真夜中の金魚ちゃん

古川

ε( ε ˙³˙)з


 真夜中、研究室の金魚ちゃんが姿を消すという。藤村さんの話だ。


 金魚ちゃんというのは藤村さんが研究のために飼育している金魚のことで、同じ種類の赤いのが全部で五匹。五匹とも全部、金魚ちゃんと呼ばれている。

 藤村さんというのは大学の先輩で、藤村虹子さんという名前。金魚愛がすごいことで有名な人で、つかまると長いこと金魚話をされるので気を付けろと、他の先輩から聞かされていた。


 特別突き詰めたいテーマもない僕は、ゆるゆる好きにやらせてくれる教授の研究室を希望し、無事配属。その初日に研究室内で藤村さんに会った。

 僕の普通の挨拶に、藤村さんは「ん」と挨拶を返してくれた。むきたてのゆで卵みたいな輪郭に、潔いショートカットがよく似合う人だった。

 その後、各々の資材の並ぶ棚に自分の荷物を入れ込んでいると、その一角に金魚の水槽があった。これがそれかぁ、と思っていると、背後から声。


「どの金魚ちゃんが好き?」


 驚いて振り向くと、藤村さん。しまった、と思った時には遅かった。その後、金魚話を一時間近くされた。

 専門的なよくわからない話もあれば、世界各国の金魚にまつわる昔話のような雑学までいろいろ。長い坂道をぐんぐん下りていく自転車みたいな、風を切るような疾走感に溢れる喋り方で語ってくれた。

 僕はその風圧にやられて、合間に相槌を挟むのがやっとだった。見かねた他の先輩が無理矢理止めたから一時間弱で終わったけど、誰も止めなかったら止まらなかったと思う。


 水槽内にいる金魚は全部リュウキンという種類で、いかにも金魚という形の丸っこい体に、ひらひらと薄っぺらい尾びれをつけたやつだった。赤とオレンジの間のようなきれいな色をしている。


「この子の尾びれいいでしょ? 丸みがあってキュートなんだ。この子は先が尖っててかっこいい系」


 僕にはどれもただの金魚にしか見えなかったけれど、藤村さんには個体の判別ができるらしい。


「それぞれ名前付けてるんですか?」


 僕は聞いてみた。すると「ないよ」との回答。


「愛着が湧いてしまうのでね」


 愛着ならもうめちゃくちゃ湧いてる感じだったが、実験に使うのだからペットとは違うのだ。結果によっては死なすこともあるし。

 すっかり愛でているのに、そのへんの線引きはしっかりしているらしい。おもしろいな、と思った。


 配属初日の金魚レクチャーを一通り聞いた功績か、藤村さんは僕を話し相手として気に入ってくれたようで、その後も金魚の話から金魚以外の話までいろいろ聞かせてくれた。生体模倣に繋がる金魚の呼吸運動の研究をしていることや、髪を切るのは地元にある行きつけの美容院だということ、いちごは残すけどいちごのショートケーキが一番好きだということなんかも話してくれた。

 喋っていない時は普通の真面目な人だった。悩むと目をこする癖があって、よく論文とかデータとかを相手にぐりぐりこすっていた。僕のパソコン越しにそれが見えると、またやってる、と少し嬉しくなったりした。あとよく襟足のところに寝癖を付けていた。右に跳ねていたり左に跳ねていたりするので、今日は右か、なんて楽しんでいた。

 そんなある日に藤村さんから聞かされたのが、真夜中に金魚ちゃんが消える、の件だった。


「夜、一匹だけ実験用の水槽に移してデータ取ってたりしてたんだ。それでふといつもの水槽を見たら、残りの四匹がいるはずなのに、三匹しかいなかった」


 窓が開いてたんだよ、と藤村さんは声を潜めた。


「つまり、飛んでったんだ。外に」

「まさか」


 僕は笑った。藤村さんは外に行ったと思われる金魚ちゃんを探しに、夜の中を走り回ったんだそうだ。夜が苦手な藤村さんはすぐに力尽きて研究室へ戻り、仮眠用の椅子で寝てしまったらしい。朝には金魚ちゃんは元通り五匹になっていたのだという。


 事実も空想も、全部同じ温度で喋る藤村さんだ。でも今回のはあまりにファンタジックなので、僕はどうにも勘繰ってしまう。藤村さん、夜の研究室で僕と二人っきりになりたかったのかな。きっとそうだ。可愛いところもあるじゃないか。


 デスクライトだけを灯した夜の研究室。いつもと違う雰囲気に心がざわざわしているのは僕だけのようで、藤村さんは普通に眠気に襲われてうとうとしだす。

 金魚には浮き袋があって、それは水中でバランスを取るためのものだけど、うまく膨らませるようなことができれば、ひょっとしたら空も飛べるのかもしれない、そんなようなことを眠そうな顔で喋る。


「寝てていいですよ。金魚ちゃんが水槽から浮かび上がったらすぐ起こしますから」


 みかねて言うと、藤村さんは、ありらと、と言った。ありがと、だと思う。眠過ぎて呂律がおかしい。


「眼鏡くんて、見かけによらず頼れるれ」


 眼鏡くん。僕のことだ。藤村さんは僕を名前で呼んだことがない。


「藤村さんて、僕の名前知ってます?」

「えーと忘れた。私、人の顔と名前、覚えらんなくて。特に君みたいな没個性系は」

「悪口だ」

「ふ。君の特徴はさ、眼鏡じゃん。だから、眼鏡くん」

「他にもいるじゃないですか、眼鏡の人」

「うん、眼鏡くんというカテゴリーに、何人もいるってころ……」


 寝た。僕は一人残される。

 つまり、生物分類学的階級で言えば僕は、脊椎動物門>霊長目>ヒト属>ヒト、の中の眼鏡くんというカテゴリーの中の個体、ということだ。これは、脊椎動物門>コイ目>フナ属>キンギョ、というカテゴリーの中の金魚ちゃんと同じ階級だ。藤村さんの中で、僕に名前はない。


 この点に関して、僕はずっと不満だった。金魚は個々に見分けられるくせに、僕は眼鏡くんの中に属する眼鏡くんでしかなく、個として認識されない。

 いよいよ悔しかった。それでしっかり自覚するけど、僕は藤村さんが好きなんだ。なんとかその他の眼鏡くんを出し抜いてトップオブ眼鏡くんになる方法はないだろうか。

 机に突っ伏して寝ている藤村さんのつむじを見ながらぐるぐる考えていた。その隙に、金魚ちゃんが消えた。


「いない、いなくなってる! 藤村さん!」


 藤村さんの肩を揺さぶる。ほんとだった。ほんとに、金魚ちゃんは消えるんだ。なんだよ。僕と二人きりになるための、藤村さんのファンタジックな嘘かと思ったのに、なんだよほんとに消えるなよ金魚ちゃん。


「金魚ちゃーーーん!」


 街のはずれの大学だ。こんな真夜中にはすっかり車通りも少ない。月もなく、街灯だけがぽつぽつと明るい。春の終わりはまだ寒く、冷たい空気がしんと沈んでいる。僕と藤村さんはその中を走った。


「金魚ちゃーーーん!」


 藤村さん、必死だ。飛んでいったと仮定して、上空に向けて金魚ちゃんを呼んでいる。反響するものもなく、その声は暗い夜空に消える。

 疲れて道端に座り込んだ藤村さん。ああぁ、と息を吐く。


「やっぱり名前付けとくべきだった。空飛べるんだもん、ひょっとしたら名前聞きつけて、返事くらいしてくれたかもしれない」

「まぁ確かに。大事な個体には付けといた方がいいかもですね」

「今付けるよ。金太郎にする」


 さっそく、金太郎ーーー!と叫び始める藤村さん。あぁそうか。同じカテゴリーに属する個体よりも際立ってユニークなことをすれば、他とは違う特別な個として認識してもらえるのか。

 水槽から飛び出して空を飛ぶくらいの、インパクトのある何か。例えば、今の僕にできるのは……。


「藤村さん。こんな時になんですが、僕、藤村さんのこと、す……」

「……え?」

「す、隙あらば見てるんですけど、いつも寝癖ついてますよね」


 うん、やっぱ突然告白とかは無理だ。僕はこんなだから眼鏡くんの中の眼鏡くんでしかないのだ。

 藤村さんは寝癖の指摘に慌てて側頭部あたりを押さえた。でもすぐに僕の背後を指差し、んあっ!?と声を上げた。


「金太郎!」

「えっ!?」


 藤村さんの指さす上空、夜空をバックに、金太郎が浮かんでいた。水中でそうするのと同じ要領で、尾びれをゆらゆらさせながら気持ちよさそうに飛んでいる。

 僕らは顔を見合わせた。藤村さんは見たことないくらい目を見開いていた。それから、でかい花火が打ち上がるみたいな顔で笑った。

 

 俄然猛烈研究モードに突入した藤村さんの背中を、僕はそれこそ金魚のフンみたいについていった。金太郎はもうそこらへんを一回りしてきたのか、大学の方に戻っていっているようだった。ひとまず無事に水槽に戻るまでついていくことにした。

 なんだかよくわからないが、真夜中にはこんなことも起こるだろうと思った。いろんなものが泳ぎ出しそうな、水槽の中みたいな夜だった。


「眼鏡くん、ありがとうね」


 ほとんど悲鳴に近い歓声を上げながらの観察の合間、藤村さんが僕を振り返った。


「僕は別になんにもしてませんよ」

「私の話を信じてくれた」


 あ、すみません、半分は信じてませんでした。とは言えず、はははは、と笑ってみせた。


「眼鏡くんて、名前なんだっけ?」

「え、なんですか急に」

「私の話ずっと聞いてくれるの君だけなんだ。これから飛ぶ金魚について調べなきゃだから、私また頭フル回転になってお喋りになる予定だから、よろしくって言いたくて」


 なるほど。藤村さんの研究への情熱は好奇心や探究心をエネルギーとしていて、それが回転率を上げれば上げるほど熱量と速度が上がって、同時にお喋りの排出量も増えるというわけらしい。まったく正しい命の燃やし方だ。僕はただ、了解です、と頷いた。


「で、なんだっけ名前。高橋?」

「惜しい。橋本でした」

「おっけ、橋本くん」


 頭上の街灯が、藤村さんの笑顔をぽわんと照らす。今日の寝癖は左跳ね。


 僕には水槽を飛び出すほどの勇気も爆発力もないから、日々小さなファインプレーを積み重ねていくことにする。ひとまず名前を獲得し、藤村さんの分類階級の中の「橋本」に属することに成功した。上出来だ。


 金太郎はゆらゆらと真夜中を泳いでいく。透ける尾びれがきれいだ。

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真夜中の金魚ちゃん 古川 @Mckinney

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