Brand New Green

水澄

第1話

 駅へと続く緩やかな上り坂を、ゆっくりと上っていく。

 時折吹く風が街路樹の間を抜けては、私の髪を揺らしていく。そして、その風はあちこちに残る水溜りに映りこんだ空の画を震わせては、その縁に淡いピンクの堤防を作っていく。


 昨日、雨が降った。夜半から降り出した雨は夜の遅くにかけて強まり、強風も伴ったその雫はざあざあと窓にうるさかった。それでも夜が明けるころにはその雨も止み、午前九時を過ぎた今では快晴とも呼べるほどの清々しい青空が広がっている。

 後に引きずることのない、まこと春らしい雨だ。

 ふと足を止めては陽気に誘われるままに街路樹を見上げてみる。すると、昨日まではあったものは既になく、代わって、足元の水溜りにその名残を見ることができる。今もまた、風に吹かれては惑う花びらが流されて、たどり着いた縁にて幾重にも積み重なっていく。

「やっぱりみんな散っちゃったか」

 散った枝ぶりに覗く新緑の芽吹きを見ては、そう呟く。

 降り出してから半日にも満たなかった、僅か数時間の雨。それでもしかし、目に映る世界をがらりと変えてしまったその雨に、季節の幕間を感じずにはいられない。


 今年の開花宣言は、三月の半ばを少し過ぎた頃だった。

 その後は全国的に好天が続き、桜前線は順調に北上。つぼみは一輪、また一輪と花開き、春分の日を過ぎた頃には五分咲きを超えていた。そうして翌週の土日には晴れて満開を迎え、点在する桜の名所はたくさんの人手で賑わった。

 明けて翌週の金曜日、散りだしつつもなお一層の美しさを称える桜木に、無情にも雨は降り注いだ。未だ七、八分は残っていた花弁はことごとく叩き落され、今日の日の地面を桜色の斑模様に染めている。

 この週末に花見の予定を立てていた人や、そうでなくとも出がけに眺める桜並木や、華やかな桜色の車窓風景を楽しみにしていた人たちは多いだろう。昨日の雨は、そんな人々の期待もまた洗い流し、その殆どを諦念のため息へと変えてしまったのだ。となれば、その春雨はさしずめ無情の雨といったところなのであろう。

 ならば私はどうなのか? 再び歩を進めつつ思うに、案外にそうでもなかったりする。


 花は散るから美しい、とは誰の言葉だったか――そして、多くの日本人にとってのその花とは、きっと桜であるのだろうと思う。

 桜吹雪なんて言葉もあるくらいだから、やはり桜、特にその散り際とは特別なのだろう。春の訪れとともに一斉に花開いては視界を覆いつくさんばかりに咲き乱れ、その後にパッと散る――その潔さもまた好まれる一因なのかもしれない。もちろん私自身、満開の桜並木は美しいと思うし、その散り際の情景もまた同じである。

 それを踏まえた上でも、私は葉桜が好きだ。それもまさにこの、花弁が散り落ちてから総じて芽吹きだす今が。

 ちなみにこの話を誰かにすると、それこそ皆一様に「なぜに葉桜?」と首を傾げられてしまう。かくいう夫もその一人で、まだ付き合いだしてすぐの頃、初めて二人で桜を見に行ったときにこの話をしたら「へえ、珍しいね」と驚かれてしまったのも、今となってはいい思い出だ。

「見事に全部散っちゃったね」

 私の数歩後ろを歩いていた夫もまた、春色の衣を脱いでしまった桜木を見上げてはそう声をかけてくる。

「うん、すごかったもんね、昨日の雨」

 振り返って答えた私の視線の先で、それでも彼は柔和な笑みを浮かべている。それはつまり、彼もまたこの景色を、私と同じように感じてくれているということであり、そのことがたまらなく嬉しくなる。

 散るは即ち終わりではなく、始まりなのだと。

 いつかの公園の遊歩道で葉桜が好きだといった私に、当然彼は「でも、なんで?」と尋ねてきた。だから私は答えたのだ。「だって、そこから春がはじまるから」と。


 季節の変わり目に、線を引くことはできない。なぜなら季節とは絵本のページをめくるように突然切り替わるわけではなく、西の空が夕焼けに染まるように日々少しずつ移り変わっていくものだからだ。

 だからこそ私たちは、古来より日々の暮らしのあちこちに隠れた次の季節の断片を見つけては、その大きな流れの現在位置を感じ取ってきた。

 季節の断片、それは季節がくれる便りといってもいいだろう。ある日突然届いては、見つけた私たちに訪れを知らせてくれる。ただ、その便りは誰もがわかるほどに大々的に届くものもあれば、まるで英国紳士の気遣いのごとくにさりげなく、そうと意識しなくては気づけないものもある。

 花の便りもその一つだ。とはいえ、それらはポストに届くでもなく、ましてやインターフォンを押してくれるわけでもないので、こちらから探しに行かなくてはいけない。しかし、その一手間さえ厭わなければ、季節は四季折々の彩で私たちの目を楽しませてくれる。

 例えば冬の頃。モノトーンに染まる冬の町の生垣で、寒椿が鮮やかな八重咲の花弁を広げてくれる。視線を下げれば、足元では水仙が身を寄せ合って控えめな美を添える。

 例えば雪解けの頃。紅白の梅の花が目にもめでたいコントラストで賑わえば、道路脇や公園で雪柳が柔らかな白で世界を彩ってくれる。

 桜賑わう頃なれば菜の花が黄色い絨毯で地を埋め尽くし、羽化した蝶たちのデートスポットとして賑わっている。いよいよ春なればと出かければ、車窓に見える中央分離帯の生垣にはこれでもかとツツジが咲き誇り、その葉の隙間からは潜望鏡よろしく鉄砲ユリがにょきりと首を伸ばして辺りを見渡している。

 GW《ゴールデンウィーク》の予定を立てては指折り数える頃には、碧々と茂った山肌で藤の花が宝石のような輝きをもって揺れている。ちょっと水辺に足を伸ばせば、国宝にも描かれた燕子花が凛とした佇まいを見せてくれる。

 難しいことなどなにもない。ほんの少し、それこそ誰もが通り過ぎてしまうところで立ち止まり、目の前以外にも視線を向けるだけでいい。たったそれだけで、季節の声を聴くことができるのだから。


 桜が咲き、花が散る。これをもって春が来たという人はとても多いし、その気持ちも理解できる。

 桜は――特にソメイヨシノは日本中至る所に植えられていて、その時節とあればどこでも見ることができる。それに小学校から大学までのほとんどの敷地に植えられていることもあって、もはや卒業や入学と桜はセットになっているといってもいいだろう。事実、私の高校の入学式の写真にも満開の桜が写っている。

 そんな、新年度の訪れを知らせる花。春という季節を華やかに告げる花。

 実に素敵な話なのだが、私としてはそれだけをもって春だとしてしまうのは少しだけ違う気がしてならない。

 思うに、春というのはとてもお喋りなのだ。これは、その前の冬がとても寡黙なので余計にそう感じるというのもあるだろう。でも実際、春はそれこそ雪もまだ溶け切らないうちから顔を覗かせては、あちこちに便りを残して、早く気づいてとばかりに声をあげている。

 そして、そんな主人公気質な春だからこそ、その登場はど派手にいきたいと考えたのだろう。オープニングセレモニーで花火が上がり、格闘技の選手入場でテーマ曲が流れるように。

 だからこそ、桜が咲くのだ。それも、列島を埋め尽くさんばかりに一斉に。

 それはまるで重賞発走前のファンファーレの如きであり、そうして市井の注目を一身に浴びた上で、いよいよ満を持しての登場となるのだ。そして、ファンファーレであるなれば、華やかでありこそすれ、長すぎてはいけない。だから、後引くこともなく潔く散っていく。

 ちなみに春は、時たまこのファンファーレすらフライング気味に発することがあり、だからこそ花冷えなんてものがあったりする。

 さて、荘厳なファンファーレも鳴りやんだ今、残る号砲に駆けだす春はどこにあるのか? その答えは、やはり桜の木の枝先にある。そう、葉桜だ。

 高くなった日差しのもと日一日と葉を茂らせ、真新しい緑に陽を受けてはキラキラと水面のようにきらめいて、ざわざわと身を揺らして耳に賑やかさを連れてくる。そうして、先に続く季節の先鋒として街角のあちこちに色と光を添えていく。

 私は、そんな賑わいにこそ春を感じてしまうし、またそれを感じさせてくれる葉桜をこそ好きなのだろう。


 彼が追いつくのを待って、再び歩き出そうとしたところ、そんな私を引き留めるかのように左手がくいくいと引っ張られる。何事かと目をやれば、手を繋いだ娘が足元の水溜りに触れたくてか私を引っ張っている。

 どうして子供はみんな、水溜りが好きなのだろう? かつての自分もそうであったはずなのに、大人になってしまった今となってはその理由を思い出すことができない。

 娘が見ているのはそこに浮かぶ花びらか、それともそこに映った自分自身か――空いた左手を伸ばしてそこに触れようとパタパタと動かしている。その様子に私は並んだ夫と目を合わせては笑みを交わし、それから娘の名を呼んで「よいしょ」としゃがみ込む。

 春に生まれたこの子も、もうすぐ二歳。人生二度目の桜の時を、来年のこの子は果たして覚えていてくれるだろうか?

 しゃがみ込んだ私に気づいた娘は手を止めると、私に振り返って満面の笑みで抱き着いてくる。その身を全身で受け止めては、両腕で抱きしめたままに「それ」と抱えて立ち上がる。一気に持ち上げるにはなかなかに重たくなってきているが、我が娘なればその重たさこそが愛おしい。

「代わろうか?」

 私が少し重そうにしていたからだろう、彼に聞かれるも、私は笑顔で「大丈夫」と返す。それから手近な高さの枝を探しては、彼に言う。

「この子にも、春を見せてあげようかと思ってね」

 そんな私に彼は一瞬キョトンとした表情を見せるものの、すぐに思い至ってか頭上を見上げ、「ああ、そうだね」と微笑む。

 それから彼もまた娘に寄り添うと、私たちは「ほら、見てごらん」と促してから抱き上げた娘をさらに持ち上げる。当の娘はというとニコニコと笑っていて、それから何かに気づいたように手を伸ばしては、それに触れる。

 娘のぷにぷにとした短い指の先で、真新しい緑が揺れている。

 今年もまた、春がはじまる。

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