ARUKAS

上田 直巳

落月


月がわら静寂しじまの上を、一艘いっそうの小舟がすべる。


キイィ……。キイイィ……。


かいの音を引き摺って、二人の影を連れてゆく。


あとはみな、寝静まり、風の音さえ遠い空。


くらい水を湛えた縁には、桜が連なり、競うように枝を伸ばす。

誘いか、救いか、弔いか。


櫂の音が止む。あとはただ、流れに任せて。

桜のしとねを切り裂いて。


ゆく春を、惜しみてまた、ひらり。


応えるように、少女は両手を差し出した。


「おはな、きらきら」


風もないのに花弁を散らす。

ひとつ、ふたつと、湖面に降りる。


「美しいと、言うのだよ」

「うつくしい」


その言葉を繰り返し、やがてことりと、小さな顔を倒した。


「ザイも、うつくしい、です」


少女の言葉に、ザイは瞠目し、それから己の姿を見下ろした。

白妙の衣にかかる長髪が、月の光を宿して揺れる。


「これのことかい」


少女はまた、ことりと首を傾げる。


「ザイは、かみではないのです」


それも、道理だ。


しづしづと、花は散る。


「美しい、か」


その言葉をまた、口に乗せた。


桜の花の、散りゆくもののあはれを知らぬ。

月ならば、夜毎欠けるが。

己はどうか。


舟底から白い盃を拾いとる。

少女は瓢箪ひょうたんに手を伸ばす。


かしこみて、寿詞よごとを唱え、ことり、ことり。


少女の小さな手が震える。

トクトクと、脈打つように盃は満ちる。


ふわり、華立ち昇る。


うすい盃に口づける。するりと流れて、落ちてゆく。

黒き洞を落ちてゆく。

ただ香りとどめて。


「もひとつ、どうぞ」

「もらおうか」


新たな酒が注がれて、それもまた、消えてゆく。

そうして幾度、繰返すものか。


薄紅の雫が一片ひとひら、はらりと舞い降りた。

手中の小さな水面にあそぶ。


白磁の盃は白すぎて、月を宿すこともない。


「草だんご。おすきでしょ」


竹皮の包みを開くと、青草の薫りが鼻をついた。

いま少し、春をとどめて。


「ミコトも、お食べ」


ザイが差し出したものを、少女は受け取らなかった。

かわりに、もう一つ包みを取り出す。


「こっちはねえ、あんこさん、たくさんなのです」


ニカッと笑うと、前歯がひとつ欠けている。

この子もあと、もって五、六年か。

黒々とした穴は、いったいどこへ続くのだろう。


頭上の桜は盛りを過ぎて、名残の華を惜しげもなく湖面に注ぐ。

敷きつめられた花弁が、無数の小舟となって、闇を寿ことほぐ。

折り重ね、降り積もり、小さきものたち。

美しいは儚い。


手向けの花は、やがて同じ底へと行き着くだろう。

いちまい、いちまい、消えゆくいのち。

だから、ここの桜は美しい。


おまえも共にゆくが良い。

私はここで葬送みおくろう。


そうして幾度、繰返すのか。


尽きぬ別れを偲ぶなら、いっそこのまま、すべて――


「あ。おっつきさま」


少女の声が、闇を裂いた。

とぷん、小舟が揺れる。


月を、ろうというのか。


「危ないよ、座っていなさい」


空に浮かぶおぼろな月と、湖面に揺蕩たゆたうつろな月と。

どちらがより、現実か。


「おそらには、帰れぬのですか」

「花も、水も、落ちるものさ」

「なら、おっつきさまも、いっしょでないと、つまらぬですね」


船縁ふなべりに身を預け、湖上の月を嘆ずる。


「ミコトは、帰りたいか」


少女はその問いに答えなかった。

黒い瞳が水面みなもを宿す。


「上を、ごらん」


風が吹き、桜を狩った。花弁が夜空を覆い尽くす。

吹き乱れ、舞い上がり、高く、高く、空へ。


水飛沫、白銀の髪、みな、空へ。


そして、風はやみ。

しじまが戻る。


空高く、ぽっかりと現れた月に、少女の口が黒々と開いた。


その隙に、ザイは舟を進める。


濃藍の水面にかいをさす。

月がゆらりと溶けてゆく。


この湖の底にあるものを、君はまだ、知らなくていいんだよ。




 

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