櫻葉千春が殺されて
植原翠/授賞&重版
櫻葉千春が殺されて
高校一年の春、この桜の下で、千春さんに出会った。
高校二年の春、この桜の下で、千春さんに告白された。
高校三年の春、この桜の下で、千春さんは死んだ。
高校三年の春。
僕はこの桜の下で、首を吊ることに決めた。
深夜零時。学校の門を飛び越えて、僕は校庭の桜の下に立っていた。
家から持ってきた脚立は、元からネジが緩んでいた。ぐらつくそれを木の下に立てて、上る。手が届く限りでなるべく高いところにある、太い枝を選んで、僕はそこにロープを括りつけた。
今夜は星がきれいだ。それに、作り物みたいな満月も浮かんでいる。
桜の花びらがはらはらと、風に舞っている。暗闇の中では白い花が光って見えて、嘘みたいに幻想的だ。
千春さんが死んだ日は、たしか三日月の夜だった。あの日もよく晴れていたから、彼女もきっとこんな夜空を見ていたことだろう。
櫻葉千春は、地下アイドルだった。
そして僕と同じ学年の学友でもある。
高校二年の夏頃にオーディションに受かり、それから彼女はアイドルとして愛される存在になった。グループの中でも飛び抜けて美人だった彼女は、大物になるぞと注目され、ある大手企業の目に留まり、ついにCMデビューを果たした。
あの美少女はなんだ、と、世間でも話題になるほどだった。
それなのに、彼女はこの木の下で殺された。殺したのは近所に住む大学生の男だ。
ニュースによると、犯人の男は千春さんのファンだったのだという。捕まってから彼は、取り調べに対しまともな返事をせず「すぐに会いに行くよ」と繰り返しているそうだ。奇妙な挙動から責任能力の有無が問われ、これから精神鑑定が行われると、マスコミが報じていた。
その大学生は僕も知っている人だった。去年卒業した、陸上部の先輩だ。千春さんのことが好きだったなんて噂は、なかった人だった。
千春さんは「これから」の人だった。これから日本を代表する存在になるかもしれなかった。
そんな彼女がこの桜の下で死んだ事実に、誰もが胸を傷めた。
彼女は桜のようだった。ぱっと咲いて、ぱっと散った。
華々しく活躍したと思ったら、多くの人にきれいねと愛されたと思ったら、呆気なく散って、消えてしまった。
散った桜は見向きもされない。葬儀が終わって数日もすれば、彼女の話題は徐々に立ち消えていった。
しっかり予習してきたもやい結びは、暗い中だと難しい。手間取っていたら、後ろから声をかけられた。
「こーちゃん!」
振り向くと、脚立の下に弥生がいた。
「なにしてるの?」
「なんでもないよ」
「なんでもないわけないじゃない。どうして、ロープなんて」
そのとき、僕の足を乗せた脚立がガタッと嫌な音を立てた。安定感の悪い脚立はひとたびぐらつきはじめると、上手く体勢を整えられない。倒れた脚立に放り出され、僕は真下にいた弥生に覆い被さるようにして倒れた。
下敷きになった弥生が、僕を見上げる。
「こーちゃん、まさか死のうと思ってたの?」
僕は黙って体を起こした。馬乗りになってしまった弥生から降りようとしたが、弥生が僕の肩を掴んだ。
「どうして? 千春ちゃんが死んだから?」
弥生の声が、だんだん大きくなる。
「大好きな彼女が死んだから、あとを追おうとしたの?」
弥生は、お隣に住む僕の幼馴染みだ。快活な性格で、陸上部で活躍する元気な少女である。
千春さんの死で茫然自失になった僕を、支えてくれたのは彼女だ。僕は幼い頃から陰気で、友達作りが下手だった。だけれど弥生だけは、いつも傍にいてくれたのだ。
千春さんを喪って魂が抜けていた僕を、弥生はつきっきりで元気づけようとしてくれた。
「脚立持って出ていくの、家から見えたの。まさかと思ってあとをつけたら……。なに考えてるのよ」
「ごめん」
僕は座り込んだまま、目を伏せる。
弥生がどんなに励ましてくれても、それでも僕は死を選びたい。
弥生が僕の肩をガタガタと揺すった。
「アイドルの死を受け入れられなくて、自分まで死のうとしたの!? こーちゃんってそんなに、自分のない人なの!?」
「……違うんだ」
僕は弥生の手首を掴み返した。
千春さんが死んだから、というのは、合っている。
でも、好きだった彼女のあとを追おうと思っているのではない。
「責任を、取ろうと思ったんだ」
千春さんが殺されたのは、僕のせいだ。
「僕が千春さんの人生を変えてしまったから……」
初めて出会ったのは、一年生の春だった。
この桜の下で、美しく靡く千春さんの黒髪を見つけた。釘付けになった僕の視線に気づき、彼女が会釈する。黒い艶髪に花びらが躍り、僕はひと目で彼女に夢中になった。
千春さんとは学年は同じでも、クラスが違った。僕は、休み時間になったらこっそり、彼女の教室を覗くようになった。美しい彼女の姿を拝む。それだけで充分だった。
教室を覗いていた僕と千春さんは、幾度となく目が合った。でも、会話はしない。声をかけられる前に、僕が逃げていたからだ。陰気な僕とって、彼女は眩しすぎる。傍に近づくのは恐れ多い。
話しかけないくせに覗きにくる僕は、きっと相当気持ちの悪い男だったはずだ。
告白されたのは、二年生の春だった。
驚いたことに、千春さんの方から僕に好意を告げてきた。
「あなた、いつも会いに来てくれるでしょ。話したことはないけど、毎日目を合わせてたら気になっちゃったの。お友達からでもいいから、お付き合いしてもらえないかな」
でも、丁重にお断りした。
「ごめんなさい。断る立場じゃないのは分かってるけれど……僕は千春さんを見てたけど、恋ではないんです。アイドルみたいなもので……」
自分に自信がなかった、といえば、それもそうだろう。でも本当に、心から、僕は彼女に恋愛感情を抱いていなかったのだ。
僕の千春さんへの想いは、恋というほど単純ではない。
突き詰めれば彼女への異性としての憧れがあるのはたしかだが、交際を求めているかというとその限りではないのだ。
むしろ偶像でいてほしい。千春さんは、皆から愛される人でいてほしい。僕はそれを遠くから見ていたかったのだ。
その距離感を、僕は「アイドルみたいなもの」と表現した。
僕がこんなふうに彼女を振ったから、千春さんは芸能の道を志したに違いない。
その数日後に千春さんはアイドルとして活動を始めた。彼女は僕の理想により近づいた。だから、僕も彼女も、それ以来、会話を交わすことはなかった。
彼女は多くの人の太陽になり、僕はそれを追いかけるファンだった。
「千春ちゃんがアイドルになったの、たしかにこーちゃんの言葉がきっかけだと思うよ」
弥生は、僕と千春さんの関係を知っている。暗闇の中で夜風が吹いて、花吹雪がひらりひらりと妖艶に踊る。前髪の向こうの弥生の顔を、まっすぐ見られない。
「僕があんなことを言わなければ、千春さんは芸能人になんかならず、普通の女の子だった。そうしたら、こんなことにはならなかった」
桜は、咲かなければ散ることはない。
「熱狂的ファンに殺されたのまでは、こーちゃんのせいじゃない」
弥生はまだ、僕の肩に手を置いて離さなかった。
「それにこーちゃん、私、前にも言ったよね? 千春ちゃんは、こーちゃんをからかってただけなんだよ」
「分かってる。僕は千春さんをずっと見てたんだから。あの告白自体が嫌がらせだったのも、気づいてるよ」
弥生も、そして僕も知っていた。
千春さんは僕の陰口を言っていたのだ。それはそうだろう。毎日毎日、話しかけるでもなく、覗き見しにくる男。それもこんな陰気臭い、気持ちの悪い男だ。付き合ってほしいなんて、嘘に決まっていたのだ。
あの告白の真意も本当は分かっている。
あれは僕を陥れる罠だ。交際に発展したと思わせておき、僕が彼女になにかしようとしたら、悲鳴をあげる。そして無理やり触られたことにして、僕を追放するつもりだったのだ。
千春さんは僕がそこまで気づいているとは思わなかっただろうが、僕は千春さんが思っている以上に彼女に付きまとっている。そういう汚い発言だって、全部聞こえていた。
それを知っていようといなかろうと、僕は本音で彼女の告白を断ったのだけれど。
いずれにせよ千春さんは、僕の発言を聞いて、自分の美貌ならアイドルを目指せると思い至った。
「じゃあ、どうして?」
弥生が泣きそうな声で問う。
「あの女は、こーちゃんをバカにしてたんだよ。それなのにどうして、あの女のために死のうとするの?」
「僕にとって千春さんは、崇拝の対象だったから、かな」
千春さんがどんなに僕を嘲笑っていても、関係なかった。
内面の穢らわしさ、強かさ、それらも含めて、彼女は美しかった。悪魔のような彼女が、いちばんきれいだったから。
僕の届かないところで、きらきらする存在でいてほしかったのだ。
「なんだっていいよ。なんにせよ、こーちゃんが死ぬ必要はない。悪いのは彼女を殺したファンだよ。こーちゃんはただ、彼女に脚光を浴びさせるきっかけを与えただけでしょ」
弥生の指に力が入る。彼女の背後でさらさらと舞う、白い桜が光っている。
「死にたいんだ。死なせてくれよ」
「嫌だ、死なせない」
弥生は僕の肩から手を離したと思うと、崩れるように僕の胸に顔をうずめてきた。背中に手を回して、ぎゅっと、強く抱きしめてくる。
「こーちゃん、私、千春ちゃんなんかよりずっとこーちゃんを想ってるよ。あなたの陰口なんて言わないし、ずっとずっと傍にいたよ。それでもあなたは、私の隣より千春ちゃんへの贖罪を選ぶの?」
弥生の体温が温かい。軟らかい髪が喉に触れて、気持ちよくて、眠くなってくる。
弥生、知ってるんだよ。
千春さんを殺したのは、本当は君だってこと。
千春さんに付きまとっていた僕は、見ていたんだよ。
三日月の夜、弥生はこの桜の下で千春さんを殺した。
千春さんは三年から転校する予定だった。こんな寂れた学校でなく、有名人が通う学校だ。その必要書類を取りに行かなくてはならなかったのに、仕事が立て込んで彼女は時間を確保できなかった。
あの三日月の夜は、担当の先生とようやくスケジュールを合わせられた夜だったのだ。
仕事で遅くなった千春さんは、途中までマネージャーに送ってもらって、学校の前で車から降ろされた。千春さんのスケジュールを把握していた僕は学校で待ち伏せしていた。この木の後ろに隠れて、夜桜と千春さんのセットを楽しもうと思っていた。
そこへ、弥生が現れた。
「千春ちゃん!」
「弥生ちゃん?」
弥生も、千春さんのスケジュールを知っていたのだ。
「どうしたの弥生ちゃん。こんな時間に、こんなところで。そんな格好して……」
よく晴れている夜なのに、雨合羽を着た弥生を見て、千春さんは狼狽した。
その、刹那。弥生はなにも答えず、手に持ったナイフで千春さんの胸を突き刺した。
千春さんの淡いピンクのブラウスが、赤く染まった。ナイフが引き抜かれると、ごぷっと血が溢れ出す。千春さんは声も出せなかった。
棒立ちになる彼女に、弥生がまたナイフを突き立てる。何度も何度も、突き刺していた。
ざわっと風が吹く。春の夜風に撫でられた桜の木が、枝を揺すぶってさざめいた。脆い花が塵のように軽やかに舞い、少女たちを包み、そして地に落ちていく。
美しい千春さんの顔が蒼白になっていく。体からは汚い血が吹き出して、赤く濡れていく。桜の花がその血溜りに落ちて、ちゅっと赤く色づいた。
僕はその様子を、ただ静かに見守っていた。そして、高揚していた。
ずっと見つめていた千春さんの、最期まで見届けられるなんて!
「……弥生?」
砂利を蹴る音と、男の声がした。
校庭に立っていたのは、白いパーカーを着た男。
「急に呼び出すからどうしたのかと思ったら……本当に、どうしたんだ?」
弥生は雨合羽のフードを脱いで、彼を振り向いた。
「先輩、お願いがあります」
彼女が真っ赤に濡れたナイフを、その青年に差し出す。
「先輩は、櫻葉千春の熱狂的ファンだったことにしてください。そして、自分だけのものにしようとして殺しちゃった。なんてどうですか?」
ナイフの柄を押し付けられ、白いパーカーに赤い染みができた。
「そうしてくれたら、私、先輩とお付き合いします」
そういえば、と、僕はそのときになって思い出した。
弥生は一年の夏くらいから、部活で顔を合わせる先輩に、好意を寄せられていた。弥生はその想いには応えなかったのだが、いい先輩と後輩として交流はしていた。とはいえ先輩の方は、弥生を簡単に諦めきれたわけではない。卒業してからも、まだ彼女に想いを寄せていたのだ。
僕は桜の木にもたれかかった。
先輩は、恋心を弥生に利用されてしまったのだ。彼は弥生に促されるまま、罪を被った。僕が先輩の立場だったとしても、そうしただろう。そうでないと、その場で弥生に殺されてしまいそうだった。
先輩は殺人容疑で捕まった。
出所したら弥生と交際できると思っているらしく、捕まってから彼は、取り調べに対しまともな返事をせず「すぐに会いに行くよ」と繰り返している。奇妙な挙動から責任能力の有無が問われ、これから精神鑑定が行われる。これで無罪になれば、すぐに弥生に会いに行ける。彼は今、弥生のことだけを考えて息をしているのだろう。
その弥生は今、桜吹雪の中で僕を抱きしめている。
「こーちゃん、好きだよ。あなたをいじめる千春ちゃんなんて、私が忘れさせてあげる。だからこーちゃん、私だけを見て」
捕まった男は櫻葉千春を殺していないし、彼女のファンでもない。
本当に殺したのは、彼女を憎んだ女だった。男でもなければファンでもない。
でもニュースはあながち間違いではない。こんな事件を起こした発端は、彼女に歪んだ愛を向けた僕にある。
櫻葉千春を殺した、櫻葉千春のファンは、僕だ。
散ったあとの桜の花弁がアスファルトに張り付いている。踏みにじられてべったりしたそれは、僕には美しい呪いに見えた。
無性に死にたくなるのは、僕が彼女を追いかけたいからなのか、贖罪のつもりなのか、単に弥生から逃げ出してしまいたいだけなのか、そのどれとも思えない。もう自分でも、この気持ちの名前が分からないのだ。
今夜は星がきれいだ。それに、作り物みたいな満月も浮かんでいる。
桜の花びらがはらはらと、風に舞っている。暗闇の中では白い花が光って見えて、嘘みたいに幻想的だ。
千春さんが死んだ日は、たしか三日月の夜だった。あの日もよく晴れていたから、彼女もきっとこんな夜空を見ていたことだろう。
櫻葉千春が殺されて 植原翠/授賞&重版 @sui-uehara
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