真夜中の心中

海沈生物

第1話

 明日、俺はこの部屋を退去しなければならなくなった。その原因は単純明快なものであり、「家賃滞納」と「音」である。前者は否定することができない理由であるが、後者は言い掛かりでしかない。その音とは、真夜中に何度もお湯を沸かしていたことらしい。都心にしては家賃が異常に安いアパートであるのだから、そのぐらいは我慢してほしいと思うのだが、隣人はかなりヒステリ……繊細な芸術家らしい。実際、何度か壁ドンをされていた。

 ただ、俺だって理由も無しにお湯を沸かしていたわけではないのだ。一年前、無事に大学を卒業して就活も終えられた俺は、とある企業の営業職に就いた。しかし、そこがかなりのブラックだった。メンタルの強さには自信があったが、数ヶ月も上司から「お前が悪い」と叱られ続ける日常を続ける内、ついに鬱病となって退職することになった。それから不眠症になってしまった俺は眠れなくなり、真夜中の「不安」や「退屈」を埋めるため、何度もお湯を沸かしていたのだ。


 実家からは「もう成人なんだから、いつまでも親の脛を齧るな」と正月やクリスマス以外の帰宅を禁じられているので、多くの家具は大型ごみとして昨日の内に出しておいた。残っているのは着替えでパンパンになったスーツケースと、あとは長い夜を共に過ごした電気ポットだけである。こいつにはとても世話になった。だが、これからはもう一緒にいることができない。最後の夜だった。

 今日は押入れの奥から出てきた、ちょうど賞味期限が数ヶ月前に切れているカップラーメンを食べる。こんなものを食べたらお腹を壊すのかもしれないが、どうせ明日には人生が終わるかもしれないのだ。これで死んだのなら、良い笑い種として冥途の土産になるだろう。


 カップラーメンの蓋を「ここまで!」と書いてある場所まで開けると、中から強烈なジャンキーな香りがする。ここしばらくはお湯と素うどんしか食べて来なかったので、久しぶりの味のある食べ物だ。珍しく”まともな”食事にありつけたことにより、小腹を空かせた胃が飢えた獣のように叫び、早く食べたいと胃から唾液が込み上げてくる。


 ちょうどその時だった。時計が真夜中を告げる音を鳴らすと、粗雑に玄関のドアが開けられた。まさかこんな部屋に泥棒も来ないだろうと鍵を付けっぱなしにしていたのが、まずかっただろうか。一体何者なのかと警戒していると、部屋に侵入してきたのは上半身を真っ赤な血で染めた男だった。手に持ったナイフからはまだ新しい血が垂れており、それがヘンゼルとグレーテルのパンくずのように、彼が歩いてきた道を赤く染めていた。

 俺は咄嗟に近くの包丁を掴もうとしたが、男が震える手でナイフを握っていることに気付く。


「て、抵抗しても無駄だ! お、俺は凶悪な殺人犯なんだぞ!」


 反応から明らかに素人であることは察せられた。しかし、素人であるからこそ、下手な行動を取れば暴走する危険性がある。俺は大人しく両手を上げると、自分に抵抗の意思がないことを示す。男は俺の方へ近付いてくると、首筋にナイフを当ててきた。そのままその場で座るように言われたので、命令に大人しく従う。


「あのー。失礼なことを聞くんですが、これからどうするんですか」


「どうする……って、逃げるんだよ。ここから」


「でも、ナイフから垂れた血の痕がこの部屋まで続いているんですよね? 今頃、それに気付いた誰かが通報しているのでは」


「う、うるせぇ! そんなことは分かっているんだよ! だったら、お前を殺して俺も死んでやろうか?」


「いや……死にたいと思うのは毎日のことですけど、貴方と心中するのはちょっと……」


「だったら、誰と死ぬのなら良いんだよ」


 そう言われてみれば、確かに思い付かない。これまで四半世紀を生きてきた中で友達もいたし、恋人も二度できたことがある。しかし、彼らと死にたいかと聞かれると、その答えは「否」になるだろう。俺、特定の人間に対して執着がないし。


「貴方と死ぬのも、他の人と死ぬのと……同じ、なのかもしれません」


「同じ……同じではないだろ、さすがに。嫌いな人間と死ぬのなんて、まっぴらごめんってもんだろ」


「その言葉。……学生時代に付き合ってた子からも、似たようなことを言われました。”良人りょうとって、嫌いな人間とかいなさそうだよねー”って。……俺、昔から誰かを嫌い”とか”好き”って感情が、よく分からないんですよ。だから、その……人間が皆同じ存在にしか思えなくて」


 男は俺の顔をぼんやりとした目で見つめると、膝を曲げ、頭に手を当てた。そのまま、わしゃわしゃと髪を撫でてくる。理解できなくてその場で頭に疑問符を浮かべる俺に、男はただ抱擁をしてきた。困惑する俺を無視して、ただ抱きしめてきた。それでもナイフは相変わらず突き付けてきていたので逃げられずにいると、ちょうどカチッという音がした。

 俺も男も音がした方を振り向くと、どうやら電気ポットにお湯が沸いた音であることを理解する。男はキッチンに置きっぱなしのカップラーメンを一目見ると、首筋にナイフを突き付けながらも俺に電気ポットを持たせ、カップラーメンの前に立たせる。


「えっと……カップラーメンを作れ、ってことですか?」


「そうだ。ちょうど、朝から何も食べていなくてな。どうせ一緒に死ぬのなら、死ぬ前に二人で最後の晩餐と洒落込もうじゃないか」


 その前にさっきの行動の意図を、と思ったが、聞いても答えてくれなそうな顔をしたので諦めた。電気ポットのお湯を規定の線まで注ぐと、近くにあったタイマーを重しにして、三分をセットする。一連の作業が終わると、男の指示でその場に座る。三分という長いようで短い時間、男は俺の顔を見ていた。実は生き別れの家族なのではないか、なんて思っているのだろうか。俺も見つめ返してみると、プイッと顔を背けた。


「えっと……見つめられるの、苦手なんですか?」


「いや、なんだ。……お前が、俺の弟に似ているような気がしてな」


「弟さんに? どんな人だったんですか」


「そんな人に語るような弟でもないが……そうだな。俺の弟も、お前みたいに賢そうな顔をしている、内気な人間だった。あいつ、大学まで行ったのに一度大企業への就活に失敗してな。俺みたいな馬鹿だったら、適当なバイトを掛け持ちしてフリーターとして食い繋ぐさ。でも、あいつは違った。よほどショックだったんだが、そのまま引きこもりになっちまった。しかも」


 ちょうど話が転換点を迎えようとした所で、タイマーが音を鳴らす。隣人から壁ドンによる苦情が来ない内にさっさと止めると、カップラーメンの蓋を外す。中からの白煙を一気に受けると、水蒸気で顔が湿気る。男はキッチンに置きっぱなしだったお箸を渡すと、少し顔を俯かせる。


「脅している立場で悪いんだが、その……食べさせてくれないか、カップラーメンを」


「良いですけど……どうかしたんですか? その……落ち込んでいそうで」


「いや……恥ずかしくないのか? 見ず知らずの相手に対して、ご飯を食べさせてあげるって」


「そう、なんですか? すいません。誰に食べさせてあげるのも、そんなに違いが分からなくて」


「そういえば、お前はそういうやつだったな……すまん。だったら、頼む」


 口を簡単に開けている姿を見ながら、今なら一か八かでこの男からナイフを奪い、殺してしまうこともできるかもしれないなと思う。ただ、そんなことに意味を感じなかった。どうせ明日も知れぬ身というのもあるが、なんだか、自分の中に”何か”が芽生えてきているのを感じていた。それがどのような感情であり、あるいは既存に存在する感情なのかは分からない。ただ、今は悪くないという気持ちがそこにあった。男に汁を切ったラーメンを食べさせると、見た目に反して丁寧に食べてくれた。人が食べている姿を間近で見るというのは、学生時代にも思ったが、なんだか動物に餌をやっている気分になる。

 俺が食べさせ終わると、今度は男がカップラーメンを奪ってきた。しかも、ナイフを床へ下ろして。


「良いんですか。今なら、俺が貴方を殺してしまうかもしれませんが」


「大丈夫だ。俺はお前を”信頼”しているからな」


「……さっきはナイフを突き付けていた癖に」


「それは……すまん。下ろすタイミングを見失っていたんだ」


「はいはい、分かりましたから。……ほら」


 俺が口を開けている所へ、男が汁を切った麺を入れてくれる。正直自分で食べた方が食べやすかったようなと思いつつも、恋人でもない他人に食べさせてもらうというのは新鮮だった。俺が思わず「美味しい」と呟いた姿を見ると、「そうだろ、そうだろ!」と男は目を輝かせていた。

 結局、中身のスープが無くなるまで、俺たちは交互に食べさせ続けた。終わる頃にはクタクタで、なんでカップラーメンを食べるのにこんなに疲れているのだろうと笑みが漏れた。


「笑ったな、初めて」


「別に、今までの人生で笑ったことがない人間とかではないんですが。……まぁ、そうですね」


 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。男はナイフを持ち上げたので、俺は包丁を持ってくる。何も言わないままお互いの頸動脈に刃物を突き付け合うと、また笑みが漏れた。


「最後に、教えてください。……貴方、弟さんを殺しましたよね」


「……よく分かったな。だったら、どうする? 今更死ぬのを止めるか?」


「いえ、死にます。……こういう臭い台詞は似合わないんですが、多分俺、今人生で一番幸せですから」


 男は何も言わなかった。ただ、ドアが開いた音と同時にお互いを切り合うと、呼吸のできない苦しみがはじまる。喉が裂けた穴からすぅすぅと空気が漏れ、心臓が痛くなり、激しい頭痛がし、意識が飛びそうになる。それでも、幸せだった。わけの分からない感情を抱きながら、それでも、そこに幸せは確かに存在した。

 そして、その幸福は今、永遠になろうとしていた。

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