たとえ忘れてしまっても
平 遊
会えばまた好きになるはず
(パスワード、なんだろう?)
最新の日記帳を前に、千春は深いため息を吐いた。
幼少期はごく普通のノートを日記帳代わりとしていたが、思春期を迎えた頃からはパスワード付きの日記帳を使っていた。
とはいえ、日記帳のパスワードは全て、千春の誕生日。
ただ。
最新の1冊だけはパスワードを変えてしまったらしく、何をどうやっても開くことができずにいた。
不注意で転倒し、頭部を強打したことで、千春はここ1~2年の記憶を失っていた。
医者からは『記憶はそのうちに戻る』とは言われたものの、いつ戻るかは分からないとのこと。
入社3年目の千春の記憶は、新人の頃にまで戻っている。
仕事自体は周りのバックアップのお陰もあり、どうにか馴染み始めていた。
「調子はどうだ?」
お昼休み。
同期の亮介が千春の部署に顔を出した。
亮介は、千春にとって一番気が合う同期だ。
最新の1冊手前の日記にも、亮介とは仲が良かった事が書かれている。
それからもう一人。
彰良とも。
仕事終わりには、3人で飲みに行くことも多かったらしい。
「うん、上々」
亮介は頻繁に千春の様子を見に来た。
彰良を始め、他の同期ももちろん気にかけてくれてはいたが、亮介の頻度は群を抜いていた。
「帰り、一杯どう?」
「うん!」
「じゃ、後で」
そう言って、亮介は自分の部署へと戻って行く。
千春も席を立ち、お昼ご飯を買いに外へ出た。
「じゃあ、今は2年目くらいな感じか?」
「だね」
適当に頼むからな、と亮介が注文したつまみは、どれも千春の好きなものばかり。
(亮介といると、何だか居心地いいしホッとする)
「彰良も誘ったんだけど、上司に捕まったってさ」
カウンターに並んで座りながら、ビールを喉に流し込む亮介の横顔を見つめる内に、千春は今のこの気持ちを亮介に伝えたいと、ふとそう思った。
「亮介だけだよ」
「何が?」
「こんなに私のこと気にかけてくれるの」
亮介は黙ったまま、再びビールのジョッキに口を付ける。
「みんなね、入れ替わり立ち替わり来てくれるんだけど。なんでかな」
急に鼓動が早くなったような気がして、千春もビールを口に流し込む。
「亮介が来てくれると、一番ホッとするんだ」
言い終わってから、千春はハッと気付いた。
(これって・・・・告白みたいじゃないっ?!)
焦って亮介を見ると、亮介は穏やかな笑顔で千春を見ている。
ふぅっと息を吐き、千春は慎重に言葉を選んで言った。
「私達って、さ。仲、良かったんだよね?」
「うん」
「それはつまり、その・・・・」
空になった千春のビールジョッキに気付いた亮介が、通りかかった店員にお代わりを注文する。
「親友・・・・的な?」
千春のお代わりのジョッキを店員から受け取り千春の前に置きながら、亮介は言った。
「・・・・そうだな」
やや伏し目がちながらも、亮介は口元に笑みを浮かべている。
千春はホッとして、早速ビールに口をつけた。
「うわっ、キンキン!ビール最高っ!」
そんな千春を、亮介は笑って見つめていた。
(ほんとなんだろう?このパスワード)
相変わらず、千春は未だ最新の日記を読めずにいた。
同期の1人に言われた事が、気になって仕方が無い。
『大丈夫か?【好きな人】のことまで忘れてないだろうな?』
聞けば、その同期は千春が記憶を無くす数日前に千春に告白をし、『【好きな人】がいるから』と断られたと言う。
もしかしたら、親友の亮介なら知っているかもしれないと聞いてみたのだが、
『本当に好きなら、全て忘れてしまっても、会えばまた好きになるはずだ。未だにその人がわからないなら、まだ会っていないか、それほど好きじゃなかったかの、どっちかだろ』
などと言われる始末。
確かに亮介の言う事はその通りだと、千春も思う。
亮介には『気にするな』と言われたものの
(無理だよ、そんなの。だって、その私の【好きな人】がもし、私からの連絡をずっと待ってたら、どうするの?!)
と、手持無沙汰に日記帳の入力キーパッドを弄っていると。
カチリ。
錠の外れる小さな音が聞こえた。
「えっ?!」
千春の目の前で、ゆっくりと日記帳の表紙が浮き上がる。
「開いたっ?!」
無意識で入力したパスワードを覚えているはずもなく、悔しくは思いながらも、千春はさっそく日記の内容に目を通した。
「・・・・えっ?!」
読み進めていく内に思わず声が漏れたが、千春の耳にはその声さえも入らない。
(どういう事、これ)
食い入るように全てに目を通し終え、千春は呆然と天井を見上げた。
そこに綴られていたのは、千春の亮介への想い。
亮介と過ごした時間の数々。
親友なんかではない。
それはまるで・・・・
(私の好きな人って、まさか・・・・)
目を落とした日記の最後の一文。
そこには、まぎれもない千春の字で、こう書かれていた。
”ほんとにもう、亮介大好きっ!”
「調子はどうだ?」
亮介は変わらずに、時間を作っては千春の様子を見に顔を見せる。
「うん、上々」
亮介が来る度に感じていた高揚感と安堵感。
(そっか、だからだったんだ)
分かった今なら、それら全てに納得ができた。
ただ、納得できないことがひとつ。
(どうして『親友』だなんて認めたの?もしかして、好きだったのは私だけだってこと?)
当たり前の事ながら、日記には亮介が千春をどう思っているかは書かれていない。
(ねぇ、亮介。本当に私達『親友』なの?もし違うなら、私・・・・)
『本当に好きなら、全て忘れてしまっても、会えばまた好きになるはずだ。未だにその人がわからないなら、まだ会っていないか、それほど好きじゃなかったかの、どっちかだろ』
亮介の言葉が頭に響く。
(私が気付くの、ずっと待ってたの?このまま気付かなかったら、ずっと『親友』でいるつもりだったの?)
「ちっは~るちゃんっ♪」
ぼーっとしている千春の前に、ヒラヒラとかざされる手のひら。
気づくと、彰良がそばに立っていた。
「どした?ぼーっとしちゃって」
そういえば、と千春は思い出す。
最新の日記には、亮介とのことを彰良によく相談に乗ってもらっていた事が書かれていた。
「彰良さ、今日時間ある?」
「ん、あるよ。飲みにでも行く?」
「うん」
そう言えば、今までに何度もこんな場面があったような気がする。
千春はぼんやりとそんなことを思った。
「ばっかじゃねぇの、あいつ」
話を聞き終えると、彰良は呆れた顔でそう吐き捨てた。
「ほんと、どんだけ不器用だよ」
「うん・・・・」
「千春もなっ!」
「・・・・うん」
宙を睨む事数十秒。
彰良はスマホを取り出し、電話をかけ始める。
「あ、亮介?オレ。うん、ちょっとお前に嬉しい報告があんだよ。いつものとこ、来られるか?うん、じゃ、ダッシュで来い!」
電話を終えると、彰良はニヤリと笑った。
「今から千春は俺の彼女だ」
「・・・・はっ?」
「亮介はお前の『親友』だって言ったんだろ?本当に『親友』なら、同じく『親友』の俺と千春の交際、祝えるはずだよなぁ?」
それからいくらも経たないうちに、亮介が店へとやって来た。
本当に急いで来たのだろう、髪の毛が乱れていた。
「なんだよ、嬉しい報告って」
4人掛けの席で隣同士に並んで座った彰良と千春の前に座り、亮介は生ビールを注文する。
「実はな、オレ達」
亮介の前で、彰良は千春の肩に手を回し千春を抱き寄せる。
「付き合う事になりましたーっ!」
瞬間。
亮介の表情が固まったように、千春には見えた。
だがちょうどその時運ばれて来たビールにハッと我に返ったようで、次の瞬間には穏やかな笑顔など浮かべている。
「そっか。それはおめでとう」
そう言って、亮介はジョッキを軽く持ち上げる。
その、亮介の瞳。
千春は気付いた。
(ガラス玉みたい)
「ほんとかよ、亮介。お前、心から祝福してくれてるか?『親友』として」
彰良も気づいているのだろう。
畳みかける様に、亮介に言葉を投げかける。
「なぁ、本当に、本気で祝えるのか?オレ達のこと」
堪りかねたように、亮介の目が固く閉じられる。
そして、次に開かれた亮介の瞳は。
「祝える訳、ないだろっ!」
怒りを孕んで、彰良を睨みつけていた。
「ばーかばーかばーか」
「うるさいな」
「ここ、お前の驕りだからな」
「分かったよ」
「だって。千春、いっぱい食べよ♪」
久し振りの、亮介と彰良と千春の3人の飲み会。
亮介は、彰良の隣から千春を移動させ、しっかりと千春の隣の席をキープしている。
「ほんと、どんだけオレに世話焼かせる訳?奥手も大概にしろよな」
「いい加減怒るぞ」
「千春もっ!いくら記憶無くなったからって、『親友』は無いだろ・・・・それ、好きな男に一番言っちゃいけないヤツ」
「・・・・ごめん」
「まーいいけどね、オレは。タダ酒飲めるし♪」
ご機嫌な彰良は、調子に乗ってビールを飲み過ぎたのか、『ちょっとトイレ』と言って席を外した。
「知ってたんだ、千春が日記書いてるの」
ポツリと亮介が言う。
「え?」
「だから、なんで今更『親友』なんて言うんだろうって。でも千春がそう決めたなら仕方ないって、思ったんだ」
「そっか」
亮介の真意に触れ、千春はようやく納得した。
そして、自分の迂闊な発言に、心から反省をする。
「ごめんね、亮介。実は最新の日記帳のパスワードが全然分からなくて、最新のだけ読めなくて」
「たぶんそれ、俺の誕生日」
「えっ?」
「前に千春、そんなこと言ってた気がする。でも、じゃあよく読めたな」
「うん、なんか無意識で弄ってたら開いた」
「指が憶えてたのかもな」
ニコッと笑う亮介の笑顔に、千春の胸の鼓動が高鳴る。
「あれ?オレもしかしておジャマ虫?」
トイレから戻って来た彰良が、ジト目で亮介と千春を見るが、
「あーそうだ。早く帰れ」
構わず亮介がそう返す。
「なんだとっ!すいませーんっ、生中お代わりっ!」
「こいつ、置いて帰るか」
「じゃ、私もお代わり」
「千春、飲み過ぎ」
ジョッキを持ち上げる千春の手に、亮介の手が重なる。
「・・・・ったく、目の前でイチャつくなっつーの」
彰良の声に、亮介と千春の頬が朱に染まった。
【終】
たとえ忘れてしまっても 平 遊 @taira_yuu
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