第39話 神託の時Ⅰ

 大太刀を振り下ろす、ほんの一瞬前。

 藤亜十兵衛は眼前の泥の中で這いつくばる美しい少女聖騎士が、エスメラルダと呼ばれたことを確かに聞き取った。

 その名前には聞き覚えがあり、それを告げた人物もはっきりと覚えていた。

 いや、忘れられるわけがない。

 

『エスメラルダ・パラ・エストラーダは殺すなよ』


 この言葉は夢の中で神が言ったのだ。

 この世では藤亜十兵衛の名を持つ人格を、現代日本が存在する世界から誰も知らぬこの異世界へと飛ばした意識体。

 異世界転生を行った、軽薄な面構えの男が確かに夢の中で告げたのだ。


『あれが死んだら大神様でもルール上、投了ゲームオーバーだからな!』


 あのむかつく野郎の言葉は文字通りに一字一句覚えている。

 その意味も、それをわざとらしく伝えた意図も理解している。


 だが――――。

 だからこそ、少年は手にした大太刀を振るう。

 己を苦境に追い込み、周りの者を不幸に巻き込む、あの神に痛撃を与えられるなら。

 あの神の上にいるという大神を困らせることが出来るならば、それに従える神も巻き添えに出来る。

 これこそ正に復讐だ。


 なにが神だ!

 なにが転生だ!

 俺を苦しめやがって!

 仕返し出来る瞬間を決して逃してなるものか!

 この大太刀が、どのような結果をもたらそうが知るものか!

 この少女の頭蓋骨を叩き割ろうが、それが出来なかろうが!

 俺の知ったことではない!!


 十兵衛は吠えた。


「神よ! 俺を止めてみせろッ!!」


 藤亜十兵衛の赤い魔力を帯びた大太刀が振り下ろされる刹那の時。

 一瞬きさえない時間の中、藤亜十兵衛とエスメラルダ・パラ・エストラーダはまさに超人そのものであることを示さんとしていた。

 超人の思考が時間さえも圧縮したように加速する。

 いや。もはや爆縮と例えるべきか。

 二人は共に常人を超えた性能を有する人間なのだ。


 エスメラルダは微かに、本当にごく僅かではあるが、藤亜が力を込めようと握り直したのをその青い瞳で確かに見た。


(間に合う)

 

 女聖騎士エスメラルダ・パラ・エストラーダ。

 齢十七歳で世界最大のオルテガルド帝国最強の一角を占める少女。

 この程度の危機は戦場で経験済みだ。

 そして何より――――。

 彼女はこの世界の神々に選ばれた、真に英雄である者の一人。

 少女に与えられた神の力は、この世界の常識の外にある。


(――壁よ!)


 泥に塗れたエスメラルダが地に伏しながら、ただそれだけを念じた。

 間髪入れずに、エスメラルダ・パラ・エストラーダと藤亜十兵衛の間に現出する半透明の金色の壁。

 絶対不可侵の境界線がこの世に具現する。

 神力により作られる不壊不滅の盾。

 それが何の代償もなく、何の不都合も無く、彼女の身を守る。

 彼女は死ねない。

 死ぬわけにはいかない。

 エスメラルダ・パラ・エストラーダは幼少の頃、年の離れた兄が界獣に殺されてから神に祈りを捧げるようになった。

 来る日も来る日も、ただひたすらに神に祈った。

 この世界にいる神の名前も祈るための作法も所作も何も知らない。

 神殿にも教会にも行かず、時と場所を選ばず、ある時は黙祷を捧げ、時には声にして、少女はただ祈り続けた。


 私が妹を守るから。

 私が父様と母様を守るから。

 私が家族を守るから。

 私が村を守るから。

 私がみんなを守るから。

 だから神様、私にみんなを守れる力を下さい。


 純粋で打算もなく、現実知らずで、向こう見ずで、己を顧みない小さな願い。

 ただ、それだけの願いは神に認められ、望んだ力は幼い少女の身に宿った。

 故に――――。


(私はこの程度で死ねないのよ!!)


 脈絡も無く現れた半透明の金色の壁。

 エスメラルダが術を構成するとき、声を出すのは周囲への気遣いに過ぎない。

 彼女は念じただけで魔術を構築できる。

 念じる内容は抽象的でも具体的でも問題ない。

 この世全ての術者が結集しようと、解明も理解もできない神からの贈り物。

 これこそがオルデガルド帝国最強戦力である理由。

 魔術師たちが積み上げた伝承も研鑽も才覚も、その全てを嘲笑う異能の力。


 それを視認しても、藤亜十兵衛は引かない。


(聖騎士の名は伊達じゃねぇな!!)


 見窄らしい身なりとはいえ、少年も馬鹿ではない。

 そして愚者でもない。

 目の前に突如出現した壁の意味も理由も察して余りある。

 だが、それで止まるような十兵衛ではない。

 その程度で止まるなら、彼は今まで人を殺すような人生を歩んでいない。

 己を異世界転生させた存在に喧嘩を売るような人物に育っていない。


(――叩っ切る!)


 少年は殺傷力を上げようと大太刀にさらに魔力を込めた。

 この世界では魔力は意志の力であり、生命力そのものでもある。

 物理的破壊力さえ伴う魔力は刀身の強度を上げ、刃を形作り、衝撃力さえ上乗せする。

 加えて――――。

 少年の心の奥底で練りに練り上げてきた殺意が刃に宿る。

 神に、父に、養父に、義兄に、世界に溜め込んできた憎悪が、敵ではあるがそれとは無関係な少女へと襲いかかる。

 実父を殺すために鍛錬し、養父の生首で試した剣の技。

 先人たちが積み上げた術理を染み込ませた鋼の肉体。

 金属製の甲冑さえも紙のように切り裂く赤い刃。

 それら全てが――。

 少女の頭を真っ二つに断ち割らんと、今一つとなって振り下ろされる。


 血に浸かる少年と光を纏う少女。

 赤い輝線を残す大太刀。

 煌びやかに輝く金の壁。


 津波の如き赤い魔力が、天空へとそそり立つ金の魔力に叩き付けられる。

 轟雷の如く鳴り響く爆発音。

 それはお互いに譲ることがない意志と魔力の衝突。

 衝撃波が火山のように噴き上がり、降り注ぐ雨を逆流させるだけでは飽き足らず、足下の泥水と表土さえも削り飛ばして荒れ狂う。

 しかし――――。


「――――があっ!!?」

 

 弾かれた衝撃で蹈鞴たたらを踏んだのは十兵衛の方だった。

 全身全霊を込めて大上段から振り下ろした大太刀は、煌びやか輝く半透明の金色の壁に呆気なく弾かれた。

 

 即座に大太刀を構え直す十兵衛とは対照的に、落ち着き払った様子でエスメラルダは立ち上がった。

 彼女の磨き上げられた白銀の甲冑の表面を泥水が流れ落ちるとともに、背中で受けた鉛弾もポロリと落ちた。

 甚八の銃では魔力を込めていないラーフェンの甲冑ですら貫通できなかったのだ。

 皇帝より下賜された甲冑がそれより劣ることなどあるだろうか。

 半透明の金色の壁を挟んで、見窄らしい紺色の軍袴を着込んだ少年と白銀の甲冑を身に纏う少女が無言で睨み合う。

 ただ、それだけで――――。

 二人から立ち上る魔力が滝のように振る注ぐ雨を地から宙へと弾いて散らす。

 

 その二人の傍で片膝を突いた近衛騎士アイダは声すら出せずにいた。

 殺意漲る二人を前に、下手に動けずに唾を飲み込むことさえ緊張する。

 超人である彼女でさえ弾き飛ばされた二人の魔力衝突は、もはや魔術師たちが放つ攻撃魔法に近い。

 幾多の戦場と訓練で、魔力衝突を日常的に浴びている彼女を以てしても異常な威力。

 次に彼らから繰り出される一撃も同等以上の威力があるのは明白。

 あの一撃一つで、迷宮に住まう牛頭人ミノタウロスなど容易く屠られるだろう。


(参ったな……)


 己の不用意な動きで、エスメラルダを窮地に追い込んではならない。

 だが、彼女の任務は身を挺してでも聖騎士エスメラルダ・パラ・エストラーダを守ること。

 敵をもう一度見据える。

 見窄らしく、だが疑いようもなく強力無比な神州国の少年兵。

 少年が仕掛けてきたら即座に妨害し、可能であれば仕留める。


(リリアーヌが言っていた以上に、こいつは危険だ)


 エスメラルダを確実に守るためには、己の死を覚悟せねばならない。

 見た目とは裏腹にこの少年兵は強い。

 差し違えることを決意したアイダ・パルマ・バルデスの短槍がゆっくりと緑色の魔力を再び纏い始めた。


 今も降り注ぐ雨の中、“居眠り”甚八が短弓を構えながら十兵衛へとゆっくりと近づき、それと同じように石弩を構えたリリアーヌとその陰に隠れるように丸盾を構えたエカチェリーナがエスメラルダへと近づく。

 だが、彼らは自分たちの仲間から二十メートルほど離れた場所で立ち止まった。

 その距離、約四十メートル。

 双方ともに味方の巻き添えを喰らわない距離にいるのは偶然ではない。

 それほどまでに十兵衛とエスメラルダの睨み合いは尋常ではなかった。


(どうやったら、ここからずらかることが出来るのか……)


 甚八は弓を構えつつも絶望的な気分だった。

 どう考えても自分たちが圧倒的に不利だ。

 十六年を超える戦場暮らしでも、勝ち筋が見えない。

 聖騎士の首を取る千載一遇のチャンスは、最後の最後で、突如出現した金色の壁で防がれた。

 しかも、その壁を藤亜十兵衛の太刀で叩っ切れない。

 自分の火縄銃も使えない。先ほど不意打ちで撃てたのも、藤亜が持っていた取って置きの呪符で銃を乾かすことが出来たからだ。

 オルデガルド帝国軍側は超人らしき騎士二人に術士と弓兵らしき者が一人ずつ。

 豪雨で銃の使えぬ銃士と少年の超人一人で勝てる相手ではない。


(あとは……)


 傭兵は土砂降りの雨で氾濫している崖下の川を一瞥した。

 この水量なら、この高さから飛び込んでも川底には当たるまい――そこから浮かび上がれるかは賽の目次第。

 賭場で双六すごろく振るのと変わらない。

 違うのは金か命か。

 それだけだ。

“居眠り”甚八は最後は崖から飛び降りて運に任すしかないと覚悟を決めた。


 仲間たちが固唾を呑んで見守る中、ずぶ濡れの二人が微かに動く。

 泥だらけの軍袴を纏った野良犬のような少年は斜に構えて鼻を鳴らし。

 白銀の鎧と金色のオーラを纏う少女は固く閉じていた唇を開けた。


「私はエスメラルダ・パラ・エストラーダ。貴方の名前を教えて」

「藤亜十兵衛」


 それだけを答えて、藤亜十兵衛は泥と血が混じった唾を吐き捨てた。

 その仕草に甚八は思わずオルデガルド帝国の女弓兵――リリアーヌを見た。

 敵方から無礼打ちとして弓矢が飛んできてもおかしくない。

 だが、驚いていたのは向こうも同じなのか。

 女弓兵と目が合い、互いに困惑していることを知り、その事実にさらに驚いた。


 戸惑う周囲を無視して、少年と少女は進む。

 金色の幕の向こうで雨に濡れた金髪の美少女が、少年の瞳を食い入るように見つめる。

 泥に塗れた黒髪の少年は、目映いばかりの美少女に蔑みを浮かべた。

 

「提案があるわ」

「――――はっ! 何だよ?」


 エスメラルダが口を開く。

 鈴が鳴るようなと、表現すれば良いのだろうか。

 静かで、だがはっきりと有無を言わさず届く声。

 その一言で少女の脇にいた近衛騎士アイダ・パルマ・バルデスの背筋が伸びた。

 酒に酔えば気安く話す間柄ではあるが。

 少女が発した言葉には力が――まるで神託のような、何もかも従わせてしまうと感じるだけの力が込められていた。

 だが、それは藤亜十兵衛には通じない。

 神を敵とした少年には虫唾が走る音に過ぎない。


「オルデガルド帝国聖騎士エスメラルダ・パラ・エストラーダと私の部下は、この地にいる神州国軍に一時停戦を申し込む」


「なっ!? む、無理だろ」

「――え、エスメラルダ! 何を言い出すんだ!」

「……ああ、神よ……」

「若っ!! この申し出をお受け下さいっ!」


 二人はざわめく仲間たちの声を何一つ聞いていない。


「寝言は寝てから言え。あとよ、そういった事は俺じゃなくて大将に言え」

「それは貴方が伝えて」

「伝令代わりか……この状況で俺たちを見逃すのかよ?」

「ええ。私たち四人と共に戦ってくれるなら」

 

 十兵衛は向けていた切っ先を外し、赤い大太刀を右肩で担いだ。

 切っ先を外すことで明確な敵意を誤魔化しつつ、その気になれば右腕一本で大太刀を振り下ろせる

 隙があるようで隙がない。

 リリアーヌの警戒心が天井知らずに上がっていく。


「冗談、きっつわ……イカれてやがるな。この聖騎士は」

「私は本気よ」

「だったら案内してやる。大将にはお前たちが直接言えよ」

「それでもいいわ」


 間髪入れずに応える白銀の聖騎士に、泥だらけの軍袴を履いた少年兵が鼻で笑う。


「主力は健在だ。お前らだけで来るなら間違いなく本隊が襲撃するが、それでも神州軍第八派遣隊を壊滅できると」

「その気になれば片手間よ」

「大した自信だな」


 藤亜が浮かべた少年としては、あまりにも不釣り合いな嘲笑。

 エスメラルダはそれに猛烈な違和感を抱いた。

 直感に過ぎないが目の前の少年が瞬間的に老け込んだように感じたのだ。

 聖騎士の少女にはそれが何を意味するのか分からない。

 だが、それも当たり前のことだ。

 誰が目の前の見窄らしい少年が異世界から来た魂の持ち主だと思うものか。

 事実、藤亜十兵衛の肉体年齢は確かに十六歳だが、その精神は転生しているため精神年齢は四十に近い。

 それが希に表情に表れるのだ。

 目にすれば、それに異様を感じるのは当然のことである。

 違和感を感じながらも少女は退かない。

 祈り求めたものを今も求める。


「赤鎧の武者と貴方以外、限定解除した私とは戦いにもならない」

「だったら、そんなに強いお前がなぜ停戦を提案する? はったりか? それとも森人を油断させるために俺たちを罠にでも嵌める気か?」

「あなたたちが、私には――いいえ、人類には必要だからよ」

「なんの為に?」

「この世界と人類を守るために」


 十兵衛は見目麗しい凜とした美少女が言い切った信念と理想を茶化すように口笛を吹く。

 エスメラルダはそれを見ても眉一つ動かすことなく、半透明の障壁の向こうから十兵衛の瞳を見続けた。


「少しは具体的に言えよ」

「……今日明日にでも、この地で界獣との戦いが始まる。界獣を撃退するためには、今この地にいる全ての人間の力を集結しなければ勝てない」

「界獣が現れるという根拠は?」

「夢の中で神託を受けたわ」

「夢かよ……いつそれを見た?」

「昨夜」


 淀みなく返された答え。

 それは藤亜十兵衛の夢に神が現れた時期と完全に一致する。

 裏付けは取れた。

 ほぼ間違いなく聖騎士エスメラルダに神託を下した神と、夢の中で十兵衛に界獣の出現を予告した存在と同一であろう。

 十兵衛の口元が歪むが隠す気はない。

 斜に構えたまま、むしろそれを見せつけるように静かに嗤う。

 ――酷い茶番だ。

 ああ、間違いない。

 この目の前にいる白銀の聖騎士はキングの駒。

 俺と同じ、神々が戯れる旧神と新神が行っているチェスの盤上に置かれた駒の一つ。

 将棋で言えば、この少女聖騎士が王将、アニキは飛車か?

 信用してもらいたいからか、目の前の奴はベラベラと喋る。

 悪くない。手札は少しでも増やしたい。


「神託なんて夢物語だな。その神様は一体なんて言ったんだよ?」

「『神々のチェスが再開される』と……それが神様にとって何を意味するのかは知らない。だけど、私たち人類にとっては界獣との戦いが始まることを意味すると説明されたわ」

「よくもまあ、あれほど軽薄そうな奴の言葉を信用するもんだ」

「…………!?」

 

 聖騎士エスメラルダ・パラ・エストラーダの驚愕は彼女を身震いさせるのは十分すぎた。

 それを確かめつつ、十兵衛はさらに嗤う。

 

「しかもお前たちにもチェスって言ってんのかよ。少しは違いを考えろってんだ。お前はチェスが何だか知ってんのか?」

「駒を使ったという戦争遊戯ウォーゲームと聞いているけど…………やっぱり、あなたは」


 問い掛けようとする少女の声が震えていることに気付いた近衛騎士アマダは、このとき視線を十兵衛から外して、エスメラルダを見た。

 エスメラルダの顔には喜びと怒りがい交ぜになった感情が浮き出ていた。

 少女の熱く、食い入るような視線が藤亜十兵衛に突き刺さる。


「俺にとってはだがね」


 何気ない肯定の一言は周囲にいる者すべてに混乱を巻き起こした。

 滝のような雨で何もかもずぶ濡れの中でさえ、藤亜十兵衛の一言はそれを忘れさせるほどの破壊力。

 人間が神託を受ける。

 それは古代より勇者や英雄が必ず経験する出来事の一つ。

 神に選ばれたことを示す儀式そのもの。

 では、この見窄らしく泥に塗れた少年が英雄なのだろうか。


「わ……若」


 甚八はそれ以上話すのを止めた。

 神託を受けたことなど雇われてから一度も聴いたことが無い。だが、今朝急に作戦を変えると言ってきたのも十兵衛であることは事実だ。

 無理矢理だが、一応辻褄は合う。

 だが、これははったりかもしれないし、嘘かもしれない。

 どちらにしろ、先ほどよりは生き残れる可能性がありそうだ。

 だから甚八は喋るのを止めて、オルデガルド帝国の四人組の動きだけを注視した。


「エスメラルダ、信じられるのか?」

「真に受けてはなりません! 異教徒が命欲しさに神を語っているだけです!」

「アマダ! エカチェリーナ! ちゃんと警戒して! 私たちは神を見たことがないのよ! 判断するのはエスメラルダだけよ!」

「三人とも、私を信じて動かないで。この人は間違いなく神様と話したことが……神託を受けているわ」

 

 エスメラルダは駆け寄ってきた仲間たちを片手で制しつつ、十兵衛を睨む彼女の視線は剣呑さを増した。


「そして、……

「お前個人には恨みは無いが、そうすればあのクソ野郎が困るからな」

「――神様よりも普通の人々が困るのよ!」


 直後、十兵衛に叩き付けられる嵐のような魔力と殺意。

 聖騎士が怒りに我を失いかけるのも無理もない。

 エスメラルダは家族や人々を守るために神に力を求め、それを与えられたのだ。

 そして彼女と同質の力を持つ藤亜十兵衛という少年。

 彼は界獣との戦いが差し迫っていることを分かっていながら、大太刀を振り下ろしたのだ。

 人類、いや生きとし生ける物すべての敵である界獣の脅威を認識しながら。

 しかも自分と同じように神からの神託を受けていながら、だ。

 人類に対する明確な裏切り行為。

 それが聖騎士である少女、エスメラルダ・パラ・エストラーダを激昂させた。

 だが、藤亜十兵衛はそれで怯むような男ではない。

 物理的破壊力を伴う魔力を、皮肉げな表情で誤魔化しながら何事も無かったように受け流す。

 それから獣のように血走った眼で、肩に担いでいた大太刀の切っ先を静かに向けた。


「一時停戦はこちらの条件を飲んだら受け入れてやる。気に食わないならそれでいい。殺し合いなら、さっさとやろうぜ」

「………………」


“それを必ずや討ち滅ぼせ。お前の仲間と、――”


 エスメラルダの脳裏に神の言葉が蘇る。

 今は信じたくない。

 この少年を信じたくない。頼りたくもない。

 だが、あの神様は軽薄ではあるが嘘を吐いたことは一度も無い。

 彼女は目を閉じながら深呼吸を始めた。

 ゆっくりと何度かそれを繰り返してから、再び十兵衛を睨み付けた。


「条件は何?」

「俺と部下数名の命の保証」

 

 少女の瞳が蔑みに満ちたものに変わる。


「部下だけ? 一緒に戦っていた味方を守る気はないの?」

「無いね。どうせ、もうすぐ界獣と戦うんだ。辺り一面地獄に変わる。何人名前を挙げても意味は無い。守りたいのは数名だけだ」

「……良いわ。その条件で折り合いましょう。あなたとその数名は界獣との戦いが終わっても殺さない」

「口約束だけか」

「私が保護対象を視認できない以上、誓いゲッシュの類いは効力を発揮しない。書面で残しても良いけど、流石に今は羊皮紙も紙もないの。そちらで用意してくれる?」

「じゃあ、用意できたら書いてもらおう」

「念のため確認するけど、界獣を倒す気はあるの?」

「お前を殺したら逃げる気でいたが、こうなった以上界獣を撃退するのが最善だろうな。ああ、一応言っておく。界獣との戦い後、暫くの間はお前たちがどんなに瀕死の状態であろうと襲わない。それは信用しろ」

「殺されないだけの話で監禁されそうな勢いだけど……言葉だけであなたを信用しろと? 虫が良いとは思わないの」

「武士に二言はない。そして宣言した以上、それを反故にするのは俺の矜持に反する。信用したくないなら信用しなくてもいい」


 十兵衛が切っ先を下ろすと、エスメラルダは半透明の障壁を解いた。

 無言で差し出されたエスメラルダの右手に気付き、十兵衛は怪訝そうに首を傾げた。

 そんな様子を気にすることなく、エスメラルダはさらに右手を前に出した。


「握手ぐらいはしておきましょう」

「おい、お前らのボスはお人好し過ぎるぞ」


 呆れた十兵衛は一度は殺そうと追いかけた弓兵――リリアーヌに同意を求めると、彼女は肩を小さく竦めた。


「握手ぐらいはしてやって。加護を過信して私の言うことは半分しか聞かないの」

「アンタもお人好しだな」

「いいから、握手をしましょう」

「ちっ」


 再び出されたエスメラルダの右手に、根負けした十兵衛が嫌々ながら応じると――――。

 滝のような雨が唐突に止んだ。

 横殴りの風が止む。

 雨雲が途切れ、暖かな日が差し込み、春の微風がエスメラルダと十兵衛を中心に撫でるように優しく吹いた。

 あり得ない。物理的に有り得るはずがない。

 急変する天気。

 夢物語のようにぬるい空気。

 異様さに警戒し始めた十兵衛たちに、突如天空から目映い光と共に男の声が鳴り響いた。


「――――コングラチュレーション!!! ウェルカム・トゥ・ザ・ニューワールド!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

早死にした俺の異世界転生先が楽園だとは限らない 筋属バット3号 @KEN-GO_type08

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ