不完全×な→ん↓と←か↑
gaction9969
―○■―
大井町線の終電で、二子玉川まで行くのだそうだ。
身体と心のリハビリ両方にいい療法らしいよっ、と弾んだ声で言われて。そのはにかんだようなそれでいて何かを目で訴えてくるような笑顔を至近距離で向けられて。
僕に断る理由あるいは事象なんてものは皆目無かったわけで。
六月いまの気候は梅雨時でありながらも、ここ数日は夏の暑さを先取りしたかのような、湿度はあるものの空気自体は澄んでいて清々しい。僕が退院したのは二週間くらい前の話であって、まだままならない脚の感覚、「歩く感覚」というのを取り戻しに外へ出かけるのは一も二も無く賛成は賛成なんだけれど、うぅん、でも何でそんな時間を選んだんだろう?
「都内で、ほんとの『闇』ってのを感じられるとこって、あんまり無いから。それでね、そういうとこでじっとしていると、自分の中の『感情』がどれだけ荒れ狂っていてもね、それを傍から全部、無尽蔵に吸い取ってくれるような気がして……自分が宇宙の一部になったような、そんな感覚っていうかなの」
肩まで伸びてきていたクリーム色の髪に、一瞬表情を隠したように見えたけれど。「感情」。言葉にするとそれほどでも無いものの、何故かとても懐かしく感じた。そして思い出す。僕は昔、自分の感情をうまく表現できず、他人の感情もうまく読み取れない子供だったから。だからその持て余した体内の澱のようなものを根こそぎ奪ってくれるのならば、それは多分とても心地よいものなのだろうな、とも思った。
小綺麗な改札口を抜けると、そのお洒落な佇まいから百メートルも行かないうちに河川敷に出た。多摩川。
薄曇りの闇は、でも彼女が言うほどには、暗くないように感じた。背後からのビルの灯り、道路沿いの街灯がうっすらと辺りを照らしていて、水面の黒と、川岸の黒、その上の空の黒はきっちりと境界を保ったまま、僕の視界を横切っている。でもそれはじっと眺めているだけで、確かに心を凪いだプラマイゼロの状態に一律、定着させてくれる作用があるように感じられた。少し深呼吸をして、その闇を肺に取り込むことで一体化してみようと試みたりしてみる。と、
「違うよ? こっちこっち。こっちを向いてみて」
突っ立って川面を凝視している僕の右手を引いて、彼女は自分の方に身体を向けさせるけど……え?
目線の上に遠くからこちらまで連なる、真っ白い道路灯の列。それらは離れていても結構強烈に目を刺してきていて、そして反比例するかのようにその下の闇は確かにその濃さを増しているのだった。そこに確かにいるはずの彼女の姿も、試しに自分の身体の前に翳してみた左の掌も包み隠すように。
「……ほんとだ」
思わず出た驚きの声に、満足気なうふふーという鼻からの笑い声と、彼女の持つ、スズランの花のような香りが漂ってくる。白と黒の闇の中。いきなり胸の中に飛び込んできた柔らかな感触を慌てて受け止めるのだけれど。
「感情って普通は見えないけど……でも感じることって結構できるんだよ? 言葉とか声のニュアンスとか……こうやって身体を合わせているだけで感じる熱とか感触とか……」
含み笑いを宿した柔らかな音が、僕の鼓膜を優しく震わせる。ふた通りの鼓動も、感じている。そして、
「……君の、香りも感じている。とても、安らぐというか……ずっと感じていたいというか」
すでに周りの闇に溶け出していそうな僕の大脳が紡ぎ返した言葉に、ふぇぇ……という空気が漏れるような声が聞こえたのも一瞬で、
「……そそそそうだねー、じゃ、じゃじゃじゃじゃあ残るは『味覚』だけですなぁ……」
というこちらも脊髄が喋らせているのかと思いまごうほどのあんまりな言葉に、ふっと苦笑させられつつも。
「……ん」
とっくに目が慣れてその位置くらいは分かるのだけれど、何だかすぐに到達したらもったいない気がして。
僕は回り道をしていくかのように、おでこ、耳、首筋、あご、頬、まぶた、鼻の頭……その行程にある彼女の愛しいところ全てにスタンプを捺すように、次々と唇を触れさせていくわけであって。
(了)
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