インターホン

植原翠/『浅倉さん、怪異です!』発売

インターホン

 娘がひとり暮らしを始めて、もうすぐ一年になる。


「お母さん」

「葉月……久しぶり」

 深夜零時を少し過ぎた頃だった。

 娘からの着信を受けて、眠っていた私は目を覚ました。画面に表示された名前を見て、迷わず応答した。


 娘の葉月は、地元の大学を卒業したがまともに就職もせず、「何か成し遂げる」なんて曖昧な目標を立てて上京したのだった。

 そんな大雑把な彼女に私も夫も反対したし、娘はそれに逆らった。そして私たちから逃げるように、彼女は東京へと旅立った。

 そんな娘からの電話だ。一年ぶりに声を聞いた。

 出ていった当初は、私ももうこんな娘なんか知らないと冷たく突き放した。だがやはり、こんなバカ娘でも私の最愛の娘だ。

 夜の闇に飲み込まれた真っ暗な部屋で、私は電気もつけずに柔らかい声を出した。

「元気にしてるの? ちゃんとご飯食べてる?」

 もう怒ってないよ、と、伝わるように。

「いつでも帰ってきていいんだからね」

 今までと変わらない声で言った。


 が、葉月の声は震えていた。


「……お母さん……」

「うんうん。どうしたの。つらいことでもあったの?」

「あのね……」


 震える娘の声の向こうで、何やら甲高い音が微かに洩れて聞こえてくる。


 ピンポン、ピンポン


「あのね、さっきからインターホンが」


 ピンポン、ピンポンピンポン


「インターホンが、止まらないの」


 途端に、私は顔を顰めた。

「……何? ストーカー?」

「分かんない。心当たりない」

「家の鍵は?」

「かけた。チェーンもかけたし、窓の鍵も全部閉めてカーテンも閉めた。私……怖くて。今、布団にくるまってる」


 ピンポンピンポンピンポンピンポン


 音が、止まない。


「警察に連絡は?」

「してない」

「した方がいいわよ。こんな時間におかしいじゃない」

 ひとり暮らしの娘に何かあってはいけない。最悪なことに、娘は実家から遠く離れて暮らしている。親なのに、私は娘の元へ駆けつけることもできない。

 息を詰まらせる私に、電話の向こうの娘はふふっと笑った。

「……ありがとう。お母さんの声聞いたら、ちょっと安心した……」

 怯えきっていた彼女は、少しだけ落ち着いたようだった。

「とりあえず、ドアの覗き穴から外を見てみるよ」

「やめた方がいいんじゃない? どっちにしろこんな時間にインターホンを連打してる人なんておかしいじゃない」

 娘が落ち着いてきていても、こちらは気が気でない。

 電話の向こうの音はまだ聞こえてくる。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


「大丈夫。見るだけ。開けないから。ただのいたずらかもしれないし、もしかしたら、本当に困ってる人かもしれない」

 ゴソゴソ、ギシ、と音がした。娘が布団を這い出てベッドを降りた音だ。

 その向こうでまだインターホンの音がする。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


「お母さん、ごめんね」

 娘が泣きそうな声で言った。

「お母さんの言うこと聞かないで、勝手に上京したりして、ほんとにごめんね」

 話しながら、娘は玄関に向かっているようだった。インターホンの音が近づいている。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


 私は背中に酷く汗をかいた。

「そんなことは今はいいの。とにかくドアを覗くのはやめなさい。警察に連絡しなさい」

「大丈夫だって。鍵もチェーンもかかってるんだから」

 娘の足音と、インターホンの音を電話が拾う。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


「行っちゃだめ」

 私は夢中になって震える声を絞り出した。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


 娘が玄関に向かっていくのが分かる。

「行っちゃだめ!」

 葉月。

 どうしてあなたはそうなの。どうしてお母さんの言うことを聞いてくれないの。



 娘の声がした。

「あれっ……? 誰もいない」


 そして。



 ガチャ




「……えっ?」


 鍵がかかっているはずのドアが開く音と、娘の間抜けな声がした。

 ガシャンと携帯が床に落ちる音が耳を劈くと、それっきり、娘の声は聞こえなくなった。

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