朝焼けの赤とんぼ

沢田和早

朝焼けの赤とんぼ

 気が付くと草の上に倒れていたのです。

 立ち上がった私の目に映るのは見知らぬ風景でした。雑草に覆われた野原はあちこちに穴を穿うがたれて草が焦げています。遠くには緑が茂る山。その裾に寄り添うように並ぶ粗末な住居。日が暮れかけているのに生暖かい風が吹いてくるのはきっと今が夏だからでしょう。


「お姉ちゃん、大丈夫? そんな所で何をしているの」


 薄汚れたシャツと短パンの少年が私を見上げていました。何をしているのか私のほうが聞きたいくらいです。


「あの、ここはどこ?」

「えっ、何を言っているの。ここは飛行場の外れでしょう。ああ、そうか、さっきの空襲で頭を打って忘れちゃったんだね。血が出ているよ」


 そう言われて額に手をやるとぬるりとした感触があります。


「大変! ハンカチ」


 ポケットに手を入れようとして初めて自分がもんぺを穿いていることに気付きました。ブラウスも土で汚れています。


「君、さっき空襲って言ったよね。今、戦争しているの?」

「そうだよ。町の中は高射砲のおかげで安全だけど、ここは町外れだからたまに敵の攻撃が命中したりするんだ。お姉ちゃん、額のケガだけで済んでよかったね」

「そうなんだ」

「お姉ちゃん名前は? どこの家の子?」


 思い出せません。本当に何もかも忘れているようです。まるで世界から置いてけぼりにされているような気がして、ひどく心細くなってきました。


「わからない、あたしこれからどうすればいいんだろう」


 声が震えているのがわかりました。もしかしたら目には涙が溢れていたかもしれません。


「ほら、ナツアカネ」


 いきなり少年が目の前に指を突き出しました。先っぽに赤とんぼが止まっています。


「とんぼって凄いよね。急旋回や急停止はもちろん空中静止だってできるんだから。ボクも赤とんぼみたいに飛行機を操れたらなあって思うよ」

「飛行機、好きなの?」

「うん。今日もここで練習していたんだ。明日は出撃だからね。これでもボクは一人前の飛行機乗りなんだ」


 少年は顎を上げて威張っています。可笑しくなりました。こんな年で飛行機の操縦などできるはずがありません。きっと倒木か何かを飛行機に見立てて、木の枝を握って操縦の真似事でもしていたのでしょう。


「もうすぐ日が暮れるからそろそろ帰らなくちゃ。お姉ちゃん、帰る家を思い出せないならボクの所に来なよ。一晩くらいなら泊めてもらえると思うよ」

「いいの?」

「うん」


 少年の申し出を有難く受けることにしました。実際、そうするより他に選択肢はなかったのです。


「そうだ、君の名前は?」

総一朗そういちろう。みんなは総ちゃんって呼ぶ」


 総一朗君と連れ立って野原を出て路地に入りました。木造の平屋ばかり並んでいます。


 ――ウウーー!


 突然サイレン音が鳴り響きました。あまりに不吉な音なので思わず耳を塞いでしゃがみ込んでしまいました。でも総一朗君は平然としています。


「こ、これ、空襲警報でしょ」

「そうだよ。でも大丈夫。ここは町の中だから絶対安全なんだ」


 空を見上げると東の空からとんでもない速度の物体がこちらに向かって飛んできます。恐怖で体が凍り付きそうになった時、山頂から何かが発射されその物体に命中しました。


 ――ドーン!


 大きな音、広がる煙、落下していく破片。どうやら迎撃に成功したようです。


「ほらね。あんなミサイル、高射砲で粉みじんさ」

「ミサイル? 敵はそんな武器を使ってくるの?」

「うん。あとロケット弾とかも飛んでくる。でも大丈夫。射程内なら全て撃ち落としちゃうから」


 確かにさっきまでいた野原と違って、この町には着弾の跡がひとつもありません。サイレンを聞いても町の住民は何事もなかったかのように普段の生活を続けています。


「なんだか変わった世界だな」


 そう思いました。


「あらあら、頭を打って何もかも忘れちゃったのかい。可哀想にねえ。ちょっと待ってね。今、駐在所に使いの者をやらせて迷子の届け出がないか調べてもらうから」


 いきなり優しそうなおばさんが私を出迎えてくれました。総一朗君に連れられて来たのは公民館のような建物です。窓からたくさんの子どもがこちらを覗いています。


「ここって、何かの施設なの?」

「行く先のない子どもたちの面倒を見てくれるんだ。ボクも母ちゃんがいなくなってからここに住んでいる」


 力なく答える総一朗君に対してそれ以上のことを訊く気にはなれませんでした。世界から置いてけぼりにされているのは私だけではなかったようです。


「さあさあ中へ入って休みなさい」


 最初にしてもらったのはケガの治療でした。治療と言っても布を当ててテープで留めるだけです。塗り薬も包帯もありません。それからお湯で顔と体を拭き、広間で夕食をいただきました。


「うっ!」


 粗末な食事でした。薄い塩味の汁の中に小麦粉の塊がふたつと何かの茎が三本、それだけです。それでも子どもたちはがっついて食べています。残すのも悪いと思ったので無理に喉へ流し込みました。


 ――ウーウーー!


 また空襲警報です。先ほどとは鳴り方が違います。


「うわー、来るぞー!」


 子どもたちが一斉に立ち上がりました。避難するのかと思ったら全員外へ出て行ってしまいました。


「ほら、お姉ちゃんも行こう。空中戦が見られるよ」


 総一朗君が私の手を引っ張ります。「町の中は絶対安全」の言葉を信じて外に出ると東の空には満月が昇っていました。


「あれは……」


 月明かりに照らされた夜空に何かが見えました。飛行機が五機、くの字形に編隊を組んでこちらに向かって飛んできます。これもまたとんでもない速度です。


「敵のジェット戦闘機だ!」


 総一朗君が歓喜の声を上げました。飛行機なら敵味方関係なく好きなのでしょう。


「いくらなんでもジェット機を撃ち落とすのは無理じゃないかな」

「楽勝だよ。ほら、こっちも来たよ」


 総一朗君が北の空を指差しました。こちらは味方なのでしょう、五機の飛行機が編隊を組んで飛んできますがプロペラ機です。どう考えても勝ち目はありません。


「頑張れ、ジロ戦!」


 ジェット機からミサイルが発射されました。同時にジロ戦からたくさんの火の玉が空中に放たれました。


「あれはおとりだよ。ミサイルは熱に向かって飛ぶからね。火の玉をエンジンと勘違いするんだ」


 総一朗君の言葉通り、ミサイルはジロ戦に当たらず火の玉のひとつに当たって爆発しました。


「今度はこっちが反撃だあ!」


 ジロ戦がジェット機に襲い掛かりました。推力はプロペラ、武器は機銃だけ。速度も装備も完全に劣っています。それなのにジロ戦はジェット機を圧倒していました。一機、また一機と撃墜し、五機のジェット機は瞬くうちに掃討されてしまいました。


「ウソ、本当に勝っちゃった」

「やっぱりジロ戦はカッコイイよね。ボクも明日からあんな風に戦うんだ」


 喜ぶ総一朗君を見ているうちに私は少し不安になりました。確かに今回は完勝でした。だけどいつでもそうだとは限りません。負傷したり命を落としたりすることだってあるはずです。


「ジェット機の乗組員、どうなったのかな」

「きっと脱出して捕虜になってるよ」

「もし戦いに出たら総一朗君も捕虜になるかもしれないよ」

「そうだね。でもそれは仕方のないことだと思う」

「仕方ないことないよ。戦争なんてただの意地の張り合いでしょう。総一朗君まで意地になって付き合ってやる必要なんかないよ」

「でも巻き込まれちゃったら逃げるわけにはいかないし」

「逃げたっていいよ。命あっての物種じゃない。戦いに勝ったとしても命を失ってしまったら、それは総一朗君にとっての負けと同じでしょう。本当の勝利は生き続けること、そうじゃない?」

「お姉ちゃんみたいに考える人もいるんだなあ」


 総一朗君は私を見上げました。微笑んでいるような垂れ目の奥には純朴な黒い瞳が輝いています。


「ボクはねえ、ずっと今までのボクでいたいだけなんだ。春になればみんなでお花見をして、夏になれば花火をしてスイカを食べて、秋にはお祭りの夜店でべっこう飴を買ってもらって、冬はお餅をいて除夜の鐘を聞いて初詣をしてお年玉をもらう、そんなボクでずっとあり続けたいだけなんだ。もし戦いに負けて新しくやって来た偉い人が桜の木を全部切り倒したり、米でなく小麦を作れって言ったり、神社やお寺を壊しちゃったら、もうそんなことできなくなっちゃうでしょ。明日も明後日もその先のボクもずっと昨日までのボクでいられるようにしたい、ただそれだけなんだ」


 拙い言葉で語られた総一朗君の言葉はじんわりと胸に染み入りました。自分の何倍も長い人生を積み重ねてきた、そんな人の話を聞かされたような気がして、私はもう何も言えなくなってしまいました。


「おや、こんな所にいたのかい。さっき駐在所から連絡があったんだけど、行方不明になっている女子児童はいないそうだよ」


 施設の寮母さんが汗を拭きながらやって来て教えてくれました。不思議と失望感はありませんでした。きっと私自身もそう思っていたからでしょう。


「そうですか。ご面倒をお掛けしました」

「取り敢えず今晩は泊っていきなさい。そのうち届けが出るかもしれないから気を落とさないでね」

「はい」


 夕食が終わればもう何もすることはありません。広間に蚊帳を吊って早々と就寝しました。敷布団は明らかに人数分より少なく、文字通りの雑魚寝です。今は夏だからいいけれど冬はさぞかし寒いことでしょう。


「眠れないな」


 気になっていることがありました。今日、総一朗君が何度も繰り返していた言葉です。「明日は出撃だからね」「明日からあんな風に戦う」子どもが描くただの空想のはずなのに、どうしてもその言葉から現実味を拭い取ることができないのです。


「まさか、ね」


 私は湧き上がる不安を抑え付けて眠ろうと努力しました。閉じた瞼の裏には闇しか見えません。その闇の中へ墜落していくのはジェット機ではなくジロ戦のように思われました。


「はっ!」


 目を開けると広間には早朝の明るさが戻っていました。いつの間にか眠ってしまったようです。他の子どもたちを起こさないように静かに立ち上がった私は蚊帳の中を見回しました。


「いない、どうして」


 そこに寝ているはずの総一朗君の姿がありません。胸がザワザワし始めた私は外へ出ました。向かうのは昨日初めて総一朗君と出会った野原です。理由はわかりませんがそこにいるような気がしてならないのです。


「あれは!」


 町の路地を抜けて最初に目に入ったのは野原を走っていく飛行機でした。機体を橙色に塗られた複葉単発機です。走って追いつこうとする私に気付いたのか飛行機は速度を緩め、やがて停止しました。


「お姉ちゃん、見送りに来てくれたんだ!」


 操縦席から降りてきたのは総一朗君でした。本革の飛行帽に航空眼鏡、飛行服と手袋を身に着けた姿は、小さいながらも一人前の飛行機乗りでした。私は総一朗君に駆け寄ると両手をしっかり握りしめました。


「驚いた。本当に飛行機の操縦ができたなんて。でもどうして。なぜ総一朗君みたいな子どもが戦いに行かなくちゃいけないの」

「やだなあ、ボクは子どもじゃないよ。もう九十年くらい生きているんだから。お姉ちゃんよりもずっと年上なんだよ。だから戦いに行くのは当然さ」


 何を言っているのかすぐには理解できませんでした。飛行服を着ていても総一朗君が小学生であることに変わりはありません。それにこの飛行機は昨晩のジロ戦に比べればあまりにも貧弱です。


「ウソよ。こんな飛行機で戦えるはずないもの」

「ふふ、そうだよね。これは中間練習機、機体が橙色だから赤とんぼって呼ばれているんだ。ボクはとんぼが大好きだからこの飛行機で出撃させてくださいってお願いしたの」


 総一朗君は今までにないような笑顔を私に向けています。よほど嬉しいのでしょう。


「戦いに行くってどういうことかわかっているの? この練習機が昨晩のジェット機みたいになるかもしれないんだよ」

「うん、覚悟はできてる。それにこの出撃はボクの意思だけで決められているんじゃないんだ。望もうと望むまいとボクは今日行かなくちゃいけないんだ」


 忘れていました。今は戦時中なのです。命令に従うのは国民の義務。それにここまで出撃の準備が整っている以上、部外者である私が何を言っても止められるはずがありません。


「そう、どうしても行くのね。それなら約束して。必ず帰って来るって。総一朗君が帰るまであたしはここで待っているから」

「それは無理だよ、お姉ちゃん。だって片道の燃料しか積んでないんだから」


 胸の奥で何かが潰れたような気がしました。なんて残酷な命令なのでしょう。そしてどうしてこんな練習機なのか、その理由もわかりました。戦闘に行くのではなくただ突撃するためだけに使われるのですから練習機で十分なのです。


「総一朗君……」


 私はもう勇気づけることも励ますこともできませんでした。私にできたのは両手をしっかり握りしめる、それだけでした。


「だから、これでお別れだね、お姉ちゃん。ねえ、そんなに悲しい顔をしないでよ。ボクは嬉しいんだよ。小さい時からずっと抱いていた夢、飛行機乗りになって出撃する夢、それが今ようやく叶うんだもん。さあ、手を離して」


 力の抜けた私の両手はもう何も掴んではいません。練習機が西へ向かってゆっくりと走り出しました。だいぶ離れた場所で向きを変えると、大きなエンジン音を響かせながらこちらへ向かって走ってきます。


「お姉ちゃん、さよなら。幸せになってね」


 総一朗君の最後の言葉を残して練習機は飛び立ちました。朝焼けを浴びて東に向かう橙色の練習機はまるで大きな赤とんぼのようです。


「総一朗君、さようならー!」


 どこから飛んで来たのでしょう。彼が大好きだったたくさんの赤とんぼが練習機を慕うようにその後を付いていきます。赤とんぼに祝われながら朝焼けの中に消えていく練習機は総一朗君の夢そのもののように思われました。



 * * *



 目を覚ますと夜はとっくに明けていました。カーテンの隙間から漏れた光が部屋の中に差し込んでいます。

 長い夢を見ていたような気がするのですが思い出せません。目尻が濡れているのできっと悲しい夢だったのでしょう。

 それにしてもよく寝ました。もう何時かな、枕元のスマホを手に取りました。


「いけない、寝坊した!」


 どうしてアラームが鳴らなかったのと悪態をつきながらベッドから跳ね起きたところで今日が日曜だったことに気付きました。まだ少し寝ぼけているみたいです。


「そうだ、忘れていた」


 スマホの着信履歴を調べました。この時刻なら父からの電話があったはずです。


「お父さんも意地を張らずに同居してくれればいいのに」


 早くに妻を亡くした父は米寿を越えてもひとり暮らしをしています。さすがに心配なので風呂上りと朝起きた時は必ず電話するように言ってあるのです。


「おかしいな、まだ寝ているのかな」


 父からの着信はありませんでした。ここ数週間はきちんと同じ時刻に電話をくれていたのに、どうして今日に限って……胸騒ぎを覚えた私はこちらから電話を掛けてみました。父は出ません。留守電に繋がるだけです。


「何かあったんだ」


 すぐ契約している警備会社に連絡しました。そして私も身支度を整えて父の自宅に向かいました。

 それからはまるで急流に流されていく小舟のように翻弄され続けました。すでに呼ばれていた救急車と警察。たくさんの人々。着替えと保険証を持って駆けつけた病院。集中治療室の控室。集まって来る親族。永遠に続くかのような待ち時間。そして医師から告げられた悲しい言葉。深々と頭を下げる医師には感謝しかありません。


「そうですか。ご尽力ありがとうございました」


 ベッドの上の父は安らかな顔をしていました。医師の話によれば苦しむことなく眠るように旅立ったとのことです。


「お父さん、子どもみたいな顔をしているね」


 本当に無邪気な表情でした。これから飛行機に乗って飛び立とうとしている少年のような喜びと明るさが父の顔には溢れていました。きっと父自身も満足した最期だったのでしょう。


「おや、赤とんぼだ」


 誰かがそう言いました。窓の外に目をやると小さな赤とんぼが窓枠に止まっています。近寄るとすっと飛び立ちました。


 ――お姉ちゃん、さよなら。幸せになってね。


 懐かしい声を聞いたような気がしました。窓の外は午後の陽射しでいっぱいです。陽光を浴びた羽根を銀色に光らせながら天を目指して飛んでいく赤とんぼ。青空へ消えていくその姿を私はいつまでも見つめていました。


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