Her Diary

常陸乃ひかる

Life manual

 六月下旬。同棲中のカップル。側で眠る飼い猫。書斎の片隅。間延びした空間。

 ふと女が、本棚の最下段の古びたノートのうち、一冊を手に取った。

 表紙には【よしの日記 ①】と書かれており、

「よしって誰?」

 目を細めて男に詰め寄った。昔の女に対する、未練の残骸だと疑ったからだ。

牛首うしくびよしの。それ、お婆ちゃんの日記で、わっちがもらったんだよ」

「よしの? あっ、お婆ちゃんっ子だったんだ」

「わっちが生まれた時を境につけ始めたみたい」

「読んでも?」

 女は疑念ではなく、今度は純粋に日記への興味を抱くと、男は手を差し出して肯定の意を見せた。



   7月 7日

  わっちの初孫はちいさな、ちいさな男の子。

  名前は七海(ななみ)にするようだ。

  なな って呼ぶことにしよう。

  同じ文字が並ぶと、ゾロ目みたいで縁起が良いだろう。



「なな。女の子みたいだね」

 女は、くすくす笑った。

「わっちも初めはそう思ってた」

 男は、はにかみながら苦笑した。

「全部で【よしの日記 ⑤】まであるね」

 きっと、これをすべて読んだら恋人のことを知り尽くせる。

 言わば恋人の解体新書。取扱説明書。虎の巻。恋人に関する見聞を広め、知的好奇心を満たしたい欲求から、女は【よしの日記 ③】を手に取り、

「恥ずかしいからあまり見ないで」

 という要求をニヤニヤしながら却下し、適当な位置を開いた。



   4月 15日

  三年生に上がったななが、べそかいて帰ってきた。理由は聞かなかった。

  するとななは、「ボクは体が小さくてイジめられる」とつぶやいた。

  わっちもよく昔は男子にからかわれたものだ。昭和の頃だがね。

  それを伝えた上で、口で言い負かす方法を教えた。

  相手も同じ人間だから弱点は必ずある、って。


   4月 19日

  ななが、また泣いてた。

  からかってきた奴に勇気を持って「デブ」と言ったら逆ギレされたって。

  でも相手が感情的になったら、こちらの思うツボなんだよ。

  どうして太っているか、説明してあげると良いよ。

  貧乏人はロクなものが買えないから食生活に問題がある。

  栄養不足でジャンキーな食事になり、太ってしまう。

  この負け組! って言うと良いよ。ななは強い子だから、きっと勝てるよ。


   4月 22日

  なな、泣いてばかり。

 「ボク、お婆ちゃんの言ったとおりやったら殴られた」

  って。まあ、そりゃあそうだろう(笑)

  だから今度は、わっちのスマホを貸してあげた。

  録音のやり方や、動画の撮り方を教えた上で。

  さあ、好きなだけ言い負かしておいで。



「心温まるお婆ちゃんの日記かと思ったら、悪ガキ育成日記だね」

「違う違う。わっちは合理的に生きる知恵をもらっただけだよ」

「このあとどうなったの?」

「今度は、動画を撮りながら口喧嘩で言い負かしたよ。案の定、そいつが殴りかかってきたから、『証拠映像』とか『警察』とか『裁判』とかの単語を説明的にチラつかせたら、半泣きで逃げてった」

「ヤな小学生……」

「でも立派な暴行罪だよ。ただの『イジメ』で片づける問題じゃない。世の中、それが原因でどれだけの子供が自殺してると思ってるの」

 男のぐうの音も出ない正論に、女は言葉を失った。他者を痛めつけて悦楽を得るのは人間のみにあらず。女は返答に窮し、別の日記に手を伸ばした。



【よしの日記 ⑤】


   6月 12日

  気づけば、ななは中学生。

  わっちが何度も相談に乗るうち、ななの性格は徐々に変わってった。

  ケンカをしない代わりに、理路整然と敬語でまくし立てる。

  面倒な相手には、110番で解決する。

  スマホを奪ってきた相手には、

 「動画が止まった時点で、もうクラウドに保存されています」

  と、常に相手の上をいく。

 「どれだけ費用や時間がかかろうと、裁判をしてキミを破滅させます」

  と、脅しをかける。

  嫌な子供だねえ(笑)


   6月 19日

  ななは勉強ができる子だから、もうイジめようとするヤカラは居なくなった。

  でも、代わりに誰も話しかけてこなくなったみたい。誰も。

  ななは自ら孤立を選んだみたいだね。

  これで良かったのかい?

  もしかすると、わっちのせいかな・・・

  さすがに反省しよう。


   6月 29日

  そろそろ、この日記も最後にしようか・・・

  ペンを握るのも、しんどくなってきたよ。

  ななは・・・もう強くなったよね?

  ねえ? この日記を見た、なな?

  イエスだったら、この日記を大事にしておくれ。

  ノーだったら・・・それなりに、この日記を大事にしておくれ。

  じゃあね、なな。大人になっても、元気でやるんだよ。



 女は思った。『結局どっちなんだろう……』と。

 男は笑った。『わっちはお婆ちゃんのお陰で強くなった』と。

「キミは、よしのさんのこと大好きだったんだね。あ、あのさ……わたしも、ななって呼んで良いかな?」

「うん。ありがと」

「七……! あのね、きっと……お婆ちゃんも七のこと――!」

「あ、そうだ! 今から行くところがあるんだ。今日はお婆ちゃんの……」

 と言いかけて、男は時計を一瞥いちべつした。

 女は、あの日記が途切れた日付と、本日の日付が近いことに気づき、

「ねえ、わたしも一緒に行くよ? 顔くらい見せてあげたいな……なんて」

 男の事情を悟りながら、なぜか泣きそうになるのを抑え、精一杯の笑顔で男の背中を押してあげようと思った。

「そっか。お婆ちゃんも喜ぶと思う」


 男がハンドルを握り、ハッチバックはゆっくりと駐車場を出てゆく。

 ここから近い霊園はどこだっただろう? 女がぼうっと車窓を眺めていると、車は最寄駅のロータリーに設けられた駐車スペースに停まった。駅の構内でお供え物でも買うのだろうか。女は黙って、スマートフォンを操作する男の動向を追っていた。

 ほどなく、雑踏の中から陽気に手を振ってくるひとりの女性が現れた。

 歳は五十代――いや、もう少し下に見積もっても良さそうだ。老婆と呼ぶには若すぎる女性は、手を何度も振りながら、この車の運転席側に歩んでゆき、わずかに開いた窓から、

「はーい、久しぶりの助! ななー、元気しとったかね! あっ、ちょっとカノジョ連れてきとるし! なにい、見せつけ? しかしどえりゃあ人多くて、ちいとばかり迷ったでのう。ほんでも、スマホ使いのシニアとしては孫になんて聞けんと思って、自力で来たんよ。あ、お土産の飛騨牛ひだぎゅう持ってきたもんで、今夜はみんなで――」

 キャリーケースの持ち手を握ったまま喋るわ喋るわ。

 女は嫌な予感を抱くとともに、

「テンション高っ! 恥ずかしいから早く乗ってよ、

「おば……え? ご、ご健在かい!」

 その人物の正体を知り、先ほどのしんみりした空気が恥ずかしくなった。

 だが、合点はいく。

 ここまでのやり取りを思い返してみると、男の祖母が死んだなんて情報はなかったし、お墓参りに行くなんて一言も口にしていない。そもそも男の地元は岐阜なので、祖母の墓地が都内にあるわけがないのだ。

「ごめん。お婆ちゃんが来るって、わっちも今朝知ってさ……言いそびれてた」

 男の特徴的な一人称は、祖母の影響だったというわけだ。

 謎が解けたと同時に、男にとって『彼女の日記』は、これからもバイタリティになるに違いないと、妙に納得してしまった。

「で、このお嬢さんの名前は?」

「あ、はじめまして。わたしは――」

 なにはともあれ、これから数日は退屈しなさそうである。


                                   了

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