忘却日記 あるいは乗り越えること

@aqualord

第1話

「と、いろいろ書いてきたが、全ては嘘である。

言い換えれば私の妄想だ。

面白かったかな?」


私は最後のページにそう記した。


私は、「今日の夕食は美味しかったが量が少なすぎだ」、だの、「妻から嫌みを言われて腹が立った」、だの、「部長が取引先を怒らした責任をおっかぶせてきた、なんてひどい奴だ」、だのと日々の不満をここに書き連ねてきた。


自分自身に課したルールで、いったんここに書いたら、もうそのことは忘れて前向きに生きていく、そのための日記だった。

いきおい、ここには良い事なんてひとつも書いていない。

もう30年ほど書き続けてきたこの日記を、私は「忘却日記」と名付けていた。


10年ほど経ったあるとき、私はこの日記の効用がもう一つあることに気付いた。

読み返してみると、私が乗り越えてきた、いろいろな不満や問題が逐一が書かれていたのだ。

つまり、わたしは、これを全部乗り越えてきたということになる。

だから、次に私の身に降りかかることも,私はきっと乗り越えることが出来る。

私は妙な自信をこの日記からもらうことができるようになった。


こうして私の日記は日々増え続けた。

また、2つ目の効用から、私はこの日記を捨てることが出来ず、ずっと手の届くところに保管していた。


その結果、人生の最後になって、私は家族に,私の不満だけが綴られた日記を遺していくことになると気付いた。


恥ずかしい。いやそれ以上に、家族に対して見せていたのと異なる自分の姿を知られることが辛い。


だが、ベッドから動けなくなってしまい、そのまま死を迎えることが間違いなさそうな私には、もう家に戻ってノート何冊もの日記を処分することなど叶わない。


悩んだ挙げ句ひねり出したのが、全てをひっくり返してしまう、魔法の言葉、すなわち、「全ては嘘。言い換えれば私の妄想。」という言葉だった。


願わくば、家族が、この言葉の意味を掬い取って欲しいと思う。

人生最後に私が乗り越えるべき問題がどうかこれで乗り来られますように。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

忘却日記 あるいは乗り越えること @aqualord

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ