グッモーニング・フロム・ストラトスフィア
鳥辺野九
アオイソラ
あたしは青い空を見たことがない。
空は重たい鉛色に決まっている。
色にどっしりと厚みがあって、ところどころまだらに灰色っぽく薄まって太陽の輪郭を丸く透かす空。
丸い輪郭は見えても、お日様の光が鉛の雲間から差し込むことはなく、地表は凍えて震えるばかり。
太陽は丸い。それは知っている。だけど太陽が何色なのか、実物の太陽を見たことがないからわからない。
かろうじて生き残っている情報端末でかつての青空と太陽の記録動画を観たことはあるけど、あんなの信じらんない。あたしの空は鉛色だ。
手を伸ばせばすぐそこに。むんずと掴めそうなくらいに低く垂れ込めた鉛色の空。暗く塞がれた地上は異常に冷え切って、火山灰混じりの重たい雲が薄汚れた微粒子と粉雪を降らす。
灰色の粉雪が降っていても文句を言ってる暇はない。灰色の雪に見惚れてる時間で月面マスドライバーから投射される救援物資をせっせと回収する。じゃないとあたしたち地球人類は生きていけない。
「青空っつってもな、おめえが思ってるほどいいもんじゃねえぞ」
相変わらず口の悪い大吾じいさん。ここまでの道中で拾っていた枯れ枝をストーブに焚べる。荒れた言葉遣いのままに吹き上がるか細い炎も暴れる。
ちょっと寄り道するぞ。そう言ったのは大吾じいさんだ。
マスドライバーで打ち出される月面からの救援物資はここら辺の座標に墜ちる予定だ。灰と雪に埋もれた誰もいない街で手近なビルに登って、見晴らしのいい屋上から周囲を観察。救援物資はこの広い廃街のどこかに墜ちる。
物資の到着を待ちながら、廃ビルの屋上でお茶しよう。大吾じいさんのいつもの寄り道。そこで、青空の話になった。
そりゃあ大吾じいさんは見たことあるからそんなこと言えるんだ。あたしとは違う。
青空はあたしが生まれる前に消え失せてしまった。十五年前のイエローストーン破局噴火のせいで地球の青空はみんな吹き飛んだ。
「それでもいいんスよ。言うなれば確認作業っス。本当の空がちゃんと青いかどうか」
「そうか。確認ならしゃあねえな」
大吾じいさんはぷかぷか笑った。ストーブの火もぷかぷか燃えた。
あたしの周りの大人はみんなこんな風に笑う。達観した、と言おうか。どこか諦めにも似た感情なのか、底の突き抜けた鍋みたいに大きく笑う。
人類はついに残り百万人を割ったらしい。成層圏ラジオが言っていた。
あたしの住んでる地熱発電施設のコロニーとか世界各地のまだあったかい場所。お互いに連絡を取り合う手段はないけど、月面都市からの定期報告で人類の数は管理されている。他にも南の島にも人がけっこう生き残っていると聞く。赤道付近の雲の灰色が薄い辺りは太陽が見える日がまだあるらしい。あとは月。月面都市に数万人暮らしてるはず。
極大火山の破局噴火で地球は真夜中の時代へ突入した。太陽光が失われて、人々はばたばたと倒れて消えた。
空が硫酸エアロゾルの分厚い雲に覆われて太陽と青空が薄暗い鉛色に隠れて十五年。雪と氷に覆われた地球は確実に人類を減らしている。
そのうち資源エネルギーが豊富な月面都市に追い抜かれるだろう。大吾じいさんが笑って言っていた。そうなりゃ地球が月の衛星だなって。
「ねえ、大吾さん」
ストーブに小さな鍋をセットしてステンレスの水筒に入れた水を沸かす。降り積もったふわふわ雪には火山灰由来の硫酸エアロゾルが含まれていてこのままじゃ飲めない。
「どうして昔の空は青いの?」
空も大地も氷の浮いた海もみんな灰色を被った黒っぽい白だ。夜になればさらに真っ黒だし、雲に太陽の輪郭が薄っすら見える日は淡く白く光る。青なんて色は探しても自然界にはない。
「何だよ。そんなことも知らねえのかよ」
さも当たり前のことを語るような顔する大吾じいさん。そこに答えが書いてあるのか斜め上を見上げる。
「ほら、あれだ」
うん、あれだ。ほんとは知ってる。光の波長の長さが関係してる。波長の短い青い光が散乱しやすいから空は青く見える。
「空は青くなりたかったんだよ」
「何それ」
「空のことは空しか知らねえんだ。自分のことは自分しかわかんねえようにな」
言いくるめられてる気がする。でもそれでもいいか。このまま言いくるめられよう。
かっさかさに乾燥した古い茶葉をポットに入れながら、大吾じいさんはかつて青かった空を見ながら続ける。
「今は、空は灰色になりたい気分なんだろうな」
あたしも空を見上げる。地球に蓋をしたように薄暗い鉛色が波打って見える。
「あたしにとっては灰色の暗い昼間ってだけっスよ」
「昼間ってのは太陽が出ている時間を言うんだ。てことはな、太陽が見えない今は夜なんだよ」
廃墟で見つけたネジ巻き式腕時計をちらり覗く。何度も止まってるから正確じゃないけど針は午後二時過ぎを指している。そもそも今地球上で正確なグリニッジ標準時間を知る者はいないわけだし、今何時なのか、太陽が見えないから知る必要もないんだけど。
「今って夜なんスか?」
「おうよ。夜も夜、空の気分は真夜中だ」
「変な気分スね」
ポットに沸いたお湯を注ぐ。廃ビルの屋上はすごく寒いから、湯気がもうもうと溢れ出す。熱いお茶ってだけでもう美味しそう。
「今の空は青くなりたくない気分なんだな。そうに決まってる」
「それが空が青い理由スか?」
「理由は空にしかわからんよ。青くなりたくなったら、きっと勝手に青くなるさ」
「わけわかんない」
「わからないっつうなら、おまえにもわからないことがあるな」
「ん?」
「おまえは何で回収人になりたいって思ったんだ?」
大吾じいさんがお湯でたっぷりのポットを軽く揺すった。あたしに聞いてるのに目線はこっちを向いていない。灰色の雪が降り積もる廃墟群を遠くに眺めたまま。
月面からのマスドライバー投射。目標座標通りに墜落してはくれず、場合によっては二日も三日も凍えた地上を歩いて探さなければならない。とても辛い仕事だ。正直、十四歳になったばかりの少女がやる仕事じゃないと自分でも思う。
「それは──」
ひと呼吸。お茶のいい匂いがする。
「──空が青かったから」
「なんだそりゃ」
大吾じいさんはユラユラ笑ってくれた。
「お。来た来た」
不意に笑うのをやめて、大吾じいさんは東の空を指差した。マスドライバーにより救援物資が打ち込まれる方角だ。
鉛色で埋め尽くされた空、遥か遠く、二つの光点が点滅して見える。成層圏を滑空するエアロゾル除去無人グラインダーとそこから切り離された救援カプセル。
「おー、初めて見るっス」
月面からマスドライバーで地球へ打ち出されるグラインダー。上空約12キロメートルを滑空し、大気中の硫酸エアロゾルを回収しながら三ヶ月かけて地球を30周する。
そして稼働限界を迎えると地上へ墜とされる。グラインダーの中には固形燃料とか食糧とか救援物資でいっぱいだ。地球に取り残された人類の希望の蜘蛛の糸。
グラインダーは地球を周回しながら指定座標に救援カプセルをばら撒き続ける。あたしたちの地熱発電施設、かつて大分県別府と呼ばれた温泉地区に暮らす人々にとっての唯一の救援物資。
遥か上空を滑空するグラインダーから切り離されたカプセルが急降下してくる。うまくこの廃街の近くに墜落してくれそうだ。今回は拾うのは楽かもしれない。
「カプセルの方じゃねえ。グラインダーを見てみろ」
大吾じいさんが湯気を登らせる熱いポットで空を指差す。
「
グラインダーが徐々に近くに飛んでくる。遥か上空、当然飛行音なんて聞こえないくらい遠くだ。
「あれが青空だ」
鉛色の空に真っ直ぐにブルーのラインが引かれていく。
エアロゾル除去グラインダーが鉛色を削り取りながら飛んでいる。四枚の飛行翼を優雅に羽ばたかせながら硫酸エアロゾルの雲を吸着させ、鉛色を真っ直ぐに削ってその向こう側に広がる青い空を覗かせる。
「ああ、見えたっス」
空はあまりに広い。人が作った飛行機械ぐらいじゃ鉛筆で黒く塗りつぶした空に小さな消しゴムを引いたくらいの範囲しか除去できない。
それでも、そのか細い空は眩しく青かった。
グラインダーの四枚羽は灰色の雲を吸着させ、その軌跡に引かれる青い線。重たい空に真っ直ぐに青白い光が走る。
「なんか、思ってたのと違うっス」
「そうか? 違うか」
「もっと濃くて向こうが見えないくらい青いと思ってた」
とても透き通った青だった。水みたいに幾層にも折り重なって、青いくせに白っぽく光って、ずっと向こうの宇宙を青白く透き通らせている。
グラインダーに搭載されている成層圏ラジオの電波が届いた。
『グッモーニング・フロム・ストラトスフィア!』
人工音声だが、久しぶりに聞く成層圏ラジオは元気いっぱいに青空を見せてくれて地球に朝が来たことを伝えてくれる。
『地球のみなさん、おはようございます! いつかまた会う日まで、元気に生きていきましょう!』
どーん、と救援カプセルが墜落した音がこの廃ビルの屋上まで揺るがした。
「さ、お茶一服したら拾いに行くぞ」
「あの空って、いつまで見えるんスか?」
グラインダーは飛んでいく。暗い鉛色に眩しい青色を引いて。
「三日くらいかな。すぐにエアロゾル雲で埋まっちまう。雲を全部除去するのに二十年かかるらしいな」
「まじっスか。朝が来るのはずいぶん未来の話っスね」
「どうせ何もすることねえんだ。焦る必要ねえ。ゆっくり待とうや」
『ここで一曲。ルイ・アームストロングのこの素晴らしき世界』
成層圏ラジオが青空とともに歌い出した。
人類は意外としぶとい。
グッモーニング・フロム・ストラトスフィア 鳥辺野九 @toribeno9
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