごめん」

 僕は座り込んだまま、目を伏せる。

 弥生がどんなに励ましてくれても、それでも僕は死を選びたい。

 弥生が僕の肩をガタガタと揺すった。

「アイドルの死を受け入れられなくて、自分まで死のうとしたの!? こーちゃんってそんなに、自分のない人なの!?」

「……違うんだ」

 僕は弥生の手首を掴み返した。

 千春さんが死んだから、というのは、合っている。

 でも、好きだった彼女のあとを追おうと思っているのではない。

「責任を、取ろうと思ったんだ」

 千春さんが殺されたのは、僕のせいだ。

「僕が千春さんの人生を変えてしまったから……」


 初めて出会ったのは、一年生の春だった。

 この桜の下で、美しく靡く千春さんの黒髪を見つけた。釘付けになった僕の視線に気づき、彼女が会釈する。黒い艶髪に花びらが躍り、僕はひと目で彼女に夢中になった。

 千春さんとは学年は同じでも、クラスが違った。僕は、休み時間になったらこっそり、彼女の教室を覗くようになった。美しい彼女の姿を拝む。それだけで充分だった。

 教室を覗いていた僕と千春さんは、幾度となく目が合った。でも、会話はしない。声をかけられる前に、僕が逃げていたからだ。陰気な僕とって、彼女は眩しすぎる。傍に近づくのは恐れ多い。

 話しかけないくせに覗きにくる僕は、きっと相当気持ちの悪い男だったはずだ。


 告白されたのは、二年生の春だった。

 驚いたことに、千春さんの方から僕に好意を告げてきた。

「あなた、いつも会いに来てくれるでしょ。話したことはないけど、毎日目を合わせてたら気になっちゃったの。お友達からでもいいから、お付き合いしてもらえないかな」

 でも、丁重にお断りした。

「ごめんなさい。断る立場じゃないのは分かってるけれど……僕は千春さんを見てたけど、恋ではないんです。アイドルみたいなもので……」

 自分に自信がなかった、といえば、それもそうだろう。でも本当に、心から、僕は彼女に恋愛感情を抱いていなかったのだ。

 僕の千春さんへの想いは、恋というほど単純ではない。

 突き詰めれば彼女への異性としての憧れがあるのはたしかだが、交際を求めているかというとその限りではないのだ。

 むしろ偶像でいてほしい。千春さんは、皆から愛される人でいてほしい。僕はそれを遠くから見ていたかったのだ。

 その距離感を、僕は「アイドルみたいなもの」と表現した。


 僕がこんなふうに彼女を振ったから、千春さんは芸能の道を志したに違いない。

 その数日後に千春さんはアイドルとして活動を始めた。彼女は僕の理想により近づいた。だから、僕も彼女も、それ以来、会話を交わすことはなかった。

 彼女は多くの人の太陽になり、僕はそれを追いかけるファンだった。


「千春ちゃんがアイドルになったの、たしかにこーちゃんの言葉がきっかけだと思うよ」

 弥生は、僕と千春さんの関係を知っている。暗闇の中で夜風が吹いて、花吹雪がひらりひらりと妖艶に踊る。前髪の向こうの弥生の顔を、まっすぐ見られない。

「僕があんなことを言わなければ、千春さんは芸能人になんかならず、普通の女の子だった。そうしたら、こんなことにはならなかった」

 桜は、咲かなければ散ることはない。

「熱狂的ファンに殺されたのまでは、こーちゃんのせいじゃない」

 弥生はまだ、僕の肩に手を置いて離さなかった。

「それにこーちゃん、私、前にも言ったよね? 千春ちゃんは、こーちゃんをからかってただけなんだよ」

「分かってる。僕は千春さんをずっと見てたんだから。あの告白自体が嫌がらせだったのも、気づいてるよ」


 弥生も、そして僕も知っていた。

 千春さんは僕の陰口を言っていたのだ。それはそうだろう。毎日毎日、話しかけるでもなく、覗き見しにくる男。それもこんな陰気臭い、気持ちの悪い男だ。付き合ってほしいなんて、嘘に決まっていたのだ。

 あの告白の真意も本当は分かっている。

 あれは僕を陥れる罠だ。交際に発展したと思わせておき、僕が彼女になにかしようとしたら、悲鳴をあげる。そして無理やり触られたことにして、僕を追放するつもりだったのだ。

 千春さんは僕がそこまで気づいているとは思わなかっただろうが、僕は千春さんが思っている以上に彼女に付きまとっている。そういう汚い発言だって、全部聞こえていた。

 それを知っていようといなかろうと、僕は本音で彼女の告白を断ったのだけれど。

 いずれにせよ千春さんは、僕の発言を聞いて、自分の美貌ならアイドルを目指せると思い至った。


「じゃあ、どうして?」

 弥生が泣きそうな声で問う。

「あの女は、こーちゃんをバカにしてたんだよ。それなのにどうして、あの女のために死のうとするの?」

「僕にとって千春さんは、崇拝の対象だったから、かな」

 千春さんがどんなに僕を嘲笑っていても、関係なかった。

 内面の穢らわしさ、強かさ、それらも含めて、彼女は美しかった。悪魔のような彼女が、いちばんきれいだったから。

 僕の届かないところで、きらきらする存在でいてほしかったのだ。

「なんだっていいよ。なんにせよ、こーちゃんが死ぬ必要はない。悪いのは彼女を殺したファンだよ。こーちゃんはただ、彼女に脚光を浴びさせるきっかけを与えただけでしょ」

 弥生の指に力が入る。彼女の背後でさらさらと舞う、白い桜が光っている。

「死にたいんだ。死なせてくれよ」

「嫌だ、死なせない」

 弥生は僕の肩から手を離したと思うと、崩れるように僕の胸に顔をうずめてきた。背中に手を回して、ぎゅっと、強く抱きしめてくる。

「こーちゃん、私、千春ちゃんなんかよりずっとこーちゃんを想ってるよ。あなたの陰口なんて言わないし、ずっとずっと傍にいたよ。それでもあなたは、私の隣より千春ちゃんへの贖罪を選ぶの?」

 弥生の体温が温かい。軟らかい髪が喉に触れて、気持ちよくて、眠くなってくる。



 弥生、知ってるんだよ。

 千春さんを殺したのは、本当は君だってこと。

 千春さんに付きまとっていた僕は、見ていたんだよ。


 三日月の夜、弥生はこの桜の下で千春さんを殺した。

 千春さんは三年から転校する予定だった。こんな寂れた学校でなく、有名人が通う学校だ。その必要書類を取りに行かなくてはならなかったのに、仕事が立て込んで彼女は時間を確保できなかった。

 あの三日月の夜は、担当の先生とようやくスケジュールを合わせられた夜だったのだ。

 仕事で遅くなった千春さんは、途中までマネージャーに送ってもらって、学校の前で車から降ろされた。千春さんのスケジュールを把握していた僕は学校で待ち伏せしていた。この木の後ろに隠れて、夜桜と千春さんのセットを楽しもうと思っていた。

 そこへ、弥生が現れた。

「千春ちゃん!」

「弥生ちゃん?」

 弥生も、千春さんのスケジュールを知っていたのだ。

「どうしたの弥生ちゃん。こんな時間に、こんなところで。そんな格好して……」

 よく晴れている夜なのに、雨合羽を着た弥生を見て、千春さんは狼狽した。

 その、刹那。弥生はなにも答えず、手に持ったナイフで千春さんの胸を突き刺した。

 千春さんの淡いピンクのブラウスが、赤く染まった。ナイフが引き抜かれると、ごぷっと血が溢れ出す。千春さんは声も出せなかった。

 棒立ちになる彼女に、弥生がまたナイフを突き立てる。何度も何度も、突き刺していた。

 ざわっと風が吹く。春の夜風に撫でられた桜の木が、枝を揺すぶってさざめいた。脆い花が塵のように軽やかに舞い、少女たちを包み、そして地に落ちていく。

 美しい千春さんの顔が蒼白になっていく。体からは汚い血が吹き出して、赤く濡れていく。桜の花がその血溜りに落ちて、ちゅっと赤く色づいた。

 僕はその様子を、ただ静かに見守っていた。そして、高揚していた。

 ずっと見つめていた千春さんの、最期まで見届けられるなんて!


「……弥生?」

 砂利を蹴る音と、男の声がした。

 校庭に立っていたのは、白いパーカーを着た男。

「急に呼び出すからどうしたのかと思ったら……本当に、どうしたんだ?」

 弥生は雨合羽のフードを脱いで、彼を振り向いた。

「先輩、お願いがあります」

 彼女が真っ赤に濡れたナイフを、その青年に差し出す。

「先輩は、櫻葉千春の熱狂的ファンだったことにしてください。そして、自分だけのものにしようとして殺しちゃった。なんてどうですか?」

 ナイフの柄を押し付けられ、白いパーカーに赤い染みができた。

「そうしてくれたら、私、先輩とお付き合いします」

 そういえば、と、僕はそのときになって思い出した。

 弥生は一年の夏くらいから、部活で顔を合わせる先輩に、好意を寄せられていた。弥生はその想いには応えなかったのだが、いい先輩と後輩として交流はしていた。とはいえ先輩の方は、弥生を簡単に諦めきれたわけではない。卒業してからも、まだ彼女に想いを寄せていたのだ。

 僕は桜の木にもたれかかった。

 先輩は、恋心を弥生に利用されてしまったのだ。彼は弥生に促されるまま、罪を被った。僕が先輩の立場だったとしても、そうしただろう。そうでないと、その場で弥生に殺されてしまいそうだった。

 先輩は殺人容疑で捕まった。

 出所したら弥生と交際できると思っているらしく、捕まってから彼は、取り調べに対しまともな返事をせず「すぐに会いに行くよ」と繰り返している。奇妙な挙動から責任能力の有無が問われ、これから精神鑑定が行われる。これで無罪になれば、すぐに弥生に会いに行ける。彼は今、弥生のことだけを考えて息をしているのだろう。


 その弥生は今、桜吹雪の中で僕を抱きしめている。

「こーちゃん、好きだよ。あなたをいじめる千春ちゃんなんて、私が忘れさせてあげる。だからこーちゃん、私だけを見て」

 捕まった男は櫻葉千春を殺していないし、彼女のファンでもない。

 本当に殺したのは、彼女を憎んだ女だった。男でもなければファンでもない。

 でもニュースはあながち間違いではない。こんな事件を起こした発端は、彼女に歪んだ愛を向けた僕にある。

 櫻葉千春を殺した、櫻葉千春のファンは、僕だ。


 散ったあとの桜の花弁がアスファルトに張り付いている。踏みにじられてべったりしたそれは、僕には美しい呪いに見えた。

 無性に死にたくなるのは、僕が彼女を追いかけたいからなのか、贖罪のつもりなのか、単に弥生から逃げ出してしまいたいだけなのか、そのどれとも思えない。もう自分でも、この気持ちの名前が分からないのだ。


 今夜は星がきれいだ。それに、作り物みたいな満月も浮かんでいる。

 桜の花びらがはらはらと、風に舞っている。暗闇の中では白い花が光って見えて、嘘みたいに幻想的だ。

 千春さんが死んだ日は、たしか三日月の夜だった。あの日もよく晴れていたから、彼女もきっとこんな夜空を見ていたことだろう。

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