榊原信夫の「ベスト」な選択

結騎 了

#365日ショートショート 087

 握られた灰皿から、ぽつり、ぽつりと、滴り落ちていた。

 遠くで聞こえるサイレンがこちらに近づくことはない。一瞬のようで、永遠のようで。ほんの数分の間に、人生を何周も繰り返したような……。そんな錯覚から、はっと目が覚めた。

「ああ、どうしよう」

 舞台俳優の榊原信夫は、やけに落ち着いていた。血まみれの死体を見下ろしているとは思えない、ゆったりとした声だった。

「こんなことまで、しなくてよかったのに。だってあなたは、あなたは……」

 部屋の隅で震えているのは、女優の円華だった。横たわり、頭がへこんで動かなくなっているのは、彼女のマネージャーである。円華と恋仲にある信夫は、この日、マネージャーを灰皿で殴り殺した。

「仕方ないだろ。事務所の立場を利用して、君にストーカー行為を働き、ついには強姦しようとしたんだ。こうする他になかった」

 円華の家を訪れた信夫は、奥の部屋から小さな悲鳴を聞いた。靴も脱がずに駆け込み、事態を目撃した次の瞬間、そばにあったガラス製の灰皿を手にしていた。清楚可憐だと世間から持て囃される円華の、密かな趣味。それは、煙草を楽しむことだった。外では決して吸わない、彼女の大切な秘密。本人の他には信夫だけが知っていた。

「私が自首するわ。こんなことになってしまったのも、私の責任だもの」

「いや、待て。君には入院中の母親がいるだろう」

 信夫は知っていた。円華の母親が難病を患っていること。親族はもう円華だけしかいないこと。彼女が母親を生かすために女優をしていること。

「ここで君が捕まったら、お母さんはどうなる。それに、手を下したのは僕だ。僕が名乗り出る他あるまい」

「で、でも……。あなただって今が一番大事なのに」

「心配なのは、世間の声だ。僕が捕まるのは構わない。しかし、君のイメージに傷がつくことは免れないだろう。それで仕事が減ってしまっては、申し訳が立たない」

「そんなこと気にしないでよ、もう!」

「気にするさ。僕は君の恋人であり、君のファンなんだ。そして、君が嘘をつけない性格であることも知っている。僕の代わりに自首をするなんて無理だ。世間に隠し通すことだって、君には向いていない。君は、正直に、君のまま生きるんだ。煙草だって堂々と吸えばいい。変えられない事態は変えられないんだ。そうさ、変えるべきは……。その方法を、考えるんだ」

 信夫は宙を見つめ、考えを巡らせた。円華は顔がくしゃくしゃになるほど泣いている。死体から流れる血が、ゆっくりと廊下を伝っていく。フローリングの筋に血が通っていく様は、皮肉にも輸血ケーブルのようであった。

「よし、こうしよう。三日だ。三日、待ってくれ。そうしたら僕は警察に名乗り出る」

 信夫は、指をこきりと鳴らした。


【緊急出版】『濡れた灰皿』舞台俳優・榊原信夫の日記 ~犯行から自首まで、三日間の軌跡~

「印税の使い道を聞いた時、思わず胸が熱くなりました」―編集者

「“彼女”の喫煙姿に、我々はこれから、どう向き合うべきでしょう」―構文社社長

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