失われた孤島
石田宏暁
日記
海底神殿から出土したのは、古代の瓦礫のようだった。僕はそいつをスキャンするように指示され、何の気なしにエックス線分析装置からガスクロマトグラフへと動かそうと席を立った。
手にした瞬間には、もう気を失っていた。目がさめたのは地中海に浮かぶ古代の島だった――。
そう分かったのは星座や気候、生物が僕らの住む世界と同じだったからにすぎない。時代を古代と決めているのは文明が未発達だからだけで、確たる証拠は何もなかった。
※
船乗りは魚や果物をたらふく食べるが、商品にはなるべく手をつけない。この仕事について五年、相棒の老人ザイクは僕を一人前の
「ヒロ、お前もいい歳だ。そろそろ身を固めたらどうだ」そう呼ぶザイクの声は掠れていた。「それとも南に気になる娘でもいるのか?」
「いないですよ。ただ……僕は
五年より前の記憶はなかった。いや、正確には別の記憶を持っていた。僕の世界では男性はこんなスカートを履かないし、風に頼った小船ではなく石油とスクリューで動く船が当たり前だった。
「そう思っているのはお前だけだろ。ちゃんとこの島で生まれた日を儂は知っておる」
「そ、そうでしたね」
今では島の記憶のほうが色濃く残っている。「自分はだれで、どこから来た」という疑問は、温かい家族のように接してくれた漁村の皆によって過去の記憶となっていった。
「みんな! お爺さんとヒロが戻ったわ」
小船は風をきって走った。温かい日差しと灰緑色の海、波打ち際には点々と漁村があって空の籠をもった漁婦と美しい娘たちが待っていた。
「儂の娘じゃが、ありゃお前に惚れておるな。まだ自分のことを他所者だと感じとるなら、そりゃ結婚していないからじゃないかの?」
「な、なんですか急に。あんな美人な娘さんが、僕なんかを――」
言葉に詰まった。老ザイク自慢の娘が満面の笑みを浮かべて手を振っていた。未だに自信が持てないのは、過去に囚われているからかもしれない。
「そう思っているのはお前だけだよ。この島での仕事ぶりも、儂はちゃんと見ておる」
二十四年を過ごした元の世界は、僕にろくな仕事も人間関係も与えなかった。四角いモニターを見つめて、四角い部屋に閉じ籠り、ただ時間と金を稼ぐためだけに仕事をこなしていく日々。
この島の生活を受け入れて、初めて自分が生きていることを実感した。だが、今のままでは健全ではないと思った。
「ありがとう、ザイクさん。僕、がんばります。山の民とも交流して、漁村を大きくしてみせます。この美しい島と、みんなが幸せに暮らせるように頑張ります」
「ああ、知っておったよ、ずっと前からな。お前さんなら出来るさ。だが、娘を不幸にはするなよ、そのときは容赦せんぞ」
「アハハハ。勿論です」
島での生活は楽なことばかりではなかった。怪我や病気、食糧や船乗りの生活は常に危険と隣り合わせだ。だが人は痛みにも苦労にも愛着を持つのだとを知った。絶望にさえも。
「ボロ家でごめんよ、ユリ。薄暗くて少しお化けが出そうだけど」
「ふふっ、貴方が明るくして。でもヒロの話しは難しくって面白くないし、島のダンスも踊れないし……ビビってるの?」
「アハハ、言ったな、怖くなんかないさ。君のことは少し怖いけど」
「アハハハハ、言ったわね!」
山の民は残虐で小さな漁村や教会を見つけると略奪し、女や子供をさらうと言われていた。だが最も恐ろしいのは不安定な活火山が時折、地面を大きく揺らすことだった。
「パパ、ザックが私のオモチャを取ったの」
「やあリアナ、木彫りの動物だったらまた新しいのを作ってあげるよ。ザックは小さいんだから、譲ってあげよう」
五年後には、ふたりの子供に恵まれていた。女の子と男の子だ。やんちゃで目が離せなかった。いや、可愛くて愛おしくて、ずっと見ていたかったのかもしれない。毎日が充実していた。
この島に文字や金銭という概念は無かった。どうしても忘れたくないことは、胸に飾った鈍色のペンダントに刻むのだとユリは言った。文字ではなく心で。
「昨日はだいぶ揺れたのぉ」老ザイクは小屋を覗き込んで言った。「おい、ヒロ。その準備は……山の民に合うつもりか?」
「はい」僕は穀物と毛皮をズタ袋いっぱいに入れて背負っていた。「崖が崩れて、山から煙が出ています。山の民の被害がどれくらいか見ておきたくて」
「何を考えてるか分からん連中だぞ。お前さんは、まだ山の民と交流を……あの約束を覚えていたのか。そんなことはせんでもいい」
「いえ、これは島の住人すべての問題です」
「……分かった。儂も行こう」
この痛みが過ぎ去っていくという事実に僕たちは愕然とする。そのうちにすべてが本当に終わってしまうことを知っているからだ。
五年かけても、山の民との
「運び屋のヒロか」山の民の首長アラクは言った。
「漁村では
「変わった道具で怪我人を助けてくれたそうだな。崖崩れの日には、食糧も運んでくれた。あれは一体なんだ?」
「大きな車を回してロープを巻き上げ、荷物の上げ下ろしに使いました」
「ほっほう、娘が高熱を出してるそうじゃないか。山に伝わる薬草だ。今すぐ何人かを漁村のほうへ送ろう。お前が良ければだが……」
「ほ、本当ですか。それは助かります」
疫病に倒れかけていたリアナが助かったのは山の民のおかげだった。
舞い上がりたい気分だった。青虫が世界の終わりと感じるとき、蝶は新しい世界へと舞い上がる。小さな優しさが、やがて島中に平和をもたらしたのだ。
ユリと出会ってから三十年たっていた。
「ついに大型帆船の製造作業がはじまるんだな、ザック!」
「ああ、父さんがずっと言ってたろ。この島の火山はいつ噴火するか分からないって」
「ああ、ザイクと僕は何度も火口を訪れた。そしてずっと火山の研究してきた。もう時間はないぞ」
だが、ザイクは違うと言った。「儂はいい息子を授かった。この仕事は天職かもしれん。お前さんは出会い、別れ、富める者から仕入れ、貧しい者へ与えた」と。
小船を自由に乗り回し、島全体の幸せを願った。山の民にも偏見を持たず、僅かな食糧を持って駆けつけた。誰でも出来ることではない。
「一年で完成させるよ。父さんが描いてくれた図面で、俺が造るんだ。きっと地のはてまで行ける帆船になるよ」
「アハハハ」
ザイクのおかげで息子は帆船を造ることが出来ると思った。時間は過ぎ去り、地殻変動の予見された数日前に、ザックと島の若者四十名を乗せた帆船は出航した。
「父さん、母さん! 必ず新しい土地を見つけて帰ってくる。何年かかっても、必ず――」
「いけ、ザック。いけリアナ!」
僕とユリは島に残ることを選んだ。この島を離れることで何らかの結論が引き出されるのを、恐れたからだった。あるいは最期のときを、愛する妻ユリと静かに過ごしたかっただけかもしれない。
最期の日。火山から真っ赤な炎が巻きあがった。大地は揺れ、空は闇に覆われた。僕は妻の手を取った。ふたりの指の間には鈍色の石があった。
「あの子たち、無事かしら」
「こんな緊急時にも子供の心配かい? きっと無事さ。ユリ、今までずっとありがとう。僕は別の世界の話ばかりしていたね。ずっとそんな話に付き合って、君は嫌な顔ひとつ見せなかった」
「うん、好きだったもの。貴方の話は悲観的なものばかりじゃなかったわ。別世界の話は皆が聞きたいと思ったのよ。だからザイクは貴方を
「そうだったのか」
「子供たちは木彫りの動物を見て、外界に興味を持ったわ」
「ああ、この島は沈むけど、僕は忘れたくないんだ。美しいこの島のこと、美しい君を。ザイク爺さんも、アラク首長も、もちろんリアナやザックのことも」
「ヒロ、愛してるわ……」
「ヒロ……」
大気が濁り、空に暗雲がたちこめていた。少しずつ僕の感情、僕の願望、僕の記憶が消えていった。
※
「……」
「ヒロくん」
「ヒロくん、ヒロくん!」
「はっ!」僕は四角い研究室で教授に肩を掴まれていた。
「大丈夫かい。急に倒れて、どうしたのかと心配したんだぞ」
「ぼ、僕は……どれくらい気を失っていたんですか、十年、二十年ですか!?」
「何を言ってるんだ。ほんの五分程度だよ。一度、医療室へ行ったほうがいい」
「……」
僕が島で過ごした三十二年は、こちらではたったの五分程度だった。四角いモニターには、あの島でユリと握った小さな石が映し出されていた。
ユリ……リアナとザックは、二人は無事に安全な島へ渡れただろうか。あの石は、あのペンダントだ。沈んでしまって誰の記憶にも残らなかった島の記憶だ。
美しくて儚い命に溢れた孤島。伝えたかったのは、かけがえのない、ありふれた日常、日々の記録だったのだ。
僕の手は震えていた。悲しみの苦しさが溢れ出し、胸が潰れてしまいそうで涙が溢れた。あの島に帰りたい、ユリに会いたいと心から願った。
「あ、あ……ああ……ああ」
絶対に忘れたくないことは石に刻むのよ。文字ではなく心で――。
「……あ、ああ、ああ」
「大丈夫かい?」
「あ、ありがとう……そう言いたかったんです」
END
失われた孤島 石田宏暁 @nashida
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